移民:メープルシロップ・アンド・ベジタブル味です!
特務官の任務は多岐に渡る。
対ミダス体戦闘、シンギュラリティ犯罪者の追跡。
その他には〈大崩落〉以前の遺物回収など。
機関最上層部の『七賢人』が必要と認めた問題に、投入される戦力――それが特務官だ。
特務部は四、五人ほどのチームに分かれている。
このチームが『分室』となるのだが、第九分室は特例的に二人しか配属されていなかった。
ルセリアが受けた説明によれば――
技術研究所から派遣されたオペレーターの力を試す、実験運用部隊として新設されたのだとか。
兵器でも能力者でもなく、オペレーター。一体どういうことなのか。
途方もない不安を抱きつつも、チームを組んで一年。
ルセリアは実家から分室宿舎に移り、彼女と共同生活を送っている。
宿舎は、住宅街に元からあった一軒家を改造した建物だ。
長屋街から帰還したルセリアは、地下車庫に〈プロングホーン〉を乗り入れる。
白い乗用車の隣に停めると、床に埋め込まれた回転台がマシンの向きを反転させた。
壁に格納されていたメンテナンスロボットが現れる。多腕を伸ばし、車体の洗浄やバッテリーの充電を行ってくれる働き者だ。
ロボットの作業を横目に、ルセリアはクロークを洗浄機に放り込んだ。
大抵の戦闘服には付着したミダス細胞を焼くための通電機能が備わっている。それによってミダス体の二次発生は防げるのだが、念には念を、である。
タクティカルグラスは腰のベルトポーチへ。
ベルトは胸下のハーネスだけを外す。
そして、顎を軽く上げながらスーツ頸部のスイッチに触れる。
繊維の収縮は、コンピューター制御によって、装着者の体格に合わせて調整されている。前を留めるファスナーも同じで、自動でかちかちと音を立てて外れた。
黒いハーフトップインナーと白い腹部が明かりに晒される。
窮屈さから解放されたルセリアは、頭上で手を組み、ぐ、と背筋を伸ばした。捜索目標が見つかるまでの、ひとまずの宿舎待機時間だった。
階段を上がって一階廊下に出ると、
「おかえりなさい、ルーシーさん」
奥の部屋からエメテル・アルファがスリッパをぱたぱたと鳴らしながら出てきた。
十五歳という年齢よりも、いくらか幼く見える少女である。
瞳の色は宝石のように澄んだ緑で、金髪をシニヨンに結っている。
長く尖った耳の持ち主で、その左耳にカフ型デバイスを着けている。
あらゆる受信データを電気刺激に変換し、脳の感覚野に伝達するための装置――とはいうが、それをただの人間であるルセリアが着けてもただ耳に痺れを感じるだけだ。
エメテルは遺伝子改造を受けて生まれた『フェアリアン』という人種なのである。
初めは笑顔で出迎えてくれたエメテルだったが、その明るさが精一杯だったかのように、見る見る翳ってしまう。
ルセリアは、おや、と俯き加減のエメテルを見つめた。
「どしたの?」
「すみません。私がもっと早く警告できてれば、ルーシーさんをあんな危険な目に遭わせなかったのに……」
少女に擬態したミダス体のことを言っているらしい。
ルセリアは苦笑し、エメテルの肩に優しく手を乗せる。
「ミダス体かどうかは体温によって判別される。あれで『もっと早く』は難しいわ。それにあいつが間に入らなくても、対処は十分間に合ったはずよ」
「ルーシーさん……」
まだ表情の暗い彼女の肩を、ルセリアはぽんぽんと軽く叩いた。
「まだ何も食べてないんじゃない?」
「あ、いえ……ちゃんと取りましたよ」
「とか言って――」
ルセリアは廊下の奥、ガラス張りの壁で仕切られた部屋を覗き込んだ。
そこは第九分室のオフィスになっている。
窓はないが広い部屋で、ソファとガラステーブルが中心に置いてある。壁にはブリーフィングモニターが埋め込まれていた。
二人が後から注文して取り寄せたスチール棚には、電気湯沸かし器とカップ、インスタントコーヒーの粉とティーバッグ、砂糖とミルクのポットが置いてある。
ブリーフィングモニターの横、部屋の角を制圧している黒い大型デスクは、それ自体が情報収集や分析などの高負荷処理に耐えうるコンピューターだ。
そのデスクに、ポテトチップスの袋が置いてあった。開封された口の部分は丸めるように畳まれている。
ルセリアは、まったく、と腰に手を当てた。
「頭は機械じゃないんだから、油を差したって回らないのよ?」
特務官にとって『頭が回らない』は比喩ではない。
シンギュラリティの発動には、『生体のエネルギー通貨』といわれるアデノシン三リン酸の消耗を伴う。
連続使用は衰弱死のリスクもある。特務官ならば補給剤を携帯するが、それよりもまず、日頃の健康維持が重要だ。
正確にいえば、エメテルはシンギュラリティ能力者ではないのだが、脳を酷使するのは変わらない。
そんな彼女の言い分が、これだ。
「よく見てください。メープルシロップ・アンド・ベジタブル味です。万能栄養食っ」
「……絶対違うでしょ。『味』ってついてるだけじゃない」
「ちゃんと粉末がまぶしてあるんです。それにおいしいんですよ。ルーシーさんも食べてみてくださいっ」
エメテルが袋の口を大きく開けて差し出す。期待に満ちた眼差しとともに。
ルセリアは渋々とポテトチップスをひとつまみ、口に放り込んだ。
咀嚼。緊張していた眉がわずかばかり緩む。
嚥下。しかし無表情のまま。
「あ、ホントね。まあまあ」
「まあまあ?」
「思ってたよりかはおいしかった」
「よりかは?」
「でも、朝食にはならないわ。没収」
「あう」
ルセリアは取り上げた袋を棚に戻し、ウェットティッシュで手を拭く。
その背中を睨み、エメテルは恨めしそうに唸るのだった。
「ルーシーさんだってアレを飲んだだけじゃないですか」
「ミックスジュースね」
「……あの黒くてどろどろした液体が、ですか?」
「誰がなんと言おうとジュースよ。そう思わないと飲めなくなる」
「それはそれで、興味あるんですけど」
「……や。普通にまともなもんを食べなさいよ」
エメテルの嗜好は、自身が持つ共感覚への好奇心から始まったものだという。
味覚への刺激が色となって見える。あるいは音が聞こえる。そうした感覚がどのように現れるのかを試しているらしい。
ルセリアにいわせれば単なる強烈な食べ物好きである。
ウェットティッシュをゴミ箱に放り投げ、まだ終わっていない任務を話題にする。
「で、あのイナミってのが何者か、分かった?」
「はい!」
エメテルは黒革張りのオペレーターシートにぽすんと腰を下ろした。
誰も触れていないのに、モニターには複数のウィンドウが表示される。エメテルがデバイスを通じて念じたのだろう。分室宿舎のシステムは全て意のままなのだ。
プロフィールデータや姿の映っている監視カメラの映像――
この短時間で、それもちらりと男が画面に入り込んだ瞬間を探し当てられたのは、エメテルの能力があればこそだ。
通常、人は注意によって情報の取捨選択を行っている。ひとつの物事に集中しているときは他の物事に気を配れないということだ。
それをエメテルは、選択することなく情報全てを認識できるのだ。
〈並走思考〉――遺伝子改造によって得た能力である。
小さな超人は、シートを回転させることで振り向き、ルセリアを見上げた。
「彼のフルネームは、イナミ・ミカナギ。市民ではありません」
映像は、都市を巡回する〈ハニービー〉が偶然撮影したものだった。
歩行者の多い通りで、灰色のダウンジャケットを着た黒髪の青年が拡大される。
イナミが人間と分かって、ルセリアは肩の力が抜けた。
プロフィールにシンギュラリティを有していないと記載されているので、あの外骨格はディスチャージャーを搭載した装備だったのだろう。
となると、どこで開発された装備なのかが問題になるが――
年齢は二十歳とある。精悍な顔立ちながら、目つきが暗澹としている。
似ている目を知っている。
三年前の夜、鏡に映った自分がそうだった。
ルセリアは心に薄ら寒いものを感じ、ソファに腰を下ろした。少ししてから、思い出したように足を組む。
「市民じゃないってどういうこと?」
「内務局での移民手続きが途中で止まってるんです」
「『移民』って――〈アグリゲート〉の外から来たって言うの?」
などと、驚きのあまりに当たり前のことを訊いてしまった。
この都市は元々、移民の『集合体』だった。
彼らは長らく〈大崩落〉後の荒廃した大地を彷徨った末、土壌汚染が進んでおらず、生きているプラントがあるこの場所に定住を決めたのである。
それも百年以上昔のことだ。
ミダス体が闊歩している今、移民が独りで生き延びてきたなんて話は、にわかには信じられないものだった。
エメテルも硬い表情で頷く。
「一週間前、旧市街地に『漂着物』が落下。予測地点に到着した回収班がイナミさん、及びミダス体と遭遇したとのことです」
「……なんというか、色々鉢合わせって感じ?」
「はい。この漂着物もいわくつきみたいです。天体観測所は大気圏突入直前に初めて発見したらしくて、向こうではちょっとした騒ぎになったとか」
「珍しいわね。観測所が見落とすなんて」
「というより、ありえません」
それこそ珍しく、断定的な物言いだった。
漂着物とは、およそ二百年前の〈大気圏外戦争〉中に破壊された船、基地、衛星などの、重力に引かれるがまま地上へ落下した遺物のことだ。
戦争末期、中でも巨大な漂着物群が、地上に大打撃を与えた。
それが〈大崩落〉である。
天体観測所は、未だ宇宙を漂流する遺物を監視し、都市に直撃する物体を速やかに発見、対処するための、ラボに属する施設だ。
そこに、エメテルと同じプロジェクトで生まれたフェアリアンが勤務している。姉妹も同然だ。それゆえの『ありえない』という信頼なのだ。
「結局、漂着物は発見できなかったそうです。ミダス体に奪われたと思われますが、おかげで何もかも分からずじまい。回収班は代わりにイナミさんを保護。検疫のために隔離施設へ移送してます」
そこで、エメテルは誰かに盗み聞きされているわけでもないのに声を潜めた。
「不思議なことに、ラボの検疫結果は何一つデータバンクに上がってないんです」
「……報告忘れ?」
「だったら、監査からしつこく追及されますよ。もっと上の判断で隠蔽されたとか……」
「七賢人?」
「な、なな、何か事情があるのかもしれないですよ!」
エメテルは自分が最上層部を疑っていることに気づいて慌てふためき、納得できていないルセリアを置いてけぼりに話を進める。
「な、内務局で移民手続きが始まったのは保護された翌日で、その日に隔離施設から仮住居に案内されてます。ただ、移住意志の最終確認になる本人のサインがまだみたいですね」
「ふうん。生活できるもんなの? お金が必要でしょ」
「ずっと昔に制定された移民手当が適用されてます。一か月は最低限の生活が送れるので、まあ、その間にお仕事を見つけてください、ってことですね」
「あれだけ戦えるなら、引く手数多だろうけど――」
腕を組んで、不機嫌そうに唸る。
「イナミはあの家で何をしてたのかしら」
「何かしらの物品を探し回ってたと思われます」
モニターに、現場のオドネル家が映される。
ミダス体が隠れていた二階は、平穏な日々を送っていたと夫妻が思い込んでいた昨日のままだ。
娘の部屋には子供用の小さな机とお絵かき用端末が置かれている。ベッドにはクマのぬいぐるみ。棚の上には端末で描いた絵を飾るためのフォトディスプレイがあった。大きな箱の中には色とりどりの知育玩具も。
「…………」
オドネル夫妻が娘をどれほど愛していたか、これだけでもよく分かった。
一方、イナミが動き回ったと推測される一階は、棚や引き出しが開け放たれている。とりわけ、デクスターの書斎と思われる部屋は徹底的に荒らされていた。
「初めはあてもなく探しながら、この書斎に行き着いたんじゃないでしょうか」
「あたしが突入したとき、イナミはデクスターのそばにいた。家探しの後だったのね。持ち去られた物は分かる?」
エメテルは緩やかに首を横に振った。
一週間前に〈アグリゲート〉を訪れたばかりのイナミが、デクスターのどんな所有物を狙う理由があるのだろうか。
いや、彼の言葉から推測するに――
「イナミはミダス体を狙っていたのかもね」
ルセリアはこれまで、ミダス体とは『人類を標的にした無差別殺戮者』だと思っていた。
だが、今回に限っては、なんらかの目的が垣間見えた。
エメテルもまだ確信を得ていない様子で頷く。
「気になるのは、『クオノはじきに見つける』という言葉ですね」
「クオノって、何?」
「こちらはデータバンクでもヒットせず、です」
機関のデータバンクは、あらゆる情報の貯蔵庫だ。
内務局の市民情報、特務官が持つシンギュラリティ、ラボの研究、警備局で捜査中の事件、はたまた今までに回収された遺物などなど。
ワードを打ち込めば、大抵の手がかりは得られるはずである。
特務官権限をもってしても情報が得られないのは、それが〈アグリゲート〉には存在しないものだからだ。
「何かの暗号名かしら。人間とミダス体とで分かり合ってるってのも変な話だけどね」
あのミダス体は、はっきりとイナミ・ミカナギ個人に対し、コミュニケーションを図っていた。
それも娘の人格ではなく、異なる人間――女性の穏やかな声とどこか不気味な口調で。
二重人格が現れるといった報告は、データバンクでも見たことがない。
「もしかして、あの二重人格を確認したの、あたしが初めてだったりする?」
「……そういうことになりますね」
青ざめ顔のエメテルが、怪談話を聞かせるように声を震わせた。
「ラボで噂があるんです」
「……あー、言いかけてたアレ?」
「はい。ミダス体はどこかの研究施設から脱走した生物兵器なんじゃないかって」
ルセリアは大して驚くこともなく、肩を竦めてみせた。
「それならあたしも聞いたことあるわよ。〈大気圏外戦争〉で使われる予定だった実験生物が生存者を襲いながら数を増やしてった……ってヤツでしょ?」
「あれ、知ってましたか」
妄想に傾倒した者が唱える『神が遣わした天使』説、あるいは『進化した人類』説、もっと飛躍した『宇宙人侵略者』説と比べれば、かなり現実的な想像だといえよう。
エメテルはシートから腰を浮かし気味に続ける。
「ただ単純に数を増やしたんじゃないとしたら、どうです?」
「どうですって、何が」
「ミダス体は木端微塵になっても、元の姿に再生できるでしょう? これは宿主の生体データを細胞核に保存してるからと推測されてます」
ルセリアは「ふうん?」と曖昧に頷いた。
ミダス体は尋常ではない再生力を持っている、という程度の認識で戦っていたので、考えたことがなかったのだ。
「じゃあ、複製された細胞核を交換し合ったり、あるいは生体データだけを送受信できる手段があれば、そこに含まれている人格の共有も可能かもしれない――って、ラボの人たちが話してるのを聞きまして」
今一つ意味が分からない。
そんなルセリアの表情から、エメテルは話が通じていないことを察したのだろう。
「たとえば、私がミダス体になって、ルーシーさんに細胞を移植したとします」
「……最悪の状況ね。手榴弾を起爆させる余裕はあるのかしら」
「そんな怖いことまで想像しないでくださいっ!」
むす、とエメテルが肩に力を入れる。
「そうじゃなくてですねー。想像が正しかったら、ルーシーさんの身体は私の遺伝子情報や記憶を持ってるってことになるんですよー」
それを聞いてようやく、ルセリアは「ああ!」と声を上げた。
「あのミダス体が別の人格で喋り出した謎の、説明になるわ、ね……」
不吉な連想に行き当たって、表情を硬化させる。あることに気づいたのだ。
犠牲者が増えれば増えるほど、『ミダス体』という総体は人類の情報を取り込んで膨張していく。
雪だるまのように。
あるいは機関のデータバンクのように。
ふと、イナミの激昂がルセリアの脳裡をよぎった。
『寄せ集めが、カザネの声で喋るなッ!』
「……カザネって人はきっと、ミダス体に殺されたのね」
同情的な呟きに、エメテルもしゅんと肩を落とす。
「カザネという人物についても情報は皆無です」
「イナミから事情を訊き出さないと何も分からないわね」
「もしくはデクスターさん一家の線から調べるか、です」
「そうね……」
ルセリアはソファの背もたれに体重を預け、思いを巡らせる。
元特務官は一体どのような秘密を抱えていたのか。
分かるはずがない。母親を訪ねてきたときの一度しか会っていない男の顔など、今朝の死体を見るまでおぼろげだったのである。ただ『おじさん』と呼んでいたことだけが記憶に残っていた。
エメテルが恐る恐るといった様子で尋ねる。
「ママさんとデクスターさん、同僚だったんですよね?」
「ママは、妹が生まれて三歳になった頃だから――今から十一年前ね。特務官を辞めたのよ」
「デクスターさんも十一年前に警備局の事務へ転属してます。シンギュラリティの衰えが理由だとかで」
「そうだったの? あたしが会ったときにはもう特務官じゃなかったのね」
子供心にはただ怖い男性と思っていたが、その印象を今になって考えてみれば、戦士の気風を纏った中年紳士だった。
それが事務仕事をしているというのは、意外だ。
「特務官を辞めた後に、『クオノ』とかいう機密に関わってたのかしら。だとしたら、七賢人はこの件についてとっくに把握してることになるけど」
「今のところ、指示は特に受けてませんねー……」
「まったく、情報共有を徹底させるなら、まず自分たちからしなさいっての」
それを聞いたエメテルはぎょっと顔を上げ、誰かの目がないかと部屋中を見渡す。彼女なら盗撮盗聴にすぐ気づきそうなものだが、とにかく七賢人には畏怖を抱いているらしい。
「し、七賢人様がお聞きになられたら、私たち怒られますよっ」
「下っ端の意見を直接聞いてくれてるんなら、ずいぶん懐の広い人たちじゃない」
「はあ……」
まだびくびくとしていたエメテルが、突然、「あ!」と声を上げた。
「イナミさんを発見しました」
モニターが、上空からのライブ映像に切り替わる。話している間も〈ハニービー〉全てをチェックしていたのだろう。
イナミは素顔を晒し、ダウンジャケット姿で歩いている。進路方向は仮住居のほうだ。
「現場からこんなに離れるまで見つからないなんて……どうやって逃げたんでしょう」
「さあ。外骨格もどこに隠したのかしら」
「……どうしますか?」
「もちろん捕まえるわよ」
勢いよく立ち上がったルセリアは獲物を見つけたネコ科動物のように唸る。
「人畜無害な市民のふりして……まだ面が割れてないと思ってるんだわ」
「了解しました。こちらの行動予定を報告。特に介入はありません」
「オーケイ。こっちの好きにやりましょ」
ルセリアはコンプレッションスーツのスイッチを再び入れた。
ファスナーがかちかちと音を立てて閉じ、伸縮性の生地が体型に合わせて調整される。
身体を軽く動かすと、コンピューターが締めつけを修正。少々きついが、苦しくはないという着心地に変わった。
外していた胸下のハーネスを閉じたルセリアは、確認するように小さく頷いた。
いつの間にか、エメテルがそばに立って準備を見守っている。留守番を命じられた子犬のように心配そうな目だ。
そんな可愛らしいパートナーに、ルセリアは笑ってみせる。
「行ってくるわ」
「いってらっしゃい、です!」
ぴしりと背筋を伸ばすエメテルに見送られてオフィスを出る。
その視線の届かない陰で、ルセリアはそっと笑みを消した。
時折、エメテルを実の妹のように錯覚するときがある。
今日はやけに三年前を思い出す日だ。
氷となって砕け散るミダス体。揺らめく炎のように立ち上がる二つの影。腕の中で震えるか弱い温もり。
そして、決断。
ルセリアは手のひらを額に押し当てた。
「今さら、何よ……」