遭遇:斬り刻む!
未来を切り拓く力、と彼女は言った。
だから、その力が世界の破滅を招いたのだとしても――
〇
早朝。
空に陽光が差し込み、藍色と茜色のグラデーションが描かれる。
大気圏外に形成された宇宙デブリ群の円環は、まだはっきりと見えていた。
やがて街並みに陰影がつき、屋上のソーラーパネルが煌めき出す。
聞こえてくるのは機械の稼働音だけだ。都市〈アグリゲート〉の住民たちはまだ眠りの中にあった。
イナミ・ミカナギは独り、ビルの屋上に設けられた給水タンクの陰から、その光景を見つめていた。
寒冷化が進んだ大地の朝は最低気温に達する時間帯だが、彼には凍えている様子がない。ダウンジャケットの下は、インナーウェアとデニムパンツという薄着であるにもかかわらず、だ。
青年には似合わない、女性用の黒縁眼鏡をかけている。実際、視力の衰えがないイナミには必要のない矯正器具である。
そのレンズを通して、視線は〈アグリゲート〉の中心に立ちそびえる巨塔に向けられていた。
人々が〈セントラルタワー〉と呼ぶ塔は、矢尻型の構造物で、全体の半分ほど地中に埋もれている。それでも、全高は地上二五〇メートルに達していた。
つまり、元々は地上人が建設した物ではない。根元の補強に加え、外壁から放射線状に伸びるワイヤーと支塔によって直立を維持している状態だ。
内部には稼働可能なエネルギープラントが存在している。太陽光発電技術が『復元』されるまで、人の暮らしはそれに依存していたという。
フロア構造も改修され、現在は『人類再興機関』の本部施設として再利用されていた。あの巨塔は〈アグリゲート〉の中枢にして象徴なのだ。
イナミには理解できない光景だった。
文明を破壊した『漂着物』だというのに、なぜ人々は恐れを抱かないのか。
吐き出した息が白く染まり、盆地に吹き込む風にかき消される。
『動き』を待ち続けること、数日。
突然、腕時計型情報端末が耳障りな通知音を奏でた。
イナミは黒縁眼鏡をインナーウェアの襟に戻し、リストデバイスに軽く指先で触れる。宙に赤色のホログラムウィンドウが投影される。
《警告。ミダス体の反応を確認。発生地域は――》
イナミはウィンドウを消し、示された地域へと振り返った。警告に叩き起こされた人々の悲鳴がここまで届く。
「必ず見つけ出すからな」
決意に満ちた呟きを残し――
助走をつけて屋上から跳び下りる。
短い黒髪がふわりと浮き、そして身体は重力に捕まった。
〇
そこは二階建て住居が横並びになった、煉瓦造の長屋街だ。
どこの窓を覗いても、呑気に朝支度をしている住民はいない。
ルセリア・イクタスは二輪モーターサイクルの速度を緩め、眼鏡型端末越しにそのことを確かめる。
「避難は終わってるわね」
対応が遅れれば遅れるほど、犠牲者も増える。
現れたのは、そういう類の凶悪な敵だ。
現場を包囲する警備局の兵士は、機械式甲冑とマシンガンで武装している。中には放電槍を携行する者もいた。
フェイスガードを展開し、素顔を晒している彼らの人種は様々である。
イヌの鼻を持つ者、ネコの目を持つ者、クマのように毛むくじゃらな者――
二百年前に世界を襲った〈大崩落〉以降、突然変異的な『分化』によって、他の哺乳類動物に似た形質を持つ人間が生まれるようになったのだ。
分化人の数はまだ市民の三割にも満たない。
その多くがなんらかの身体能力に恵まれている。兵士となれば精鋭だ。
一方、ルセリアは未分化人で、十六歳の少女である。
にもかかわらず、彼女の表情には畏縮の色がない。
歩兵輸送車の横に〈プロングホーン〉の名のついたモーターサイクルを停め、地面に颯爽と降り立つ。
その際に、白いクロークがするりと捲れた。膝に届く丈の長さで、背中には翼と矢尻を象った〈樹鏃〉の紋章が大きく入っていた。
外套の下には、圧搾強化服を着用している。
筋繊維の活動電位に反応して補助筋肉の役割を果たすスーツだ。
身体能力を格段に向上させる優れた装備だが、欠点がひとつだけあった。ルセリアには締めつけがきついのである。特に、胸と尻の辺りが。
スーツの上にフルハーネスベルトを装着し、各種道具を携帯している。レッグホルスターにはハンドガンを納めていた。
ルセリアが包囲に入っていくと、兵士たちの視線が集まる。
確かに彼女は美少女だ。
自信に満ち溢れた琥珀色の瞳、鼻筋が通った顔立ちには、自然と目を引く力強さがある。
赤みがかったブルネットの長髪をサイドテールに結い、白いうなじを披露している。見入る者には、挑発的な艶めかしさと年齢相応の無警戒さ、両方を感じさせた。
だが、彼女が注目される理由は、クロークにあった。
形の異なる兜を着けた兵士――隊長の横に、ルセリアは身構えず並ぶ。
「お疲れ、ヤシュカ」
声をかけられた褐色肌の女性隊長がわずかに振り向いた。細目だが、ライオンのような金色の瞳の持ち主だ。
ヤシュカはくすりと微笑んで応える。
「やあ、ルセリア。寝癖ついてるぞ」
「……跳び起きたのよ」
ルセリアははねた髪を手で押さえつけてみるが、全くの無駄だった。やがて諦め、むすっとした顔でリストデバイスから身分証を投影する。
「特務部第九分室所属、ルセリア・イクタス。状況を説明して」
「了解。特務官どの」
ヤシュカが形式的な挨拶を区切りに、笑みを消した。
特務部と警備局は〈デウカリオン機関〉の部局だ。
特務官が出動する場合、警備局の兵士はサポートに回る規定となっていた。
「初めは隣人の通報だ。男の叫び声と物を引っくり返す音が聞こえたってね。そのときにはもう『ミダス体』と交戦していたようだ。すぐに異常熱源が感知された」
「交戦、ね」
「引退した特務官だと聞いているけど、何か知っているかい?」
「デクスター・オドネル。ママの同僚だった人よ。あたしも一度会ったことがある」
それを聞いたヤシュカがわずかに目を伏せた。アーマーの前腕部に埋め込まれた端末に指を滑らせ、ウィンドウを投影する。
「この家に住んでいるのは夫婦と娘の三人。熱源感知後に飛び込んだ〈ハニービー〉が夫婦の死体を確認している」
警備局所有の羽虫型偵察機、〈ハニービー〉が血の海に沈んだリビングを記録していた。
四十代男性のデクスター・オドネルは腹を裂かれ、その妻は夫の死体を抱きかかえながら背後から胸を突き破られている。
ルセリアは思わず眉をひそめる。
一拍の間。
「……子供は無事なの?」
「未確認だ。ミダス体もね。途中で邪魔が入ったんだよ」
「邪魔?」
映像の中で、窓の割れる音がした。
〈ハニービー〉が移動すると、家屋の裏手から侵入してきた黒い影と鉢合わせる。
「――何こいつ」
ヤシュカは答えない。彼女も分からないのだ。
その影は人型だ。が、なんと呼べばいいのだろう。
全身は漆黒の外骨格に覆われている。
明らかにデザインされた金属装甲だが、バッテリーやアクチュエーターなどの内部機構を持つパワードアーマーと比べると段違いに細身だ。
もしかしたらコンプレッションスーツかもしれない。よく見れば、使用者の動きに応じて装甲の一枚一枚が蠢いている。
――うん、無理があるわね。
ルセリアは慎重に観察を続ける。
フェイスマスクには目の覗き穴や呼吸口がない。
後頭部からシロヘビ柄の太いケーブルをだらりと生やしている。その末端には三又プラグが備わっていた。
全身に走るトライバルタトゥーじみた紋様が、ゆったりとしたリズムで青白く明滅している。
機械と生物の融合体。
そんな印象を受けた。
直感的にあれとは違うと思いながらも、ヤシュカに確かめる。
「こいつがミダス体じゃないの?」
「いや、〈ハニービー〉の熱探知じゃ、こいつは異常熱源と認識されていない」
〈ハニービー〉はかすかに羽音を立てて飛行する。
その音で、機械生物がこちらを向いた――かに見えた次の瞬間、映像がぶつりと途絶えてしまう。
一目では、何が起きたのかさっぱりだ。
もう一度コマ送りにしてみると、機械生物が〈ハニービー〉を握り潰したことがかろうじて分かる。
だとしても不可解なのは、映像を切り取ったように機械生物の立ち位置が『飛んだ』ことだった。予備動作すら取っていない。
黙り込むルセリアの顔を、ヤシュカが覗き込む。
「一応訊くけど、特務官じゃないね?」
「こんなヤツ、知らないわ」
そう答えたルセリアは、タクティカルグラスの存在を意識して尋ねる。
「エメは?」
《私もです。加速系の『シンギュラリティ』にしては異常な瞬発力――それに、こんな装備はラボの試作品にもありません》
眼鏡の通信機能を介して、オペレーターのエメテル・アルファから返事があった。骨伝導を用いているので、彼女の幼さを残した声はすぐ横のヤシュカには聞こえない。
ルセリアは「参ったわね」とぼやく。
「最優先は、子供の安全確保とミダス体の殲滅。侵入者は第二目標ってことで、警備局はこのまま包囲をお願い」
前に出ようとしたところを、
「待つんだ」
ヤシュカに引き止められる。
「気をつけろ、ルセリア」
「分かってるわよ。得体の知れないヤツがいるんだから」
「そうじゃない」
と、年長の彼女は語気を強める。
「元特務官が殺されているんだぞ。だとしたら、子供が――」
その先を、ルセリアは遮った。
「可能性があるなら諦めたくないの。分かるでしょ、ヤシュカ」
「……ああ、私だってそうさ。突入準備は済ませてある。なんなら先行してもいい」
「心強いけど、特務官の役目よ」
ルセリアはやんわりと微笑む。それ以上、ヤシュカは何も言いはしなかった。
今度こそ敷地に踏み入る。玄関の階段を上がりながら、物音ひとつしない屋内に警戒を強める。
「誰もミダス体を見てないけど、もう逃げたのかしら」
《この包囲ですよ? そうは思えないですけど……》
困惑気味の声が返ってくる。
エメテルはタクティカルグラスを通じてルセリアと同じ物を見聞きしている。同時に、上空から見下ろす〈ハニービー〉の映像も監視中だ。
《どこかに隠れてるはずです。奇襲には注意してください》
「オーケイ。いつもどおり、サポートよろしく」
《了解です、ルーシーさん》
愛称で呼び合う仲のパートナーだ。独りで危険な場所に踏み込むのではない。そのことが心の奥底にこびりついた恐怖を紛らわせてくれる。
「じゃ、行くわね」
念のため後方にハンドサインを送り、腰のベルトから引っ張り出した有線カードキーをドアスロットに挿入する。
「開錠お願い」
言い終えるよりも先に、電子ロックが外れた。エメテルがキーコードを解析して開錠したのである。
ルセリアはドアをそっと開け、身体を滑り込ませる。
屋内はとても静かだ。ブーツの足音が響いてしまうほどに。
タクティカルグラスに警告が表示される。
鋭敏な知覚能力を持つエメテルが、動く者の気配を感じ取ったらしい。音の反射を利用し、壁を隔てた向こう側の様子がグリッドラインで示された。
そこはリビングだ。
例の機械生物が二つの死体のそばにうずくまっている。向こうもこちらに気づいたのか、さっと立ち上がって奥に逃げる素振りを見せた。
ルセリアは大胆にも部屋に飛び込み、両手で構えたハンドガンを突き出す。
「止まりなさい! さもなきゃ撃つわよ!」
装填されている銃弾に外骨格を貫く威力はない、と内心思いながら、態度は高圧的に、である。
意外にも、機械生物は素直に立ち止まり、こちらへゆっくりと振り返った。
異物感は映像で見るよりも強い。
外見は機械的なのに、生物の気配や息遣いをはっきりと感じさせる。
幸い、言葉は通じるようだ。
ルセリアは注意を機械生物に向けながらも、部屋の状態をざっと確かめる。
家具はことごとく破壊されていた。
ソファは引き裂かれて綿が飛び出ている。カーペットは血を吸って真紅に染まっていた。家族の写真を飾っていたのだろう、フォトフレームが床に落ちて割れている。拾って棚に戻してやりたいが、今は無理だ。
死体が機械生物に荒らされた形跡はない。
子供の姿は見当たらなかった。別の部屋か、二階だろうか。
《侵入者さんの熱、すごく高いです。どうしてミダス体の判定が出ないのかってくらいに》
エメテルの声を聞いて、ルセリアは再び意識を機械生物に集中させる。
「あんた、何者?」
「…………」
「あたしは特務官のルセリア・イクタス。特務官は分かるわね?」
「…………」
「どういう状況か分かってないの? はっきり言って迷惑この上ないんだけど」
「…………」
機械生物は呼吸を整えるように肩を上下させるだけで、指先はぴくりとも動かさない。顔がないので表情を読むこともできなかった。
――確かに『止まれ』とは言ったけど。
ルセリアは苛立って声を荒げた。
「なんか言ったらどうなの!? 特務官には障害を排除することが許されて――」
膨らませた敵意に対し、
「この二人を殺したのは俺ではない」
機械生物は青年の声で答えた。
ルセリアの中で、『機械生物』の呼称が『外骨格男』に修正される。試しに挑発してみることにした。
「あんたが、ミダス体?」
「……俺をヤツらと一緒にするな!」
外骨格男は、先ほどの沈黙から打って変わり、激しく否定した。体表面の光までもが輝きを増す。興奮度が反映されているのだろうか。
挑発に乗ったと言えなくもないが、その感情表出はルセリアを逆に戸惑わせた。
自分でもしまったと思ったか、外骨格男はもう一度言い直す。
「お前の敵は別にいる。俺が来たときにはどこにもいなかった」
ルセリアはハンドガンを構え直す。
「さて、どうかしら。市民だって言い張るなら、身分証を出しなさ――」
と、言葉を途中で呑み込む。
視界の端で何かが動いたのだ。
それは、外骨格男とルセリアの間にある『物』だった。
エメテルが緊迫した声で告げる。
《死体から新たな熱源を感知。『ミダスタッチ』を受けてますっ》
突如、絶命したはずの妻がかっと目を見開いた。濁りのない無機質なレンズのような瞳が、腕に抱いている物へと向けられる。
抑止する間もない。
妻は金切り声を上げながら夫の死体に覆い被さった。
慟哭、ではない。
二人の間から白煙が立ち昇る。その熱で肉が液状に融解するかのように、二人の頭と身体がひとつに合わさる。
そうして生まれたのは、人ならざる者。
四つ目の顔と二対の手足を持つ異形のクモだ。
「つくづく悪趣味ね……!」
驚異的な増殖力を持つ『ミダス細胞』の変異体――ミダス体。
人類を獲物とする殺戮者である。
何より厄介なのは、触れた者に細胞を移植し、その肉体を新たなミダス体へと変異させる拡散力だ。
ゆえに、接近させずに仕留めるのが最善。
だというのに、外骨格男がミダス体に向かっていこうとする動きを見せた。
「あんたはじっとしてて!」
ミダス体はこちらを向いている。狙いは自分だ。腕を広げて飛びかかってきた。
ルセリアは臆さずにハンドガンを連射して応戦。
反動はコンプレッションスーツの補助によって低減。狙いどおりに全弾命中する。
立て続けに頭や腕を撃ち抜かれたミダス体は、足の折れた椅子を巻き込んで倒れた。
それを見て、外骨格男が叫ぶ。
「こいつらには無駄だ!」
「……分かってるわよ!」
そう、人間なら即死だが、ミダス体はもう人間ではない。
「ア、ガ、アァ……」
天井を仰ぐミダス体の口から濃い白煙がもうもうと吐き出された。細胞が活発化し、体温がさらに急上昇したのだ。
体内に留まっていた銃弾が、蠢く細胞に押し出され、傷口からことんと床に落ちた。そうして傷は見る見る癒えていく。
ミダス細胞とはいうものの、つまるところは宿主の肉体を材料に自らの複製を組成するナノマシンなのである。
さながら身体を切断されても生き延びるミミズ――それも、千切れた尻尾からも頭部が生える種のようなものだ。
そんなナノマシンの群体であるミダス体が、脳や心臓を撃ち抜かれたところで、活動を停止するはずがない。
完全に『殺す』には、ナノマシン群を死滅させなければならないのだ。
それをその身一つで実行できるのが、特務官である。
射撃は決して無駄な行為ではない。ミダス体の体内組織は人間と同じ機能を持っている。脳や心臓の破壊は、死をもたらさずとも、一時的に動きを止めることができる。
その一時の猶予を使って、ルセリアは『力』を行使する。
重要なのはイメージの練成だ。
干渉する空間を大きな球体として『認識』する。
その球体を『圧縮』。
やがて球体は内に閉じ込めた力の反発によって『破裂』し――
仕上げにこれから起きる超常現象を『言語化』する。
「〈斬り刻む〉!」
その言葉を具現化するように、血でできた氷の剣が、ミダス体の胸を突き破った。
刃は一枚だけではなかった。
背中からも、腹からも、何枚もの薄い凶器が鋭利な切っ先を覗かせ、ミダス体の動きを封じる。
超常現象を引き起こす力――シンギュラリティ。
彼女の〈氷刃壊花〉は空間中の水分を凍結させる。
その力をミダス体の体液に作用させることで、刃がさらなる刃を生む連鎖反応を起こしたのだ。
ただ傷つけるだけではない。
凍結によって、ナノマシンを細胞構造から破壊する。
すなわち、ミダス細胞の『死』であった。
そうして薄い刃は花びらのように開き、ルセリアのシンギュラリティに与えられた名称のとおり、ミダス体を中心に氷の蓮花を咲かせる。
皮肉な名だ。
血肉を取り込んだオブジェに、華麗さなど欠片もない。
破壊を終えて崩れれば、たちまち氷が融け、室内に悪臭を充満させる。
今朝までは人間だったモノ。
だが、そう、これはナノマシンがこねくり回した成形肉に過ぎない。
ルセリアは目を背けることなく、冷徹に、破壊の結果を見届けた。