blue mint blue
人間の五感の中では嗅覚が一番強く記憶や感情と結びついてる。特定の匂いをかげば、それにまつわる記憶がよみがえる。
何でそんな話になったか忘れたけど、先生が授業中にそんな話をしてた。何気なくその言葉を走り書きしたノートを提出しなきゃいけなくなって、消してしまおうかどうか迷ってる。この程度の落書き、どうってことないだろうけど。
それって思い出したくない記憶も、思い出させるってことだよな。
馬鹿みたいにじゃれあったりして、なんだよあれ。
放課後の誰もいない教室の窓から、校庭で部活をしてる同級生の泉田を眺めるのは日課になっていて、それもあいつだってわかってるはずなのに。
同じ陸上部の女子に腕を組まれて引っ張られたりして、なに喋ってんだか分かんないけど馬鹿みたいに大声で笑ってる。おまえ長距離だろなにやってんだよ、校庭走ってろよ。あの女、おまえに気があるって見ればすぐわかるのに。ぎゃあぎゃあ騒いで、躾のなってない子犬同士の喧嘩みたい。あいつのああいうとこ、嫌だ。
口の中でゆっくり溶かしてた泉田に貰ったミントキャンディを、奥歯で噛み砕く。舌の上にはまだ冷たい感触が残ってる。
「まだ残ってたの?」
「泉田の部活が終わるの待ってんの」
担任の支倉先生が見回りにきた。ノート早く提出してね、と机の上のそれを指差す。
先生からは甘酸っぱい匂いがする。授業中より顔が近くて、自分が変な顔してないか緊張する。首筋から漂うその匂いを、少しだけ吸う。
「……先生って赤ちゃんの匂いがするね」
「うん? 家に幼児がいるからな。なんでそんなのわかんの」
「姉ちゃんが里帰り出産で今帰ってきてるから。赤ちゃんと同じ、ヨーグルトみたいな匂いがする」
「え、赤ちゃん産まれたの?」
「先週。女の子」
声にならない、という様子で驚いて、先生は隣の椅子に腰を下ろした。
「そっかー……亜子ちゃん、ママになっちゃったか……」
先生は大きくため息をつく。
「……賢太くんだって、もう結婚して子供いるじゃん」
僕の言葉に先生は目を見開いて驚いて、また深く息を吐いた。
「久しぶりにそう呼ばれて、びっくりした……」
そう言って顔をほころばせて、僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。あの頃みたいに。
初めて会った時先生はまだ高校生で、僕の姉の彼氏だった。何年も付き合っていて、家によく遊びに来ていて一緒にゲームもやってくれて、兄弟みたいに接してくれて。賢太くんのことが大好きだった。
大好きだったけど、初めからこの"好き"は報われないってわかってた。
頭の上の先生の手のひらが、重い。
「写真あるけど見る?」
僕が机の上の携帯電話に手を伸ばすと、いいよ、と遮った。
「なんかそういうの見たら、立ち直れなくなりそう」
「何言ってんの。とっくの昔に別れてんじゃん」
「いやー……だって俺が初めて付き合った子は亜子ちゃんだったからさ、やっぱり結構ショックだよ」
「姉ちゃんにそれ言おうか?」
「言わなくていいって」
あ、先生の顔。教壇に立つ"先生"じゃなくて。懐かしい"賢太くん"の顔だ。
二人が何で別れたのかは今もわからないけど、僕にはずっと優しい賢太くんだったから会えなくなることが悔しくて。自分じゃどうにもならないことってあるんだと知った。
淡い想い出として自分の中だけにしまっておこうと思ってたのに。
「おまえにこんな話するのもなんだけどさ、初恋とか、特別だろ」
知ってる。そんな気持ち、僕だってずっと前から知ってる。知らないのは賢太くんだけだよ。
出しちゃいけない言葉を飲み込んで、下唇を噛む。
「津島!」
校庭から僕の名前を呼ぶ声がする。窓の下を覗き込むと泉田がこっちを見上げてる。
「今終わったからさあ、もうちょっとそこで待ってて!」
僕を見上げて大声で叫ぶ泉田に、軽く手を振る。
「日が落ちるの早くなってきたから、気をつけて帰れよー」
先生を見ると、もう"先生"の顔に戻ってた。
しばらくして泉田が教室に戻ってきた。走ってきたんだろうか、息が切れてる。しかもシャツのボタンが一個ずれてる。
「さっき支倉と何話してたの」
「別に、なんでもない……」
「なんか凄い親しげだったんだけど」
「支倉のことは子供の頃から知ってるって前にも話しただろ。なんだよそれ」
「だって気になるじゃん」
そんなこと早口でまくしたてなくったっていいだろ。何にもないのに。
窓の外を横目で見ると、陸上部の女子達が棒高跳びのマットを運んでる。さっき泉田と話してた子もいる。
「……おまえさあ、さっき陸上部の女子と何やってたの」
僕の言葉に泉田は気まずそうにして上履きに視線を落とす。
「それはだって……なんていうか、カモフラージュっていうか? 冷たくするのも不自然だし」
突然ぎゅっと抱きしめられて、熱い体温を感じる。
肩に回された泉田の腕からは、汗と制汗剤が混ざった匂いがする。日焼けした腕の色、僕の腕とは全然違う。
「誰かに見られたらどうすんだよ」
「いいよ、見られても。津島が機嫌直してくれる方が大事」
「機嫌悪いのはおまえの方だろうが」
さっきカモフラージュとかくだらないこと言ってたくせに。どうしようもなく凡庸なことばかりするな、こいつは。
たとえば何年も経って誰か他の男の人の腕に抱かれた時に、泉田の匂いと違うなって思うのかな。この制汗剤の安っぽい匂いをかぐ度に、馬鹿で憎めない泉田のことや、今日のことを思い出したりすんのかな。
伝わってくる体温が熱い。熱くて、息が苦しい。汗と制汗剤の匂いに埋もれそう。思わず、身体を引き離した。
泉田は顔を曇らせて、僕をじっと見る。
「……あのさ、支倉のことまだ好き?」
言われたくなかった言葉に不意打ちされて、じわりと胸に焦りが滲む。
「何言ってんの? ただの先生と生徒だろ」
「だって、見てたらわかる……授業中とか支倉を見てる時のおまえの表情、違うし。俺はそれでも構わないから」
それでも構わないって、なんだよ。走ってきたくせに。ボタン段違いのくせに。馬鹿じゃねえの。そんな相手に何で優しく出来んだよ。
姉ちゃんの彼氏だってわかってたけど好きだった頃の自分を見てるみたいで、その必死さが馬鹿みたいで。どうしようもない気持ちになる。
……自分と同じだから、好きなのかなあ。自分と同じだから、報われて欲しいって思うのかなあ。
そんなの、どうしようもないのに。
先生の匂いは他の男の先生達と違ってたから、凄く好きだったのに。姉に子供が産まれてあの匂いの正体が分かった時、もう一度失恋した。
姉ちゃんと別れて家に遊びに来なくなった時。左手の薬指に気付いた時。こういう気持ちはきっと、何度だって襲ってくる。
最初から失恋してたけど。これからもきっと僕は、先生に何度も恋をして何度も失恋し続ける。叶わなくてもいい、何度失恋してもいい。先生のことは、一生好きでいたいと思える相手なんだ。
本当はわかってる。いつまでも先生のことを引き摺っていられないことを。
今目の前にいる相手を大事にしなきゃいけないってことを。
それでもあの匂いが、思い出せって言うんだろう。賢太くんが大好きだったこと。高校生になって再会して嬉しかったこと。質問があるって先生に近づいて、間近で顔を眺めながらあの匂いをかいだこと。きっと全部思い出す。
「……キスしていいよ、今」
僕の言葉に驚いたのか、泉田は視線を逸らすように落とした。
「誰かに見られたらどうすんだよ。それはさすがに、やばいって」
「いいよ、誰に見られたって。しようよ。そしたら機嫌直す」
ボタンがずれたシャツの裾を引っ張ると、泉田はうろたえながら僕の腕を掴んで屈んで、机の下に引っ張り込まれた。大丈夫? 本当に大丈夫だよね? と誰もいない教室を見回す。こういう必死なとこがかわいくて好きって言ったら怒るかな。
少し頬を染めながら僕の首筋に手を添えて、ゆっくりと唇を重ねる。荒れた皮膚が擦る感触が心地いい。唇をこじあけるように隙間から舌を差し込んで、唾液を混ぜる。舌先でゆっくり歯の裏や舌の輪郭をなぞると、うなじや耳に触れている泉田の指が強張っていくのがわかる。
唇を離すと、泉田は顔を真っ赤にして椅子の座面に顔を伏せた。
「津島、あの飴舐めた? これ結構ミントきついよね」
キスなんか何度もしてるのに、その度に緊張して赤くなって、照れ隠しなのか変なことを言い出したりして。そういうこと一つ一つを愛おしいって思う。
でも、先生とはきっと一生こんな風にこんな距離で交わることはないんだろうな。ずっと近くて遠いままなんだろうな。
ふいに涙が込み上げてきて、抑えきれなくなった。泣くつもりなんかなかったのに。
「どしたの」
「なんでもないよ。ちょっと疲れて眠いだけ」
シャツの裾で涙を拭って、僕の頭をぎこちない仕草で撫でる。あ、先生と同じとこ触った。
「なにしてんの」
「……だって、なんか。なんかしなきゃって思って」
泉田が真剣に僕のことを好きでいてくれるのを感じる度に、胸が詰まる。
先生のことが好きだったことは忘れたくないけど。あの甘酸っぱい匂いをかげばいつでもその記憶を引き出せるというのなら。忘れてもいいんじゃないだろうか。ノートの落書きくらい消しても大丈夫だ。
こいつのためにも、なんていうのはなんだか悔しいのだけど。
「じゃあさ、飴、もう一個くれない?」
「いいけど……」
泉田は制服のポケットの中から飴の袋を出して一粒僕の手に乗せると、俺も食べようってもう一粒口に放り込んだ。体温のせいか、飴の包み紙が貼り付いて上手く剥がれない。
「気に入った? また買ってくるね」
舌の上で冷たい味が溶けていく。息をする度に強いミントが鼻を突く。
いつか大人になってしまっても、この飴のミントの匂いで君が僕のことを思い出してくれればいいのに。教室でキスしたこととか全部思い出して、ずっと君にとっての特別でいられれば良いのに。
ミント味の唾を呑み込んで、そんなことを願ったりしてみる。