婚約破棄の舞台袖で、毒薔薇が血を滲ませる
王宮夜会の舞台袖で、破滅予定の令嬢ヴィオレットは、婚約破棄を告げられる出番を待ちながら扇で笑顔の練習をしていた。胸元には、毒針の仕込まれた白薔薇のコサージュ。シャンデリアの熱が幕越しにも頬を炙り、香水の甘さが喉に貼りつく。幕の向こうから拍手が響いた、その瞬間。
胸元のコサージュが、触れてもいないのに内側からかすかに血を滲ませた。
「まあ」
ヴィオレットは扇の陰で、きっちり三拍だけ沈黙した。
悲鳴を上げるべきか。気絶するべきか。あるいは悪役令嬢らしく、血の滲む薔薇を見下ろして高笑いすべきか。
どれも破滅に近い気がしたので、彼女はひとまず微笑んだ。
「練習の成果が出ているわ。自分でも腹が立つほど優雅」
「その余裕、今だけは尊敬します」
背後から低い声がして、黒い礼服のルシアンが幕の影から現れた。彼はいつも通り、礼儀正しく、少しだけ顔色が悪い。ヴィオレットに仕える立場ではない。けれど、なぜか彼は彼女が破滅する予定の日になると現れ、必要以上に的確な助言をする。
「ルシアン。あなた、また不吉な顔をしているわね」
「不吉なのは顔ではなく状況です。白薔薇を外してください」
「無理よ。これをつけて壇上に出ることになっているもの。ほら、悪女らしいでしょう。清楚な白薔薇に毒針。趣味が悪くて、いっそ芸術点が高いわ」
「芸術点で命は戻りません」
ルシアンは一歩近づき、コサージュを見た。白い花弁の奥、縫い込まれた銀の針先が、赤い雫を吸っているように光っている。
「血は、あなたのものではありませんね」
「触っていないもの」
「では、仕掛けが動き始めています」
ヴィオレットは扇を閉じた。
今夜、彼女は婚約破棄を告げられる。多くの貴族の前で罪を並べ立てられ、悪役として笑われ、家名に泥を塗り、王宮から追われる。そこまでは、彼女も覚悟していた。
問題は、その先だった。
誰かが倒れる。毒が疑われる。ヴィオレットの胸元に毒針つきの薔薇がある。彼女は取り乱す。悪女はついに人命に手をかけた、と場は熱狂する。
それが、今夜の破滅の筋書き。
「クラウディアの仕業ね」
ヴィオレットが言うと、ルシアンは否定しなかった。
「彼女はすでに壇上近くにいます。あなたが呼ばれる直前、白薔薇に手を添えた状態で歩くよう仕向けるつもりでしょう。針が刺されば、毒はあなたの手袋に移る。誰かが倒れれば、証拠は十分です」
「誰かって?」
「今は伏せます。あなたが顔に出すので」
「失礼ね。わたくしは悪役令嬢よ。顔に出すのは高慢さと美貌だけ」
「今、かなり焦っています」
「扇で隠しているでしょう」
ヴィオレットは扇を開いた。羽根飾りがふわりと揺れ、香水の甘さを少しだけ散らす。幕の向こうでは楽団が華やかな曲を終え、司会役の声が響き始めていた。
もうすぐ呼ばれる。
破滅の時間は、礼儀正しく遅刻しない。
「外せないなら、利用しましょう」
ルシアンが言った。
「どうやって?」
「白薔薇は証拠です。あなたが隠せば、あなたの罪になる。あなたが見せれば、罠になる」
「簡単に言うわね」
「あなたならできます。あなたは普段から、嫌味を祝辞に聞こえさせる技術に長けています」
「褒めているの?」
「かなり」
ヴィオレットは少し笑った。胸の奥が、シャンデリアの熱とは違う温度で熱くなる。
彼女はずっと、破滅を避ける方法を探してきた。謝る、逃げる、黙る、耐える。けれど、どれも彼女らしくなかった。悪役令嬢として見られるなら、その視線を逆手に取ればいい。
「では、悪女らしく舞台に出ましょう」
「悪女らしく?」
「ええ。いかにも何か企んでいそうな笑顔で、何も企まれていない人間を装うの」
「それは、かなり企んでいます」
「細部にこだわらないで」
名を呼ばれた。
ヴィオレットは白薔薇に指を触れないよう、扇を胸の前に構えた。幕が開く。熱気が一気に押し寄せ、黄金色の光が視界を満たす。拍手は波のようだった。人々の笑顔の奥には期待がある。美しい夜会を見たい期待ではない。誰かが落ちる瞬間を見たい期待。
その中心に、クラウディアがいた。
彼女は可憐に見える薄色のドレスをまとい、心配そうな顔をしている。心配そうな顔ほど、毒を隠すのに便利なものはない。
ヴィオレットは壇上へ進み、優雅に礼をした。
司会役が決まりきった言葉を述べ、婚約破棄の宣告が読み上げられた。ざわめきが広がる。非難。好奇心。憐れみ。全部混ざると、香水より甘ったるい。
クラウディアが一歩進み出た。
「ヴィオレット様、どうか落ち着いてくださいませ。胸元が乱れておりますわ。わたくしが直して差し上げます」
来た。
ヴィオレットは扇をゆっくり閉じた。
「まあ、親切ね。けれど触れないでくださる?」
その声は、よく通った。
「その白薔薇、先ほどから血を流しているの」
会場が静まり返った。
クラウディアの指が、空中で止まる。
ヴィオレットは胸元を見せるように半身をひねった。白い花弁の内側には、赤い染み。シャンデリアの光を受け、まるで花そのものが傷ついているように見える。
「血、ですって?」
クラウディアはすぐに怯えた顔を作った。上手い。けれど、ほんの一瞬だけ瞳が鋭くなったのを、ヴィオレットは見逃さなかった。
「わたくし、不思議でならないの。これは今夜、控室で渡されたもの。しかも内側には針があるようなのです」
ざわめきが膨らむ。
「針?」
「まさか」
「毒では」
言葉が広がるほど、クラウディアの表情は硬くなっていく。
ヴィオレットは扇で口元を隠し、にこりと笑った。
「婚約破棄の席に、毒針入りの白薔薇。わたくしが悪役でも、演出過多ではなくて?」
一部で小さな笑いが起きた。
場の空気が、少し変わる。
断罪の熱狂から、疑念の冷たさへ。
ルシアンが壇の脇から進み出た。彼は礼をし、白い布を差し出した。
「よろしければ、私が預かります。素手で触れず、皆様の前で確認いたしましょう」
クラウディアが慌てて口を開く。
「そのような危険物なら、すぐに捨てるべきですわ!」
「捨てたら証拠が消えます」
ルシアンの声は穏やかだった。穏やかすぎて逃げ道を塞ぐ声だ。
ヴィオレットは布の上に、慎重にコサージュを落とした。留め具が外れる小さな音が、会場の端まで届いた気がした。
ルシアンは花弁を開く。銀の針。赤い染み。さらに、針の根元に細い糸が絡んでいた。内側から押し出される仕掛け。胸元に圧がかかれば、針が手袋へ刺さる構造。
「これは」
誰かが息をのんだ。
ヴィオレットは、あえてクラウディアを見なかった。見ると、攻撃になる。見ないと、疑惑になる。今ほしいのは後者だ。
「クラウディア様」
ルシアンが言った。
「先ほど、ヴィオレット様の胸元を直そうとなさいましたね」
「それは、親切で」
「針の位置をご存じでしたか」
「知るはずがありません!」
声が少し高い。
ヴィオレットは扇を開く。
「もちろんですわ。クラウディア様がご存じのは、せいぜい白薔薇がどの控室から運ばれたか、誰がそれをわたくしに渡したか、そしてこの壇上でいつ触れればよいか、その程度でしょう?」
クラウディアの唇から色が引いた。
会場の視線が一斉に彼女へ向く。
「ひどい言いがかりですわ!」
「ええ、言いがかりかもしれません。だから確認しましょう。今ここで、白薔薇を手配した者と、控室に入った者を呼べばよろしいのでは?」
ヴィオレットは軽く首を傾げた。
「わたくしは破滅予定の令嬢ですもの。逃げも隠れもいたしませんわ。むしろ皆様の前で、華々しく調べていただきたいくらい」
笑いがまた起きた。今度ははっきりと。
クラウディアにとって最悪なのは、ヴィオレットが泣き叫ばないことだった。取り乱さない悪役令嬢ほど厄介なものはない。しかも、笑っている。舞台を奪っている。
「ルシアン」
「はい」
「その針、毒の有無は調べられる?」
「簡易なら」
「ではお願い。わたくし、毒入りの花を胸につけて笑顔の練習をしていたとなれば、さすがに趣味を疑われてしまうわ」
「今さらです」
「あとで覚えていなさい」
ルシアンは小さな器具を取り出し、針先を布に移した。薬液が触れると、布は青黒く変わった。
会場に低い悲鳴が走る。
クラウディアは後ずさった。
「違う、わたくしは。ただ、ヴィオレット様が今夜、必ず失脚すると聞いて」
そこで彼女は口を押さえた。
遅い。
言葉は、花瓶より割れやすい。一度割れれば、欠片は拾いきれない。
ヴィオレットは静かに息を吐いた。
勝った、と叫びたくはなかった。これは勝利ではない。破滅の手前で、片足を引き戻しただけだ。
婚約破棄は消えない。悪評も消えない。明日になれば、彼女を笑う声はまだ残っているだろう。
けれど今夜、彼女は死なない。
それだけで、胸が軽かった。
「クラウディア様」
ヴィオレットは扇を閉じた。
「わたくしを破滅させたいなら、毒針より強いものを用意なさい」
クラウディアが震える声で問う。
「強いもの?」
「ええ。例えば、わたくし自身が信じてしまうほどの絶望とか」
会場が静かになった。
ヴィオレットは微笑む。
「でも残念。今夜のわたくしは、少し機嫌がいいの」
ルシアンが白薔薇を布に包む。警備の者たちが動き、クラウディアの周囲に人垣ができた。彼女はなおも何かを訴えていたが、拍手に紛れて言葉は届かない。
拍手。
最初はまばらで、次第に大きくなった。
ヴィオレットは思わず眉を上げる。
「ねえ、ルシアン」
「はい」
「断罪されたのに拍手されているわ」
「舞台を乗っ取ったからでしょう」
「悪役令嬢としては成功かしら」
「破滅回避としては、かなり」
ヴィオレットは笑った。今度は練習した笑顔ではなかった。扇で隠すには少し遅い、素直な笑みだった。
壇上を降りるとき、胸元は軽かった。白薔薇がなくなっただけで、呼吸がこんなに楽になるとは思わなかった。
舞台袖に戻ると、シャンデリアの熱は相変わらずで、香水の甘さもまだ喉に残っていた。幕の向こうからは、ざわめきと拍手が続いている。
ヴィオレットは空になった胸元に手を当てた。
「婚約破棄され、毒殺未遂に遭い、拍手喝采で退場。忙しい夜ね」
「休みますか」
ルシアンが尋ねた。
「いいえ」
ヴィオレットは扇を開き、もう一度笑顔を作った。
「明日の朝には、わたくしがどんな顔で生きているか、皆が見たがるでしょう。だったら見せてあげなくては」
「どんな顔で?」
「もちろん」
彼女は幕の隙間から、光の残る会場を見た。
破滅の筋書きは、まだ完全には消えていない。けれど、今夜ひとつだけ書き換えた。悪役令嬢は、倒れるためだけに舞台へ出るのではない。
ヴィオレットは軽やかに言った。
「毒薔薇よりしぶとい顔よ」




