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イリグチ様 ─逃げなかった子供だけが背負う呪い─  作者: 白波さめち


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29.イリグチ様


 私は完全な暗闇に取り残された。

 光の粒どころか空気の振動すら感じられない、絶対的な無音と闇の牢獄。


 どれだけ岩を引っ掻き、喉が潰れるまで叫んだだろう。

 指先の爪は全て剥がれ落ち、血まみれになった。

 声は枯れ、か細い息に変わっていた。


 音の反響すらしないこの空間では、自分の存在がどんどんあやふやで不確かなものになっていく。


 時間感覚は完全に失われた。


 一秒が永遠にも、永遠が一瞬にも感じられる。

 眠っているのか、起きているのかもわからない。

 空腹や渇きもなくなった。

 

 最初は、記憶を手繰り寄せようと必死だった。

 父の膝の上、母の笑顔、弟の小さな手、ソウと走った畑の感触。


 それらを瞼の裏に鮮明に描き、自分を奮い立たせようとした。でも、この絶対的な無の中では、色はすぐに褪せ、熱はすぐに冷め、輪郭は滲んでいった。


 自分が誰なのか、何をしているのかという意識そのものが、泥のようにゆっくりと溶け出していく。


「大丈夫。私はイト。きっと大丈夫……」


 私はただ、岩の冷たさだけを頼りに存在していた。


 やがて、聞こえてきたのは、ソウの声。


「ごめんな」


 あの時、聞こえなかった声がようやく聞こえた。


 そして脳裏に浮かぶのは、あの祈祷師の朱色の衣。

 宮司の骨ばった手。

 そして、ソウの背中を貫いたクワの嫌な音。


 血溜まりの中、呻く短い声がずっと頭に響いてくる。


「ソウ……どこ?」


 そう呟いても、返ってくるのは、岩に跳ね返った自分の狂気じみた呼吸音だけ。


 何日経ったのだろう。

 何年経ったのだろう。


 私は、ただそこにいるという事実だけが、憎しみという形で残っていた。


 憎い。憎い。憎い。


 村人たち。宮司。そしてあの祈祷師。

 そして、自分をこの暗闇に閉じ込めた世界そのものが。


 

 気がつくと、あの岩の前にいた。


 穴の入り口は岩で閉じられていて、どうやってあそこから外に出てこれたのかはわからない。


 ゆっくりと地面から身体を起こし、掌を見た。


 失ったはずの爪が指先にある。

 ひどく痩せこけて、骨と皮しかない私の手。


「ソウ……?」


 失ったと思った声が口から漏れた。


 窪地の中には誰もいない。

 音も、風もない。

 ただ鬱蒼とした森の中、私だけが存在している


「ソウ……!! どこ??」


 もしかすると全て夢だったのかもしれない。

 私は立ち上がって山の傾斜を登った。


 ソウと山菜を取りに来て、足を滑らせ窪地に落ちた。

 そこから見ていた長く凄惨なただの夢。


 森の中で何度もソウの名前を呼ぶ。

 その声は、森の中にただ吸い込まれていった。


「どうして音がしないの?」


 自分の声は聞こえてる。

 でも、普段なら聞こえる森のざわめきや、動物の鳴き声、虫の声が全く聞こえない。


「……っ! 村は?」


 感覚だけを頼りに、草をかき分け東へと進んだ。

 森から出ると、目の前には濁ったような茶色の世界が広がっていた。


「何……これ」


 異様なのは、色がついた景色だけじゃない。

 田に苗が植っている。

 そこらじゅうに転がっていた腐った死体もなくなってる。


 同じ村なはずなのに、時間そのものが流れたように景色が移り変わったようだった。


「どうなってるのよ……!」


 何人もの村人とすれ違うが、誰もこちらに一瞥もくれない。夢の事もあり複雑な心を抱えていた私には好都合だったけど、次第に違和感は恐怖に変わった。


 自分の家に向かって走る。

 母と弟の亡骸を置いてきたままだったはずだ。


 もしかすると、この異常な世界と同じように彼らが生きているのではないか。

 

 そんな希望が胸に灯った。

 

 しかし、私の家にいたのは全く別の村人だった。

 家主が変わったかように、私の家を自分の家のように出入りしている。


「貴方誰?! ここは私の家よ?!」


 目の前の男にそう叫ぶが、彼は私のことなど見えないようにクワを抱え「暑いなぁ」と呟きながら畑へと歩き出す。


「無視しないでよ!」


 横から何度も話しかけるが一瞥すらされない。

 まるで、音の反響すらない真っ暗な岩の中で叫んでいるような。そんな空虚な叫び声だけが無音の世界に吸い込まれていく。


「いい加減にしてよ!」


 目の前の男に立ち塞がる。

 ぶつかればきっと彼も無視はできなくなると思った。

 それなのに、彼の身体は霧を通り抜けるように私の身体をするりと通過したのだ。


 そこで気づいた。

 自分の身体に実体がない。


 クワに触れた。触れることはできた。

 しかし、そのクワを持ち上げようとしても、世界に固定されたようにクワは動かない。その辺に転がる小石もそうだ。


 私が砂を蹴っても砂埃は舞わない。

 ジャリジャリという砂を踏む足音すらもしない。


「何? 何なのこれ……」


 自分の手は間違いなくここにある。

 骨と皮だけの、震える掌。

 手首を押さえると、トクトクと確かに鼓動もある。

 それなのに、存在していないみたいに空虚な身体。


「誰か! 誰か!! 私の事、見えていませんか?」


 叫びながら村中を走った。

 人を見かけては叫ぶように話しかける。

 

 でも誰も足を止めない。

 こちらを見ない。


 飢饉が来る前に感じた嫌な予感。

 それと似た焦燥感が胸を焦がすように焼いた。


「せめて……ここなら……」


 村を走り回って最後に訪れたのは、もう二度と顔も見たくない、あの宮司のいる高台の神社。

 長い石でできた階段を登り、木でできた簡素な鳥居を潜った。


 開けた場所で箒を持つ宮司。

 何かの祭事をしていたのかもしれない。


 飾り付けられた粗末な神社に、古くなった浄衣をきた彼は、やり切った満足げな表情を浮かべながら片付けをしていた。

 

 記憶より、かなり老けた気がする。

 私が存在していなかった長い時間がそこに横たわっている気がして、耐えきれない吐き気に思わず口を手で覆った。


「ねえ、私に……何をしたの?」


 睨むように、そして反応してくれるよう願いを込めながら彼を見る。


 でも、彼はこちらに見向きもしないまま、箒で地面を払き続けた。


「あの祈祷師の女はどこ?」


 箒が地面に触れる音も聞こえない。

 ただひたすらに彼に話しかけた。


 怒鳴りつけるように叫んだ時、彼は箒を持ち上げて「今年も無事終わって良かったなぁ」と清々しい顔で天を仰いだ。

 

 地面についた足の感覚が失われ、その場に崩れ落ちる。

 目の前で膝をついた私の身体を通り過ぎ、彼は社へと入っていった。

 

 泣いても、叫んでも、誰にも見えていない。


「誰か、私に何をしたのか教えてよ……」


 震える私の声は、茶色く濁った世界に消えていった。


「ソウ……ソウを探さなきゃ」


 ふと、彼の顔が浮かんだ。

 あの時、窪地で死んだ彼なら――ここにいるかもしれないと思ったから。


 でも村は散々走り回ったはずだ。

 あと探すところなんて……。


 上手く働かない頭を必死に落ち着かせ、あの時を思い返す。祈祷師の朱色に染められた衣装。真っ赤な唇がいやらしく上がって紡がれた言葉。


 『子は西に、そして子の宝を東に置くのです』


 ――そうだ。

 私は西の窪地で目を覚ました。

 なら、ソウは東にいるかもしれない。


「ソウ! ソウ! どこにいるの?!」


 私の宝は東に。

 その言葉に縋るようにソウの名前を叫びながら探した。

 同じ場所を何度も何度も行き来しながら。


 どれだけ歩き回っただろう。

 もう何日も経った気がする。


 茶色く染まった世界では、朝焼けも夕焼けも全てが同じ景色に見えた。

 

 朝も昼も夜もここはずっと変わらない。

 そして私は空腹も渇きも感じない。

 違うのは、私を無視する村人の行動だけ。


 飢饉の時、昔の平和な日々がずっと続いて欲しかったと何度も思った。空腹も渇きも感じなくなればいいのにって。


 変わらない事が、これほど残酷で恐ろしい事だなんて――私は知らなかった。


 そして何日も掛かってソウを見つけた。

 彼は東の神社のさらに奥、窪地と対になるような場所に隠されていた。


 小さな木の祠の中に押し込められたソウは――。


 小さなお皿になっていた。


 それは、乳白色を帯びた、不気味な光沢を放つ皿だった。


 触れてみると、滑らかさとはかけ離れ、微細な凹凸がある。窪地と同じく異様に鮮やかな色彩を放つこの祠。その中にある唯一の有機的な形が、これがかつて人の一部であったことを無言で主張していた。


「ソウ……どうして……?」


 残りの骨は?

 祠の中だろうか。

 そう思っても、私は中を見ることはできない。


 周囲の空気よりもひやりと冷たく、皿に触れている指先から、死の静寂のような冷気が伝わってくるようだった。

 

「ソウ……」


 名前を呼んでも返事はない。

 それでも、ずっと、ずっと名前を呼び続けた。


 水を摂ってないのに、涙が出た。

 その雫が地面に落ちても、地面は色を変えない。


 空虚な私は、誰にも見えないこの世界に、ただ存在しているだけだった。

 

 孤独と絶望。

 今の私にあるのはそれだけ。


 何日、祠で泣いていたか分からない。

 ただ無性に人の声が聴きたくなった。

 ソウから離れ、村を歩き回る。


 村は稲刈りが終わり、村人に安堵の顔が浮かんでいた。


 大きな獲物が取れた時は皆で分け合う。

 女が初の子を抱き、皆に見せている。

 子供達がトンボを追いかける。

 男が子供を呼び、抱き上げ肩車する。


 なんて平和で、幸せな光景。


 この平和が――私の胸に憎しみの炎を灯した。

 

 

 

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