人口1恒河沙人の世界 ― 人口潮汐災害対策室の憂鬱
ここは、とある一つの銀河。
銀河中央省・人口潮汐災害対策室(通称ジンタイシツ)は、朝の六時になると天井がゆっくりと波打つ。
建物の欠陥ではない。人口が多すぎるせいだ。
人口潮汐波が銀河南腕から押し寄せると、建物の位相がわずかに傾く。
ところが職員たちは毎朝、波打つ天井の下で普通にコーヒーを飲んでいる。
慣れとは恐ろしい。
僕は新人として今日からこの部署に配属された。
正式名称は「恒河沙人口潮汐・重力補正室」。
恒河沙とは十の五十二乗。つまり宇宙全体で五十三桁の人間が暮らしている。
その人口がぞろぞろと移動すると、銀河系の重力曲面がぐにゃっと歪む。
宇宙の物理法則が、ただの群衆の動きでうっすら悲鳴をあげる。
僕の辞令書には「勤務内容:人口潮汐による銀河構造の崩壊防止」と書かれていた。
いや、どうやって?
出勤すると、先輩職員がモニターを叩いていた。
「まただよ。今朝の人口潮汐、予報より二割増しだってさ」
「二割ってそんなに影響あるんですか?」
「おまえ、新人か? 二割増えたら銀河腕がひと曲がりするんだよ」
ひと曲がり……?
銀河腕は、曲げるものではなく、回転の結果で形作られるものだと思っていた。
だが人口潮汐は世界を変える。
群衆が同じ方向に流れると、重力ポテンシャルが偏り、銀河腕がほんの少しだけくるんと回る。
そのほんの少しが大惨事につながる。
「新人くん、今日の資料だよ」
先輩が渡してきた端末には、《人口流入報告:本日銀河西部で観光イベント》と書かれていた。
「え、イベントだけで銀河が曲がるんですか?」
「たくさんの人間が同時に移動したら、そりゃ曲がるよ。しかも今日のイベント、テーマが“全員で温泉に入ろう”。星系十六個で同時開催だ」
星系十六個で温泉……?
銀河規模で温泉文化を推してくる理由は何だろう。湯量はどうしている? まさか星を煮て湯をつくっているのか。
疑問を抱える僕を無視して、対策室の端末がけたたましく鳴り始めた。
《警告:人口潮汐波、銀河中心方向へ加速。重力分布に異常発生》
《警告:ブラックホールSgr A*、わずかに後退》
ブラックホールが後退?
また先輩を見た。
「落ち着け新人。ブラックホールが、ちょっとだけ嫌がってるだけだ」
「嫌がるって何ですか」
「人口が多いほうが重いからな。潮汐が押し寄せると、ブラックホールでも気圧されるんだよ」
「ブラックホールって押されるんですか!」
「押されるんだよ。今日の銀河は人間が強い」
対策室の中央には“銀河丸見えホロ”と呼ばれる巨大ホログラム装置が置かれている。名前はふざけているが、機能は本物だ。
僕たちは急いで銀河潮汐模型を起動する。
机の上のホログラムに、銀河系がぐにゃりと描画される。
その形は、美しい螺旋というより、どこから見ても押し寿司だった。人口の波がひとつの腕に集まり、銀河が横に伸びている。
「こりゃひどいな」
「いつもの五倍くらいひどい」
「今日の銀河、縦に三パー、横に十二パー伸びてるぞ」
「もういっそ四角い銀河にしたらどうです?」
笑えるような、笑えないような会話が淡々と進む。
まるで小学校の折り紙の時間のような軽さで、銀河が押され、引かれ、ふにゃっと曲がっていく。
対策室の室長がやって来た。額に宇宙規模のクマがある。
「おはよう。今日の銀河はどんな感じだ?」
「押されてます」
「またか。観光客が多すぎるせいだな」
「温泉イベントです」
「温泉か。そりゃ仕方ない」
仕方ないのか……?
人口潮汐で銀河が明らかに変形しているのに、この部署は全員が朝のニュース番組程度のテンションで仕事を進めている。
だが今日はいつもと違うアラームが鳴った。
《重大警告:人口津波、銀河中心部を直撃予測》
《対策室は緊急対応レベル2に移行》
室長がコーヒーをこぼした。
「……人口津波だと?」
「人口津波って何ですか室長!」
「名前の通りだ。人口が集中しすぎて波になる。星系五百を包み込みながら押し寄せてくる。重力が狂う。軌道は乱れる。太陽系くらいなら軽く沈む」
「沈むって何ですか」
「沈むんだよ。物理が諦めるんだよ」
物理が諦める……。
これが人口五十三桁の文明の現実なのか。
僕は画面を見た。
人口津波の進行方向が銀河中心へ向かっている。そこにはブラックホールSgr A*がある。
「これぶつかったら、どうなりますか?」
「ブラックホールが押し返される」
「ブラックホールってそんな弱いんですか?」
「人間は数が多い方が強いんだよ」
この部署の常識は、たぶん宇宙の常識とは違う。
そして人口津波の波形の中に、僕は気になるものを見つけた。
波の端が、妙に整っている。まるで意図的に並んでいるみたいに。
「室長、これ、自然現象じゃない気がします。人口の動きが揃ってます」
「揃う?」
「ええ……まるで、一つの意思みたいに」
その瞬間、銀河潮汐模型がぐわっと揺れた。
銀河そのものが、僕たちの机の上でかすかにきしんだように見えた。
人口津波の速度が跳ね上がった。
理論上ありえない速度。
人口の波が、まるで──
誰かに導かれているように。
人口津波は、予報を三十秒で追い抜いた。対策室の大型ホロは、もはや銀河の形ではなく、誰かが雑にひねったアルミホイルに見える。
職員の一人が呟いた。
「……これ、もう銀河じゃなくて、作品だね」
「抽象芸術だよな」
室長だけが真顔だった。「芸術鑑賞してる場合じゃないだろ!」
人口津波の進路を解析すると、銀河中心のブラックホールSgr A*に一直線。通常、ブラックホールに向かうのは物質だが、今日は人間が向かっている。
「室長、これ衝突したらどうなるんですか」
「どうもならん。ブラックホールのほうが避ける」
「避けるって何ですか」
「嫌なんだよ。飲み込んだら胃もたれするらしい」
「胃もたれの概念、あるんですかブラックホールに」
「知らんが、観測データにそう書いてある」
そんなバカな、と思うけど、今日の銀河はバカみたいに歪んでいる。物理法則のほうが折れて謝っているような状態だ。
僕は端末の解析窓を拡大した。人口津波の波形の先端が、妙に整列している。
「これ、やっぱり自然じゃない……」
室長が近寄る。「整列?」
「見てください。人口の密度溝が生まれてます。誰かが波を誘導してる」
先輩がコーヒーを吹いた。
「誘導? 」
「はい。揃ってます。完全に音楽のリズムみたいに」
「ダンスか?」
「銀河規模のダンスは嫌です」
人口対策庁のコンピュータが呻くように警告を発した。
《注意:人口津波、共鳴現象発生。銀河中心で人口波が強制的に同期》
「共鳴か……」室長は深くため息をついた。「ついにこの日が来た」
「知ってたんですか!?」
「理論上はな。人口密度が一定域を越えると、銀河全体がひとつの人間っぽい動きを始める。問題は、それが何を望むかだ」
人口津波は、銀河中心に巨大な渦を作っていた。
その渦は、明らかに……形になっている。
「室長……渦の形……これ、もしかして……」
「うん。どう見ても手だな」
「ですよね!」
「なんで人の手なんですか!?」
「知らん! 銀河が意思を持つとだいたい手になるんだよ!」
先輩が叫ぶ。
「法則性がバカみたいだろ室長!!」
「知るか! わたしだって今日初めて知ったよ!」
人口波の手は、そのままブラックホールを掴もうとしていた。
「掴む気だぞ!? あれブラックホールだぞ!?」
「ちょ、待て! 触るな! 銀河やめろ!」
室長が端末に向かって叫ぶ。
「銀河! 落ち着け! ブラックホールは友達だ!」
コンピュータが静かに言う。《警告:銀河、落ち着きません》
「ですよね!!」
ブラックホールSgr A*は、珍しく後退していた。
ブラックホールが後退するという事態を、誰が想像しただろうか。
そして渦の手は、さらに閉じようとしている。
そこで僕は気づいた。
「……室長。これ、人を集めれば集めるほど強くなるんですよね?」
「ああ。人口潮汐の強さは単純だ。数だ」
「じゃあ逆に、散らせば弱くなる?」
「なる。だが膨大だぞ? どう散らす」
「銀河単位で、逆方向に人口波を起こすんです」
「それを誰がやる」
「……僕です」
一瞬、室長が固まった。
先輩が震える声で言った。
「おまえ……正気か?」
「正気じゃないでしょうね。でも、それ以外に方法がない」
人口潮汐制御端末にアクセスする。
そこには銀河中の交通路、生活流動データ、移動癖、人口ベクトルなどが網羅されている。
僕が設定するのは──
《銀河全域・人口分散命令:目的“なんとなく散ってください”》
先輩が叫んだ。「命令が雑すぎる!」
「これくらいユルいほうが人は動くんです!」
室長が僕の肩を掴んだ。「新人……いいか、銀河はな……」
「ええ、知ってます。銀河は理由がない動きが一番強い」
送信ボタンを押した。
銀河全域に、”なんとなく散ってください”という誰も読まないような曖昧な指示がばら撒かれる。
だが不思議なことに──
人口が、動いた。
「あ、散ってる……」
「え、散るのか?」
「散ってる散ってる! どんどん散ってるぞ!」
「なんだこの銀河! バカなのか賢いのかどっちなんだ!」
人口津波の手が、ゆっくりと力を失い、ほどけていく。
ブラックホールは後退をやめ、むしろ前に出てきた。
「よかった……落ちついた……」
室長が胸をなでおろす。「新人。おまえ……銀河を救ったぞ……」
「いや、ただ散ってくださいって言っただけですが……」
「銀河は雑な指示に弱いんだよ」
静かに、宇宙は元の形を取り戻していく。
押し寿司だった銀河は、ゆっくりと螺旋に戻った。
潮汐波は消え、人口渦はほぐれ、重力が安定する。
コンピュータが告げる。《銀河構造、正常化》
先輩が言った。
「……終わった、のか?」
室長が深く頷く。
「終わった。銀河全域が気まぐれを起こしてくれたおかげだ」
僕はモニターを見た。
銀河は、何事もなかったようにきらめいていた。
ただの、静かな螺旋。
だがその螺旋のどこかで、五十三桁のほんの一部の人間たちが、
今日も好き勝手な動きで宇宙を揺らしている。
「……室長」
「なんだ」
「明日は……何が起きますか」
「知らん。人口が多すぎて予測不能だ」
先輩が笑う。
「それでこその人類だろ」
人口1恒河沙人の世界。
宇宙最大の問題児で、宇宙最大のエネルギー源。
そして今日も──
銀河は、だいたい人間のせいで揺れている。
やはり、4000文字くらいが無難だナ。~(´・ω・`~)
1極人(10⁴⁸人)だけでも銀河の 数億倍 の質量らしい。
困ったもんだね。




