地平線の彼方へ
悠美と、千尋。
積み重ねた過去の重みが、二人の上に降りかかる。
夢に向かう友を見送る千尋の胸に去来するものは……
「行ってらっしゃい」
私は少し急かすようにそう言った。
私たちの町から来るには、日帰り小旅行くらいの気合のいる、大きなターミナル駅。家を出てきた時はまだ暗かったけど、今ホームには朝の透明な光が差して、光と影をくっきりと切り分けている。
東京行きの特急は、もうとっくに入構していた。そろそろ時間ではないのかと、私は気が気じゃない。悠美はそんな私の焦りとは裏腹に、白い息を吐きながら、じっと黙ってこちらを見ている。
乗らなきゃいけないのは悠美なのに。わかってるのかな。
潤んだ瞳。私はため息をつく。
決心なら、とっくにしたはずなのに。
「ほら、そんな顔しないの」
「千尋」
悠美はやっと、口をひらく。
「私、やっていけるかな、一人で」
「何よ今更」
思わず吹き出してしまった私に、悠美はなお食い下がる。
「だってずっと一緒だったし、私より、千尋の方が」
私はもう一度こぼれかけた、小さなため息を隠し、言った。
「そんなことないって。オーディション受けに行ったのも、合格したのも悠美。でしょ? 悠美は胸張って、行けばいいの」
「千尋、私……」
一度うつむき、今度こそ迷いを振り切るように、悠美は顔を上げた。
「私ね、頑張るから。頑張って、アバチューみたいに、おっきい舞台に立つから。見ててね」
私は頷く。
「わかった。楽しみにしてるね」
その時、ちょうど発車メロディが鳴った。
「ほら、乗らないと!」
「うん。じゃあね」
急いで電車に乗る悠美。
「絶対、見に……」
振り向いて、言いかけた言葉を、ドアが遮った。
いつからだったろう。
二つのローカル線を乗り継いで町の駅まで戻った私は、閑散とした待合室でバスの時間を待ちながら、ぼんやりと考える。
最初は確か、小学校の四年生くらい。
八人組女性アイドルグループAbout You、通称アバチュー。バラエティ番組のゲストを中心に、テレビでもそこそこ見かけるようにはなっていたものの、まだ駆け出しといった彼女らに注目していたのは、クラスで私たち二人だけだった。
二人とも、たまたま同じ日に、同じ番組内で、デビュー曲「Tell me about you」を歌う彼女らの姿を見て、夢中になったのだ。
「ねえねえ、昨日のあれ、見た!?」
勢い込んで聞く私に、友達の反応は薄く、ただ一人悠美だけが、目を輝かせて答えてくれた。
「見た!」
その時、ただのクラスメートの一人でしかなかった悠美と私の関係は、一気に「親友」へと進んだ。
私たちは親のパソコンを借りて、インターネットでアバチューの情報を集めた。テレビや動画サイトの公式チャンネルで、彼女らが歌っているところを何度も見て、お互いの感想を語り合った。
大作アニメ映画『光よりも宇宙よりも』の主題歌「タキオン・ブルー」でブレイクした時には、二人揃って、自分のことみたいに喜んだ。
ツアーで県内に来ることがわかった時には、なんとか行かせてもらおうと親に頼み込んだりもした。結局、その時の説得には失敗したんだけど。
いつからだったろう。そして、どちらからだったろう。
はじめは、歌を歌うだけだった。二人で、動画や音源に合わせて、声を出す。最初はおずおずと、次第に大胆に。そのうち、どちらからともなく、ハモリをなぞり始めた。二人ともハモリに回ろうとしてメロディが消え、笑い合ったこともあった。だんだんと、お互いのパートが決まってくる頃には、もう歌うだけじゃ我慢できなくなっていた。腕の動きを真似する。首を一緒に傾げる。やがて立ち上がって、ステップを始める。
本当に、どちらが先だったのかわからない。でも気がついたら、私たちは必死で、画面の中のアバチューをコピーしようとし始めていた。
毎日のように、私たちは互いの家を訪ね、コピーの練習をするようになっていった。中学に上がってからも、部活に入ることもなく、誰も知らない、二人きりのレッスンは続いた。
そんな中、悠美が言い出した言葉に、私は心底驚いた。
「私ね、本気で、アイドル目指そうと思って」
考えてもみなかった。確かに少々こだわりすぎ凝りすぎてはいたけれど、あくまでそれは「趣味」の範疇だと思っていたからだ。
悠美は私の目を、まっすぐ観ながら言った。
「千尋もさ、一緒にやろう?」
「えっ。でも」
「千尋だって好きでしょ、アバチューのことも、自分で歌って踊るのだって」
「それは……好きだけどでも」
「それにね、ほんとは私より、千尋の方が上手いじゃん? 歌も、踊りも」
「そんなこと」
「気づいてない? 私、だんだん千尋に教わることが増えてる。前は一緒に動画見て二人で議論したりしてたのにね。千尋の方が、目も耳も、いいんだと思う」
「そんな、違うよ、だって……それは、色々気がつくのは私の方が早いかもしれないけど、いつだって、それをどんどん取り入れて形にしていくのは悠美じゃん。なんだって、先にできるようになるのは悠美の方。私は、遅れないようにするので精一杯」
「それは、焦ってるからね」
悠美は笑う。
「千尋が色々言ってくるからさ、やらないと、私の方が置いていかれると思って。必死で頑張ってるから、ちょっとだけ先にできるようになるだけ」
「なにそれ」
私も笑った。
「じゃあ私たち、お互いにお互いを見て焦ってたってこと?」
「そういうことだね。だからさ」
悠美はもう一度、真顔になり、私の目を見た。
「だから、一緒だったら、きっともっと遠くまで行ける。私たちなら、できるよ」
その日、私はすぐには返事ができなかった。あー、とか、うー、とか、でも、とか、うめいた挙句、「考えとく」なんて言ってお茶を濁した。
そうするしかないくらい、私にとっては、寝耳に水の話だった。
考えたこともなかったのだ。自分たちがやっているそのレッスンめいたことに、「その先」があるなんて。
この町を出る、ということすら、私には、実感を持って考えられなかった。
家が厳しかったわけでも、家業に縛られていたわけでもないけど……ただ漠然と、お母さんと同じように、私もずっとこの田舎の町で生きていくのだと、そう思っていたのだ。
ちょっと歩けばすぐ畑に辿り着く、いまだにチェーン店より個人商店の方が多く、観光とも、派手な「まちづくり」とも縁のない、この小さな町で。
だって、ここを出ていくってことは、母さんを残していくってことでしょ?
どうしても、そう考えてしまう。
きっと、相談すれば、母はダメとは言わなかっただろうと思う。
でも。
母は優しい人だった。いつだって私のことを一番に考えてくれた。「やりたいことやるのが一番いいんだよ」それが口癖で、小学校の学芸会で大太鼓を叩くのも、運動会で男子を差し置いて応援団長になるのも、応援してくれた。
きっと、また母は、そう言ってくれる。
だけど、だからこそ。
私には言い出せなかった。言い出す気になれなかった。町を離れたい、なんて。
知っていたからだ。
一時期よく家を訪ねてきていたのに、いつの間にか来なくなった、優しいおじさんのこと。
夜中に目を覚ましたとき、母が懐かしそうに眺めていた、原稿用紙の束のこと。
そして、毎日車で一時間以上もかけて通う大きな病院で、看護師としてハードに仕事をこなしていること。
寂しい、そう思ったこともあった。
作り置きのご飯を温めて食べる孤独に耐えきれず、泣いたり、帰ってきた母に駄々をこねたこともあった。
でも、中学に上がる頃には、私には何も言えなくなってしまっていた。
そして今……もちろん、うまくいくなんて決まってるわけじゃなかったけど、もし、うまくいってしまったら……それが叶ってしまったら、必然的に、母を置いていかなければならなくなってしまう、そんな夢を追いかけること自体、私には、到底、できそうになかった。
その後も、私たちはその「レッスン」を続けた。
代替わりをしながら人気を保ち続けたアバチューのことも相変わらず好きだったし、歌って踊ることも、楽しかったからだ。
「やっぱ千尋センスあるなあ。羨ましい」
ある日、悠美は汗を拭きながら、そう言った。
私は冷静に言葉を返す。
「そんなことないよ。あたしは悠美みたいに頑張れないから」
「そう言わないでさ、一緒に、目指さない? アイドル」
私は笑った。何度も繰り返した、やり取り。
「うーん。向いてないと思うんだよね」
「もったいないなあ。あたしより才能あると思うんだけど」
「それだけ頑張れる以上の才能なんて、ないよ」
私は心から言った。悠美がレッスンにかける気迫は、すでに単なる遊びを超えはじめていたからだ。そして、そんな努力が、間違いなく、持って生まれた才能を突き破りうることを、悠美は体現していた。
もうその頃には、私はほとんど、悠美がアイドルになることを、確信していたのだ。
だが本人には、まだ全然そんな自覚はないようだった。悠美はグラスの冷たい麦茶を飲み、あっけらかんと言った。
「あたしは、やりたくてやってるだけだもん」
あたしは、その眩しさに、思わず息を呑む。努力を当然のものとして受け入れた人のみが持つ、輝き。
「それこそ、羨ましい」
そう言った言葉にも、嘘はなかった。
バスの車窓を流れる風景は、さっきまでいたターミナル駅の人工的な風景とはあまりにも違っていた。典型的な日本の田舎の風景。と言っても、私はこれ以外の景色をほとんど知らないのだけど。
白菜や、大根の畑。民家を隠す植え込みに咲く赤い山茶花。朝、悠美のお父さんに車で送ってもらう時は、未舗装の路面はところどころ凍りついていて、タイヤが地面を踏む硬い音が冬の訪れを感じさせたけど、乗っているのがバスのせいか、日が登って氷も溶けてきたからなのか、今ではそんな気配は少しも感じられない。それでもビニールのかかった畑や、すっかり葉が落ちて実をむき出しにした柿の木などをみていると、十一月も半ばなのだという実感が、じわじわと心の中に染み込んでくる。
何も、こんな時に行かなくてもいいのに。
私は思う。
新グループ「Diamond Tonic」のメンバー募集に応募して、夢への切符を掴んだ悠美。その旅立ちには、やっぱり春だとか、冬にしたって年明けだとか、そういう輝かしい季節がふさわしかったんじゃないか。
来年早々にデビューを飾るためだと言われても、見送る側としては、そんなふうに感じずにはいられない。
何も、こんな、いよいよ寒さが増していく季節を選んでいかなくてもいいのに、と。
だって、なんか、幸先悪いじゃん。
それに……
そう思った時。
急に、視界が開けた。
山々の連なりが、ほんの数分、途切れる場所。
遠くに、まっすぐな……こんな短いものを地平線と呼んでいいのかよくわからないけど、空と大地とをくっきりと分つ直線が、浮かんで見える。
その境目の、硬質な天蓋の色よりなお薄い、かすみがかったような、青。
懐かしい歌が頭の中で再生される。アバチュー「タキオン・ブルー」のBメロ。
『冬の寒さ抜けて あのHORIZENこえて 今飛び立つ』
「そっか」
そう呟きながら、私は涙ぐんでいた。
そうだった。厳しい冬の中駆け抜けるあの歌で、アバチューはブレイクしたんだ。
そして今、その歌詞のままに、悠美は地平線をこえて、はるかな未来へと、旅立っていった。
それを選んだのは悠美。
そして、選ばなかったのは……残ることを選んだのは、私。
そうだ、決めたのは、悠美だけじゃない。
これは私が選んだ未来。
たとえ、あのホリゾンブルーの世界を、ただ遠くから眺めていることしかできない未来だとしても。
それを決めたのは、誰でもない、この私。
「バイバイ。頑張んなよ」
私は口に出して、別れを告げる。
悠美に。そして諦めた夢に。
この先の、お互いが踏み出す、一歩のために。