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朝のホームルーム。先生が「転校生を紹介するね」と言った瞬間、教室にいた全員の視線が黒板前へ集まる。
雷翔は静かに一歩前へ進み、落ち着いた声で口を開く。
「はじめまして、赤瀬雷翔です。今日からここに通うことになりました。記憶喪失で色んなことが思い出せません。よろしくお願いします。」
瞬間、教室の空気が変わる。一部は驚き、一部は興味深そうに 、そして一部は何を言っているのか測りかねるような表情。ざわめきが広がり、数人がすぐに反応を示した。
「え、マジ?ドラマみたいな話じゃん」
「記憶喪失って、どこまで覚えてないの?」
「それって病院とか行った?」
自己紹介が終わり、雷翔は席へ戻る。周囲の視線が少しだけ残っているのを感じた。
新しい学校、初めての教室。慣れない空気。
「おい、赤瀬!」
唐突に声をかけられた。振り向くと、目の前にひとりの男が立っている。
「俺は佐藤!」
そして、その隣に立つもうひとりの男が無言でこちらを見つめる。
「こいつは九条」
佐藤が軽く肩を叩く。九条は少しだけ顎を引いて頷いた。
「よろしくな、あかせ!」
その言葉に、一瞬理解が追いつかない。「あかせ」。それが自分の名前だということは分かる。でも、それを呼ばれた記憶はない。
「……俺のこと、あかせって呼ぶのか?」
「そりゃそうだろ。名字だろ?」
佐藤は満面の笑みで言う。九条は口の端をわずかに持ち上げただけだった。
赤瀬雷翔——あかせ らいと。
その名を呼ばれても、まだ自分のものだという実感は薄い。でも、軽やかな声と、ひどく自然な態度が、なぜか居心地の悪くはなかった。
「お前、記憶喪失って言ってたけど、なんか普通に馴染んでるな」
「そう見えるか?」
「いや、もっとぎこちない感じかと思ったけど、そうでもないし」
「ならよかった」
そんなやり取りをしていると、斜め後ろの九条龍星がスマホを閉じ、「なんで記憶喪失になったの?」と軽く聞いてくる。
「頭をぶつけたらしい」
「なるほどな」
九条は視線を戻す。
1限:英語
英語の授業でペアワークの指示があり、雷翔は教師の指示で夏瀬心とペアになる。彼女は整った字でプリントを見つめ、席に座りながら静かに視線を向けてきた。
「よろしくお願いします。進め方、大丈夫ですか?」
「問題ないと思う。」
「じゃあ、分担してやりましょう」
雷翔は軽く頷き、作業を進める。時折、互いの解答を確認し合う場面があり、夏瀬の分析力に感心する一方、彼女も雷翔の正確な解答に驚いた様子だった。
「記憶喪失でも、ちゃんとできるんですね」
「何となくだけど体が覚えてるんだと思う」
夏瀬は「そういうものなんですね」と納得したように微笑む。雷翔も特に感情を表に出すことなく、そのまま次の問題へと進めた。
2限:数学
数学は問題演習の時間が多く、雷翔は黙々と解いていく。途中、竹中六助が「分からないところはありますか」と尋ねてくる。
雷翔は軽く問題を見て、「自分で解けると思う」と答える。竹中は「理解が早いですね」と、再び問題へ戻る。
3限:体育
体育はバスケットボールの試合形式の授業。準備体操をしていると、佐藤が「雷翔、運動得意なの?」と尋ねてくる。
「苦手ではない、と思う。」
すると九条が「そういう言い方するやつ、大体めっちゃ動けるんだよな」と笑い、佐藤が「なら試合出ろよ!」と促す。雷翔は「いいよ」と応じた。
試合が始まると、雷翔は抜群のスピードと正確なパスワークを見せ、一気に流れを作る。その動きに周囲は驚き始める。
「こいつ、めっちゃ動けるじゃん!」
「まじで運動神経いいな」
佐藤は「お前、運動めっちゃ得意だったんだな!」と笑い、九条は「これは体育祭で期待されるやつ」と冗談交じりに言う。
雷翔は特に誇示するつもりはなく、「そんなことはない」とだけ返した。
昼休み――
昼休みになると、佐藤が「雷翔、食堂行こうぜ!」と誘ってくる。九条も「適当に飯食ってからダベろうぜ」と乗ってきたため、雷翔も流れに乗り食堂へ向かう。
食堂に入ると、メニューの多さに佐藤が「ここ、何選んでもうまそうなんだよな!」と嬉しそうにし、九条が「このセットはガチでうまい」とスマホを構えている。
昼休み、教室内はざわめいていた。転校初日。赤瀬には、この場の空気がまだ遠く感じられた。
「赤瀬くんだね」
声をかけられ、振り向くと、一人の男子生徒が立っていた。背筋が伸び、制服は端正に整えられ、落ち着いた表情には確かな自信がある。
「改めて僕は竹中六助。このクラスの委員長を務めている。竹中と呼んでくれ。」
口調は穏やかだが、しっかりとした芯がある。
「転校初めは色々と戸惑うことが多いと思うけど、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってほしい。学校生活がスムーズに進むよう、僕もできる限りサポートする」
委員長らしい、誠実な対応。それでいて、押しつけがましい感じはない。
「クラスのみんなも協力的だから、すぐに馴染めると思うよ」
竹中はまっすぐ赤瀬くんを見つめた。その言葉には、相手を思いやる真剣さが滲んでいる。
「……ありがとう」
そう答えると、竹中は優しく頷いた。
竹中——誠実で真面目な委員長
午後の授業もスムーズに終えた。
こうして転校初日の授業は順調に進み、俺は安堵した。
授業が終わると、俺は一足先に教室を後にした。目の前には新しい校舎と広がる未来があり、心の中では不思議な安心感とともに、まだ掴めない過去へのわずかな気配がくすぐられていた。
「赤瀬、ちょっとこっち!」
佐藤の明るい声が背中に届く。ふと足が止まり、隣で黙々と歩く九条が顔を横切る。二人はすぐに僕の隣に並んだ。
「初日の授業、どうだった?」
佐藤が尋ねるが、言葉は短く、簡潔だった。俺は「普通」とだけ答える。記憶がないせいか、どんな反応が正しいのか、分からなかった。
そのまま、校庭で数組の生徒たちと散らばったグループが声を交わす中、佐藤が次の誘いをする。
「放課後、みんなで公園行こうぜ。キャッチボールやら、ちょっとした遊びでもしないか。」
「うん、わかった。」
俺は、軽く頷いた。
公園に着くと、佐藤と九条は最小限の言葉で打ち解け合いながらキャッチボールをしていた。ボールが空中を舞うたび、誰かの笑い声がかすかに響く。
「ふー、すげえ速かったな。」
佐藤の一言に、俺は素直な驚きを隠せなかった。
「俺、こんなに運動得意だったんだな。自分でも不思議だ」
内心呟いた。過去の自分がどうだったのかは分からないが、今の体は確かに動きを覚えていた。
その後、佐藤と九条に促され、近くのゲームセンターへ向かった。ゲームセンターの中は、雑音と笑い声が混じり合い、まるで新たな世界の入口のようだった。
「よし、次はみんなで対戦しようぜ」
佐藤の短い呼びかけに、僕はただ頷くだけで答えた。
瞬く間に、俺たちはゲームの中で熱い戦いを繰り広げた。シンプルな操作と呼応するチームプレイ。勝ったときの達成感が、今まで感じたことのなかった充足感をもたらした。
その夜、帰り道の街灯の明かりの下、俺はひとり歩いた。記憶がなくとも確かなのは、今日という日が新たな一歩になったという事実だ。佐藤や九条とのやり取りは無駄な飾りもなく、素直な交流そのものだった。
「これが、俺の今なんだ」
無言の中、ただ胸に刻むだけ。失われた過去の代わりに、ここで感じた友情と喜びが、少しずつ俺を形作っていくような気がした。