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。。
白い天井が広がっていた。
意識が戻る。まず、指先。次にまぶた。ゆっくりと視線を巡らせると、すべてが一様に白かった。無機質で、透明で、冷たかった。
記憶が、ない。
雷翔は息を呑む。喉が渇いていた。体の奥底にある空洞のような感覚──何か、決定的なものを失くしている。
「目覚めました!」
唐突に響く声。驚いて目をやると、看護師が駆け出し、医師を呼びに行くのが見えた。俺は、自分がこの病室にいる理由を考えようとするが、その思考さえ霧のようにぼやける。
看護師が去った病室には、再び静けさが戻った。
機械の音が微かに鼓動を刻む。それに合わせるように、自分の呼吸がある。すべてが不自然なほど整然としていた。だが、自分の内側は、そうではない。
俺は、掌を握る。指先の温度を確かめる。それがどこか遠い感覚に思えた。
扉が開く。
視線が動く。
そこに立っていたのは、顔に傷のある大柄の男だった。眼帯をしていた。
彼の顔を見ても、何かがこぼれ落ちることはなかった。懐かしさというものが、どんな形だったのか、思い出せなかった。
眠れる気がしなかった。
天井を見つめる。無機質な白が広がっている。病院の空気は静かすぎて、物音ひとつない。機械の音だけが淡々と響いている。
「雷翔」
自分の名前らしい。けれど、それが自分のものだとどうしても思えない。違和感が絡みつく。
保護者。山田和夫。
男はそう名乗った。父ではない。血のつながりはない。なのに、自分の過去を知っているらしい。だが、その過去を語ることを急がなかった。
記憶喪失、のようなものがどれくらい続くのか見当もつかない。何かを思い出そうとしても、思い出せない。
考え続けても答えは出ない。目を閉じる。眠れるわけがないのに、ただ無理やり思考を止めようとする。
目を開けると、窓の外はもう明るかった。
寝たのか寝ていないのか分からないまま、ぼんやりとベッドに座り込んでいると、ノックの音がした。
「起きてるか?」
山田の声だった。
「朝飯だ。」
湯気の立たない味噌汁。焼き魚。白飯。
「もうすぐ退院だな」
男はそう言った。退院。つまり、家に帰るということだ。
「……俺の家なのか?」
気づけば聞いていた。
少し考えてから答えた。
「お前が住んでいた家だ」
その言い方が妙に引っかかった。言葉に含みがある気がした。けれど、それを深く追及する気にはなれなかった。
午後。病院を出た。
山田の車は黒いセダンだった。助手席に座る。窓の外には知らない街が広がっている。
車は静かに進む。エンジンの音だけが響く。山田はほとんど言葉を発しなかった。俺も話す気が起きなかった。
「……お前は転校が決まっていた」
唐突に男が言った。
「高校三年、お前は17歳だ。転校することになっていた」
転校? 高校三年? 17歳?
何ひとつピンとこない。けれど、事実として語られるそれらの情報は、俺のものなのだろう。
「何か……思い出せるか?」
静かな問いかけ。
「……何も」
答えは変わらなかった。
「……雷翔」
声が低く響く。俺の名前か?俺は応えようとして、喉が詰まった。
男:「俺が誰かわからないか………?」
頷く。
男は沈黙する。病室の無機質な光が、彼の影を長く引き伸ばしている。雷翔は、その影を見つめながら、心の奥で何かが音を立てていた。
目の前の男は、自分をじっと見つめていた。
言葉を探し、記憶を掘ろうとする。何も出てこない。名は?年齢は?過去は?自分のことなのに、どれひとつ分からなかった。
「自分が何者かわからない」
「……覚えてないのか?」
男は静かにそう言った。声に焦りはない。ただ、確認するような響きだった。
「何もかも、か?」
頷く。病室の白い光の中で、自分がどんな顔をしているのかすら想像できない。
「お前の名前は……雷翔だ」
響きは、どこか遠くのもののようだった。
男は言葉を継ぐ。
「俺は山田和夫。お前の保護者だ」
その言葉は、さらに遠かった。父ではない。血のつながりはない。だが、自分を知っている。何者かだった自分を知る、唯一の存在。
「一日、ここで様子を見る。医者がそう言った。明日、家に帰る」
家。自分の家? 雷翔は、ただその言葉を受け止めることしかできなかった。
眠れる気がしなかった。
天井を見つめる。無機質な白が広がっている。病院の空気は静かすぎて、物音ひとつない。機械の音だけが淡々と響いている。
「雷翔」
自分の名前らしい。けれど、それが自分のものだとどうしても思えない。違和感が絡みつく。
保護者。山田和夫。
男はそう名乗った。父ではない。血のつながりはない。なのに、自分の過去を知っているらしい。だが、その過去を語ることを急がなかった。
記憶喪失、のようなものがどれくらい続くのか見当もつかない。何かを思い出そうとしても、思い出せない。
考え続けても答えは出ない。目を閉じる。眠れるわけがないのに、ただ無理やり思考を止めようとする。
目を開けると、窓の外はもう明るかった。
寝たのか寝ていないのか分からないまま、ぼんやりとベッドに座り込んでいると、ノックの音がした。
「起きてるか?」
山田の声だった。
「朝飯だ。」
湯気の立たない味噌汁。焼き魚。白飯。
「もうすぐ退院だな」
男はそう言った。退院。つまり、家に帰るということだ。
「……俺の家なのか?」
気づけば聞いていた。
少し考えてから答えた。
「お前が住んでいた家だ」
その言い方が妙に引っかかった。言葉に含みがある気がした。けれど、それを深く追及する気にはなれなかった。
午後。病院を出た。
山田の車は黒いセダンだった。助手席に座る。窓の外には知らない街が広がっている。
車は静かに進む。エンジンの音だけが響く。山田はほとんど言葉を発しなかった。俺も話す気が起きなかった。
「……お前は転校が決まっていた」
唐突に男が言った。
「高校三年、お前は17歳だ。転校することになっていた」
転校? 高校三年? 17歳?
何ひとつピンとこない。けれど、事実として語られるそれらの情報は、俺のものなのだろう。
「何か……思い出せるか?」
静かな問いかけ。
「……何も」
答えは変わらなかった。
家に帰った。
玄関をくぐっても、何ひとつ懐かしさを感じなかった。ただ、ただ、そこにあるもののように思えた。
夕食の席。山田は俺の向かいに座った。食卓は質素だった。
「食え」
促され、箸を取る。食べる。けれど、味がしない。
「お前は転校する予定だった。今は休学扱いだが……通いたいか?」
転校? 休学?
「高2の春休み、お前は転校先がどんなところか楽しみだって言ってたぞ。」
その言葉が妙に引っかかった。何かが引っ張られる感覚があった。
俺は……転校を楽しみにしていた?
「……行きたい」
その言葉は、なぜか迷いなく出た。何ひとつ思い出せないのに、それだけははっきりしていた。
沈黙が落ちる。食卓には、静寂だけが広がる。
「俺は……どんな奴だった?その他にもなにかあるか」
思わず聞いていた。自分の過去。その一言に、すべてが詰まっている気がした。
山田は少し考えてから、ゆっくりと言った。
「いろいろある……今度話そう」
「いろいろ」とは何なのか。気になった。だが、それ以上問うことはできなかった。
目を開けると、窓の外はもう明るかった。
食卓につく。昨日と同じく、質素な朝食。
「俺は……どうして記憶を失った?」
食卓の静寂を破るように問いかける。山田は箸を止め、少し考えてから答えた。
「今年高2と高3の間の春休みのことだ。」
「お前は、家の近くで事故に遭った。階段から落ちたんだ」
「どこで?」
「家の前だ。雨の日だった。滑ったんだ」
「救急車で運ばれて、しばらく入院した。脳に異常はなかったが……」
「記憶が消えた」
呟くと、山田は小さく頷いた。
雷翔は静かに考える。事故は突発的なもので、理屈に合う。記憶が戻らないのも説明がつく。
「……納得したか?」
山田が言う。
「……ああ」
確かめるように答える。記憶喪失は突発的な事故だった。それならば、仕方がない。
これで終わりなのか? そうではない。記憶が消えた事実は受け入れたとしても、失われたものは戻らない。自分の過去がどんなものだったのか——それはまだ霧の中だ。