第一話 月の傷
本作は第一話全文試し読みとなっています。ただいま花川愛はクラウドファンディングの会社、アクトナウにてクラウドファンディングを行っています。興味を持っていただければ幸いです
深い眠りの底から、徐々に引き上げられていく。懐かしい、あの人の声と共に。
「キマ、起きろ。おい。・・・・・・おい!起きろってんだ、キマ!
お前も起きないと俺が動けねーだろ!!」
ハッと目を覚ます。その声の鮮明さは、まるで本当に彼が近くに居るようで、思わず僕は布団から飛び起きた。目から涙が伝う感触がわかる。まだ見慣れない自分の部屋を見渡す。社会人になって引っ越してきたばかりのマンションの一室。僕以外、誰もいない。
「・・・なあんだ」
懐かしい声。
今はいない貴方の声に、起こされたのはいつぶりでしょうか。
『午前零時に』
茶碗に盛られた白い粉に水を注ぐと、太陽の光を反射して雪のように輝く。それを箸でかき混ぜると、粘り気の強い餅の完成だ。通称練り餅。穀物粉と水だけで作れる、時間とお金が無い若者の神様。口いっぱいに頬張り、穀物の甘みを噛みしめると、咀嚼音の他に時計の動く音が聞こえた。目をやると、それなりに危機感を覚える時刻。急いで出発しなければ、会社行きのトロッコに間に合わないかもしれない。
「思ったより時間なかった!!」
僕はポシェットを肩から下げると、全速力で部屋を飛び出した。神様は若者の時間管理能力まで救ってはくれない。
外へ繋がるマンションのドアを勢いよく開け、猫じゃらしの茂る丘を舗装した道を駆け下りる。湾曲した円錐型の巨石をくり抜いて造られたマンションを背景に、僕は丘の下の停留所に急ぐ。あと半分で停留所に着く、というところでトロッコが到着してしまった。大きな蛇のような頭部の後ろに木箱型の車両が続く無人のトロッコ。ムカデのような数多の脚で静かにやって来た。トロッコはしばらく停留所の前に停車していたが、僕の存在には気づかず「発車します」と無機質な声と共に再び歩を進めた。
逃すものか。駆け込み乗車を決意した僕は、坂道に四肢をつけグッと後ろ脚に力を入れると、得意の俊足で前方に飛び出した。
僕のルーツは恐らくウサギや猫などの哺乳類。夜目が利くことから月下族と呼ばれる、世界七種族の中の一族。ブロンドの毛に覆われた後ろ脚で大きく前進し、長い尾と肌がむき出しの前脚でバランスを取る。この走り方は日常生活ではあまり使わないので少しぎこちないが、どうしても遅刻したくない僕は必死に走った。無理もない。今日は初出勤なのだ。
最終車両が停留所を通り過ぎる寸前に、僕は車両の縁を掴み、勢いよく転がり込んだ。
間に合った、と息をつき、少し上がった呼吸を整える。車両の内壁に生えた口から「駆け込み乗車は控えなさんなお若いの」と叱られたので、乗車切符を食べさせて黙らせた。
今日のピンチを一つ乗り越え、落ち着きを取り戻した僕はトロッコから身を乗り出して景色を眺める。
太陽が光の渦を巻いてあたたかく世界を照らしている。田んぼを埋め尽くす苗が陽の光を受けて黄緑色に輝いていた。空は明るい黄色だ。今年の空は黄色なのだ。毎年空は色を変え、七年で一周する。この色の空の下で過ごすのは三度目だ。二一歳を迎えた僕は、成人としてこれから生きることになる。不安は大きいが、なんとかやっていけるだろう。
僕が勤めるのは『補助板委員会』と名乗る心理療法と便利屋を兼ねた小さな会社だ。この世界には、生き抜くためには絶対に倒さなければならない敵がいる。
『シレン』。僕らを食べる異形の化け物。赤黒くただれた肌に単眼という姿が通常だが、厄介なのが奴らの戦法だ。奴らには、僕らの心の傷を見透かす力があり、捕食対象の人のトラウマを呼び起こすものの姿を模して現れるのだ。シレンと戦うことは、己のトラウマに向き合うことを意味する。自分の弱さを受け入れた人にとっては、シレンと戦うことは容易だ。しかし大抵の人はそうはいかない。このトロッコをデザインした人だって、もうこの世には居ないのだ。
「儂の親のことを考えているのかい」
不意にさっきの口から声をかけられ心臓が止まる。すみません、と謝ると、口は穏やかに言う。
「いや、いいんだ。むしろ嬉しいくらいだよ。儂の親のことを知っている人は多くはないからね」
ああ、そうだったのか、と改めてトロッコを見渡す。この意匠を施したのは、当時僕より年上だった中学の先輩だった。芸術家を目指していた彼は、地域のトロッコデザインコンテストで優勝した。しかし、その数日後、彼は事故で利き腕を無くしたのだ。ものづくりで生きる道を目指していた彼には相当こたえたことだろう。その年に、彼は片腕のシレンに殺された。町を走るこのトロッコは、彼の最後の作品となったのだ。事故の直後、彼が片腕でもできることはあると考え直せていれば。彼と苦しみを分かち合い、支えてくれる存在があれば。彼はまだ生きていたのかもしれない。
だから僕は、傷を抱える人と寄り添うこの会社を選んだ。それに、人の傷と向き合えば、自分の傷とも向き合えるような気がしたのだ。今朝僕を起こしてくれた、今は会えない彼への寂しさの傷。強くて優しかった、大好きな兄ちゃん。
戻らない芸術家と兄のことを思い出していたら、会社のあるオフィスビルの前の停留所に到着した。トロッコを見送り、ビルを見上げる。マンションと同じく円錐石をくり抜いた造りで、外壁は背の低い壁画で彩られていた。恐らく近くの小学校の子ども達が描いたのだろう。中へ入った先にあるオフィス内の地図を食い入るように眺め、自分が目指すべきテナントの場所を探す。見つからないな、とぼやきながら地図を目でなぞっていると、不意に隣から荒い口調の凛とした声が聞こえた。
「やっぱ俺、地図読めねえなあ。親譲りか?顔は知らんが」
声のする方を向くと、そこには地図を睨む多腕の少女がいた。絡繰り人形のような外骨格の手を見る限り、虫をルーツとする地底族だろう。年は僕と同じくらいだろうか。などと考えているうちに、こちら側の視線に気づいたのか、少女が僕を見た。気の強そうな、複眼の名残を感じさせる藍色の瞳。慌てて目をそらそうとすると、がしりと肩を掴まれ、「そこの兄ちゃん、俺を救ってはくれないか?」と助けを求められた。
「なあ、頼むよ兄ちゃん。遅刻の危機なんだ」
「偶然ですね、僕も貴女と同じ状況です」
「『補助板委員会』の場所を探している」
「偶然ですね、僕も貴女と同じ状況です」
まさか同僚だったとは。癖は強いが良い人そうだ。
「僕は月下族のキマ。君は?」
「俺は地底のシフォン。よろしくな」
しばらく二人で地図と格闘した後、やっとのことで見つけ出した会社のある階に向かって疾走した。
花で埋まった中庭や、日の射し込む階段を過ぎた先に会社はあった。『補助板委員会』と書かれた質素な看板が貼り付けられてある扉を押し、二人で部屋になだれ込む。時計を見ると、模範的な出社時間ではないが遅刻は回避したので、互いに目を合わせ、安堵のため息を吐いた。部屋は仕切られていてどんな人が居るのかはよく見えないが、和やかな会話が聞こえる。その仕切りの内側から、透き通った青い長髪の女性が出てきた。水のように半透明な髪から覗く耳は扇のようなヒレだ。魚をルーツとする水面族の彼女はゆったりとしたロングスカートの下から尾びれを光らせ、僕らのもとに歩み寄ると「初めまして」とにこやかに礼をした。
「本社を取り締まる社長のナガレです。これからよろしくね」
よろしくお願いします、と二人で頭を下げる。社内の雰囲気もそうだが、社長も含めこの会社からは堅苦しい空気を感じない。目上の人に馴れ馴れしく接するつもりはないが、打ち解ける分には問題なさそうだ、と安堵したのも束の間、
「社長の髪って水みたいに流れるんですねー」
とシフォンちゃんの陽気な声が部屋に響いた。社長の後ろに立ち、彼女の髪を指の隙間からこぼしてうっとりとしている。この会社で一番位の高い方に対してそのような行為ができる彼女の度胸に度肝を抜かれ、僕はわなわなと震える。怒らせてしまったらどうするんだ。
しかし、社長は気にする素振りもなく、むしろシフォンちゃんの髪を撫でながら、「シフォンちゃんの髪も土みたいにふわふわで指通りも良いわ」と可愛がっている。
「あら、ここはくせっ毛なのね」
「はい、砂利って呼んでます」
ガハハ、と豪快に笑うシフォンちゃん。この極めて短い時間でここまで打ち解けるとは。薄茶のボブヘアから生えた触覚が楽しそうにぴょこぴょこと動いている様子を見る限り、心から楽しんで話しているのだろう。素直な人なんだな。そんな彼女を受け入れて慈しむ社長もまた、人を信じる心の強い、優しい人なのだろう。
社長から大まかな仕事の仕方を教わった。普段は他の会社から頼まれた雑務をこなし、時と場合に応じて客の抱える傷と向き合う。時にはシレンを討伐することもあるそうだ。
「じゃあ、二人にはまず、薬草屋のホムラさんのところで水灯籠を買ってきてもらおうかしら」
水灯籠。湖の底に生える薬草の名前だったはずだ。どんな見た目だったかまでは覚えていないが、きっとそのホムラさんと言う人に聞けばわかるだろう。僕とシフォンちゃんは社長から薬草屋の場所を教わると、ビルから少し離れた商店街へ歩いた。
小さな薬草屋はすぐに見つかった。小学校を一軒家の大きさに縮めたような造りで、白いタイルと防音のための穴がたくさん空いた壁が懐かしかった。しかし、定休日でもお昼休みでもないと言うのに、ホムラさんらしき人が見当たらないのだ。困ったなあ、と二人で顔を見合わせていると、どこかから誰かの笑い声がした。
「下の方から聞こえたな。霊か?」
「怖いこと言わないでよ・・・」
狭い店内をぐるりと探しても、声の主は見つからない。幸い店の中には僕とシフォンちゃんしかいないため、気にする視線が無いのはありがたいが、ホムラさんを見つけない限り仕事が進まない。何気なく背の高い机で仕切られたカウンターの店員が立つ側を覗いてみる。すると、そこにはなんと地下に続く鉄階段が隠されていたのだ。「やるじゃんキマ!」と目を輝かせるシフォンちゃん。よし行くぞ!と意気込んで地下に潜っていく。その先にホムラさんが居るとは限らないのに。むしろ居るのが幽霊だったらどうするんだ、と情けないことを思いながらも、僕は恐怖を殺して彼女について行った。
ハーブの香りと、嗅ぎなれない土のような香りが混ざる地下通路の先に、ホムラさんは居た。そして、シフォンちゃんが霊のものだと言っていた笑い声もまた、ホムラさんのものだった。ドアの隙間から部屋を覗く。赤みを帯びた長い黒髪に混じりっ気の無い漆黒の翼。火炎族の彼女は、工房のような地下室の机の上に座り、恍惚とした表情で人形の頭を抱えていた。
「だあいすきよ、マイだぁりん」
と呟きながら。
こっっっっわ。ヒュッと息を飲み、僕らは階段の影に隠れ、カタカタと震える。
「薬草を買うなんて無理だよ」
「そうだそうだ、人形の首にだぁりんとか」
本当に薬を作って生活している人なのだろうか。想像していた薬草屋さんとは180度異なるその奇妙な光景を前に、僕らは硬直状態に陥った。どうしたものか、と壁にもたれかかろうとすると、うっかり何かを倒してしまった。バタバタとアルバムのような分厚い本が薄暗い空間に広がる。
「あら、お客さんかい?」
本が倒れる音を聞きつけ、ホムラさんが僕らのもとに近づいて来る足音が聞こえる。終わった。怒られるだけではきっと済まされないだろう。ごめんシフォンちゃん。初仕事で組んだ相手が僕だったばっかりに。
いたずらが先生にバレたときの懐かしい恐怖を思い出しながら、僕は土下座で彼女を待った。
「本当に申し訳ございませんでした」
「良いんだよ。こっちこそ悪かったね、変なの見せちまってさ」
ホムラさんは意外にも常識のある人だった。ホムラさんは暗闇の中で土下座をする僕に軽く驚いたものの、本を倒してしまったことを責めることなく僕らを部屋に招き入れてくれた。
どうやら彼女は、人形作りを趣味としているらしい。昼休みや、客足が少ない時間帯はよく地下の自室で人形を作っているのだそうだ。
「ホムラさん、さっき人形の生首抱きしめて笑ってましたけど、だぁりんとは一体・・・?」
いぶかしげにシフォンちゃんが問う。触れて良いものなのかどうか心配だが。
「ああ、あの子ね。よくできてるでしょう。何度も調整して人と形も大きさもそっくりになるように頑張ったんだから」
ホムラさんが指差す方を見ると、そこには先程の頭部の他に、まだ接合されていない胴体や四肢が転がっていた。
「自分で恋人を作ってるの。試行錯誤の分だけ愛を込めるからね。重たい愛だよ我ながら」
クスクスと笑いながら彼女は人形を愛でる。そして、ふと我に返ったようにこちらを振り向くと、「まだあんた方が何しに来たか聞いてなかったね」と焦った様子で戻ってきた。
「僕ら、水灯籠を買いに来たんです」
「水灯籠ね。あったかな。まだ収穫してなかった気がするんだ」
ホムラさんは一度地上に上がって薬棚を調べていたが、「すまないね、あいにく品切れだよ」と地下の僕らに頭を下げた。
「商売の下手な奴でごめんよ。趣味にはまりすぎるのも良くない。生息してる場所なら教えてあげられるんだが」
「構いません。わざわざありがとうございます」
僕らは地図を受け取り、水灯籠の特徴を教わると、礼をして薬草屋から出ようとした。
「そうだ。お二人さんはあたしを変人だと思ってるでしょう」
僕らはギクリとして振り返ると、遠慮がちに首を縦に振った。ホムラさんは「そう思うのが妥当だろうよ」と笑った。そしてふと冷静な顔になると、「あたしが訳ありな変人だって話、しても良いかい?」と囁いた。
なんてことない雑務先でも人の傷に寄り添うことはよくあると社長が言っていた。彼女は一体どんな傷を抱えているのだろう。ホムラさんは一息つくと、暗い声で言った。
「実の弟に犯された時の、心の傷がまだ痛む」
あまりにも痛ましい過去に息を呑んだ。
「変な教育をしたつもりはなかったんだがね。あいつなりの愛情表現か、ただの性倒錯か。お陰で性のある人間が怖くなってね。無性の無機物しか愛せなくなってしまったよ」
だから彼女は人形を作っていたのか。趣味と呼んでいたその行為に、そんな悲惨な過去が隠されていたとは。
「弟さんは、どうなったんです」
シフォンちゃんが震える声で訊く。シフォンちゃんはこんな悲惨な話を聞いて大丈夫なのだろうか。男性不信になりかねないことだろうに。
「あいつはシレンの亜種に駆除されて死んだよ」
シレンの亜種。元は人間なのだそうだ。過度な苦悩を消化できない人は稀にシレンと化すと言われている。自分の人生を壊した対象を殺すために。
「その亜種はね、あたしを助けようとしてくれたんだ。間に合わなかったことを悔やんでいたよ。その人も昔、人間だった頃に男から酷い目に遭ってきたらしい」
ホムラさんはしばらくうつむいて黙り込むと、元の口調に戻り顔を上げた。
「すまない。無垢な若者にこんな話するんじゃなかったね。地底の姉ちゃんだって恋多き年頃なのに」
「そんなことないです。それに俺、恋愛とか結婚とか興味無いし」
おや、珍しいね、とホムラさんは目を丸くする。僕も驚いた。地底族は生まれつき短命で、その宿命からか多夫多妻文化が受け継がれた特殊な種族だからだ。今朝初めて会った時『親譲りか?顔は知らんが』と言っていた理由は恐らくそれだろう。
「なんか、せっかく頑張って独り立ちして家を出たのに、どうしてまた家庭を築かなきゃなんねえのかなって。あ、推し活はしますよ?でも、『手が届かないから手を伸ばさない』くらいの距離の人を推して生きる方が心地良いって言うか」
そっか。シフォンちゃんみたいな人も居るんだな。地底族は皆忙しく恋に走るものだ、という固定概念から少しだけ抜け出せたような気がする。
「あんたも一風変わった奴だね。好きだよ、あんたみたいな子」
ホムラさんは優しく彼女の頭を撫で、慈しみを含んだ眼差しを向ける。彼女が傷を負わなければ、きっと我が子にも向けていた眼差しなのではないかと一瞬思い、胸が痛んだ。
こうして、僕らは薬草屋を出た。結局彼女に自分たちが補助板委員会の社員であることは伝えられなかったが、僕らが彼女の話を聞いたことが、少しでも彼女が傷と向き合えるきっかけになれたらと思う。補助板委員会の『補助板』には、「傷つき苦しむ人々がシレンに打ち勝つとき踏ん張れるように」という願いが込められているのだ。
時刻は昼を少し過ぎたぐらいだった。地図によると、水灯籠はどうやら隣町の湖畔地区で収穫できるらしい。春先の今ぐらいの時期なら咲いているはずだとホムラさんは言っていた。無い土地勘を必死に振り絞り、湖への行き方を駅で調べた僕らは亡霊の如く力尽きた有様でなんとかトロッコに乗った。
細やかで滑らかな揺れが心地良い。僕はポシェットを開けてお昼ごはんを出すと、どうやら忘れてきたっぽいシフォンちゃんと半分こして食べた。ふかし芋とリンゴ。「どこぞの民族だよ」とツッコミを入れられた。
隣町と言えど湖畔までは少し遠いそうだ。雨が降るような様子はない花曇りの黄色の空。今朝より雲は増えたが夕方には晴れるらしい。二人してぼんやり眺めていると、唐突にシフォンちゃんが口を開いた。
「そういやキマって珍しい姿してるよな。地底族異色系の俺に言えたことではないが」
そう言われ、改めて自分を見返す。生まれたときからこの姿だから気にも留めず生きてきたからな。いや、思春期ぐらいは気にしたか。
僕は目の色が左右で異なる。右の瞳はオレンジ色をしているが、左の瞳は白く、本来なら白いはずの白目の部分は反転したように黒い。それから、アシンメトリーな耳。右は尖った猫の耳。左は長く垂れたウサギの耳。珍しいとは自分でも思う。月下族のルーツは哺乳類に縛られているとは言え多種多様だが、一人の人間に複数の種族の特徴が現れることはほとんどないからだ。確かに珍しいよね、と返答し、なぜこんな姿なのだろうと考える。ただの突然変異だろうとは思っているのだが、何か引っかかる記憶があるような気もする。ただ一つ思い出せるのは、母と一緒にどこかから家に帰るためトロッコに乗っていた記憶。夕日を眺めていた幼い頃の僕が母を見ると、母は寂しそうな目で涙を流していた。そんな記憶。
気がつけば、僕らは眠ってしまっていた。少しひんやりとしてきた空気に震え、くしゃみをして目を覚ますと、ちょうど湖畔前の駅にたどり着くところだった。シフォンちゃんを起こし、降車する。じきに日が沈む、夕方の時刻だった。
「一つの町でも広いからな、この辺。俺らなんかに見つけられんのかね、水灯籠」
「社長、心配してないといいな。まさかこんなに時間かかるとは思わなかったよね」
やぶ道をしばらく歩き、湖に着いた。社長とホムラさん曰く、水灯籠は山菜のようなものだから収穫しても罪には問われないらしい。それから、少量でも強い効能を持つため、採る量も少しでいいのだとか。
「なんだっけ。花の蕾が光るんだったか」
「そう言ってたね。日が沈む頃に光出すからもう少し周りが暗くなれば摘みに行けるかな」
「湖の底に生えてるんだよな。だったらキマ、摘む役キマに任せてもいいか?」
泳ぐのが苦手なの?と訊くと「いや、浮くんだよね俺んとこの種族。個人差はあるけど」と衝撃の返答が返ってきた。そうかなるほど。浮くのか。虫だから。
辺りが暗くなってきたので、僕は湖に潜る準備を始めた。ズボンはゆったりした作りになっているからすぐ乾くだろうが、上は上着の下にヒートテックを着ているから濡れたら堪えるだろう。上だけでも脱いで入ろう。
「じゃあ言ってくるね」
「溺れたら言えよ。浮袋にはなってやれる」
春先とは言え冷たい水の中に沈んだ僕は、光る蕾を探して泳ぎだした。
日没が早くて助かった。水草や石に隠れて、水灯籠は光っていた。チューリップのような大きな蕾が、細く長い茎の先でゆったりと揺れている。神経を落ち着かせる効能があることから、精神安定剤として使われるのだとか。春は環境の変化もあってストレスを感じやすい時期だから、ありがたい植物だ。何度か息継ぎを繰り返した後、僕は数本の水灯籠を手に陸に上がった。浮力が消えるのと同時に重力が戻ってくる。短時間の遊泳だったが少し疲れた。「会社に帰ろうか」とシフォンちゃんの方を見ると、なぜか目をそらしている。上裸とは言え見ないでくれているのだろうか。僕は別に気にしないのに。シフォンちゃんはためらいがちに「キマ、月が出てる」と言った。
ああ、本当だ。月が出ている。綺麗だなあ。
しばらく眺めてから気づいた。何を呑気に月見をしているんだ。月が出ているではないか。僕は手を月光にかざした。徐々に手が透け、半透明になっていく。僕らは月の光に当たると、完全ではないが体が透けてしまうのだ。でも、一部だけ透けない部分がある。それが心の傷だ。例えば火傷がトラウマの人は、体の火傷が治った後も、火傷を負った箇所が当時の痛みと恐怖を残すかのように、月光を浴びても透けなくなる。月の光を浴びることで浮かび上がる傷だから、これらは月の傷と呼ばれている。でもこの傷はあまり人のものを見ることも自分のものを見せることも良くないとされている。プライバシーの侵害のようなものだからだ。僕の月の傷は大したものではないし、どういう経緯でできた傷なのかもわかっていないからどうでもいいのだが、シフォンちゃんに気を使わせてしまうから手早く服をまとった。
もう大丈夫だよ、と声をかけ帰路につく。シフォンちゃんが少し青ざめているような気がしたので、傷を心配してくれているのかなと思い、傷は大したものじゃないと伝えておいた。これで違っていたら恥ずかしいな。
帰りのトロッコの上で、近くにあった店で買ったお弁当を食べる。空腹だったことに加え、会計の時に温めてもらったからか余計に身に染みた。会社に着いたら水灯籠を届けて帰ろう。月に照らされ半透明になった僕たちは、ただ静かに月を眺めて黙っていた。明日はどんな仕事が待っているだろうか。ホムラさんはシレンに勝てるのだろうか。
考えても仕方のない不安を抱え、ただ揺られていた。
その夜、ホムラは部屋で一人アルバムを見返していた。昼に訪れた客人が倒したことでその存在を思い出した、弟が写っている写真をまとめたアルバム。
「懐かしいね。年は離れていたが、賢い良い子だった」
ああなる他に道はなかったのか、とホムラは弟が死んだ夜を思い出した。
あたしを食った弟が、亜種に喰われていく。あたしは乱れた服を握りしめ、亜種を見つめていた。大きな両眼が虚ろに見開かれた歪な頭。不揃いな歯が弟の頭を噛み砕いた。
あたしは弟が亜種の肚に消えるまで、ずっと亜種を見つめていた。あたしから全てを奪った弟のことを考えながら。亜種はあたしの方を見ると、血に濡れた顔で歩み寄り、手を伸ばした。
「可哀想に」
そこに亜種の姿はなかった。自分と年の大して変わらないぐらいの女性が、あたしを優しく抱きしめていた。これが、亜種の人の頃の姿なのか。すっと射し込んだ月の光に照らされて、女性の月の傷が浮かび上がる。それはあまりにも酷い、痛々しい傷だった。えぐられたような傷痕と、熱湯をかけられたような火傷。それが下腹部に浮かんでいた。彼女が亜種になることを選んだ理由がよくわかる。彼女は女性を傷つける男を殺して廻っているのだ。
「殺して頂戴」
あたしは彼女の背に手を回し、消え入りそうな声で言った。
「汚されてしまった。もう、今までのようには生きられない」
おぞましい感触が体に染み付いて離れない。耐え難い苦痛。女と定義される人間は、たった一晩で人生を狂わされてしまうのだ。
しかし、彼女はあたしを殺さなかった。
「ならせめて、あたしも亜種になる」
彼女は首を横に振った。
「それも、駄目なのかい」
彼女は悲しそうにうなずき、そして「首を見て」と擦り寄った。
あたしは彼女の首を隠す髪をかき分けると息を呑んだ。無数の釘が肉に食い込み、彼女を蝕んでいる。
「人を殺すたびに増えていくの。亜種になったらもう戻れないって。人だった頃のようには生きていけないって。釘がそう言うの。どんなに正当な殺しも、決して許されはしないのよ」
あたしは彼女に縋りついて哭いた。ならどうすればいいんだ。あたしはこの苦しみをずっと抱えて生きていかなければならないのか。全部彼女にぶつけた。彼女は優しく、あたしの苦悩を聞き続けてくれた。哭き疲れ寝入るまで。
その日の朝目を覚ますと、部屋は血潮すら残さず、何事もなかったかのように整然と黙っていた。しかし、昨夜の出来事が夢ではない証拠が、ありありとあたしに刻まれていた。
沈みかけの月に照らされ浮かんだ下腹部の傷。それから、何も具さない体。
あたしから性は消えていた。きっと、亜種になった彼女が消してくれたのだろう。これ以上あたしが傷つかないように。種の存続を拒み、愛されることを恐れる者の姿だ。
「これでいいんだ」
もう誰も愛せない。愛さない。あたしは無機物と共に生きるのだ。
「あれから何年経ったか。覚えてないな」
幼いあたしと一緒に笑っている小さな弟。写真の中でのみ生きる、清らかで美しかった姉弟。写真に目を落とすことで視界に入る平坦な体。あたしのだ。人を愛することも、愛されることもなくなったあたしの体だ。
ふっとため息を吐き、アルバムを閉じた。もう寝よう。明日に響く。アルバムを棚に戻して顔を上げたその時だった。
「姉さん」
目の前に、誰よりも共に過ごした人間が立っていた。どうして、お前がここに居るのだ。弟よ。
弟はあたしを見つめ、さも嬉しそうに笑っていた。驚きと同時に、愛も憎しみも同じだけ溢れてくる。会いたかった。お前が居ないとあたしは心から笑えない。よく帰ってきたな。そんな愛情と、よくもあたしを汚したな。よくもあたしを女一色に染めたな、と燃え上がる憎悪。何も言えず立ち尽くすあたしに弟は歩み寄り抱きしめた。
「ごめんね、姉さん」
ああ、そうか。お前の行為は、倒錯した愛情か。あたしは弟の背に手を回し、抱きしめ、首を折った。
「お前に会うのは、盆だけで十分だ」
くずおれる弟。その体は徐々に溶け、消えていく。奴がシレンだと言うことは最初からわかっていた。それでもすぐに殺せなかったのは、いや、殺さなかったのは、突然死んだ弟との再会を噛み締めたかったから。
「死人は大人しく死んでいろ」
もう、お前に会うことはないだろう。
月光に浮かぶ傷が、ほんの少しだけ薄くなった。
「あの傷は、一体何だ」
床に就いてから何時間経っただろう。触覚が不快そうにうねる。いつもなら掛け布団の質感を覚えるより先に寝てしまうのに。思い当たることが一点。今日仲良くなった同僚のキマだ。彼の月の傷を一瞬見てしまったのだ。その後すぐにキマが服を着てしまったのでしっかりと見たわけではないのだが、その傷は一瞬見ただけでも印象に残る異様さだった。
体中に張り巡らされた継ぎ目のような傷。本人はその大部分に及ぶ傷についてどう思っているのだろうか。気にしていないのか、まだ引きずる苦しみなのか。そしてなにより、その一瞬の中で目に入った一番衝撃的なもの。キマの背中に浮かんだ、手形のような傷。しかも動く。キマの内側から、ここから出せと言わんばかりにドンドンと叩いていた。音が聞こえてもおかしくないほどに。何かを封印してんのか、あれは。あの傷は一体、何だったんだ。
「明日どんな顔して会えば良いんだよ」
考えてもわからないことを考え続けて仮説も力も尽きた俺は、終わりなき思考の渦からようやく開放され、眠りに落ちた。次の日の朝、ぐったりした顔でキマに会ったことは言うまでもない。
「午前零時に」は「平穏と救済」をテーマにしたオリジナル小説です。私が小学6年生の頃から原案を練っていました。今後、ご要望がありましたら第二話の試し読みも行いたいと考えています。