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チャーハンの話4

 シャルロットは、闇を見つめていた。その大きく美しい灰色の眼は、ふだんは優しさと聡明さ、意志の強さに満ちているのだが、いまはただ困惑の色を光らせるのみだった。

 シャルロットはかつて漁るように読んだあらゆる本を思い起こし、知りうる限りの知識を手繰りよせるが、どうしてこうなったのかを理解することはできなかった。それでも彼女は、現状をできるかぎり整理しようとしていた。

 ――わたしは、たしかに、コルドリエ三十番地、マラーのアパートの前にいたはず。彼を、この手で殺すために。

 マラーとは、混乱の極みといえた革命当時のパリにおいて、山岳派と呼ばれる政治派閥のトップの一人として革命を推し進めていた人物である。

歴史上では、シャルロットはそのままたしかにマラーを暗殺したのだが、ここにいるシャルロットはまだ事を成していないという。

 ともかくシャルロットは、マラーを暗殺するために、ノルマンディーの田舎町からパリに単身上京してきた。数日滞在し、決行の日は、七月十四日の革命記念日を前日に控えた、とても暑い日だった。早朝に起床し、午前中に事を行なおうとマラーの住むアパートを訪れたが、同居人に門前払いをされてしまった。しかたなくいちど帰宅して、夜になってからもういちど彼のアパートに向かった。今度は門前払いをされぬよう、入念に準備をして。

 ――それなのに、彼のアパートの呼び鐘を鳴らそうとしたら、急に視界が眩しくなって……――。

 シャルロットのパリでの回想はここで終わった。光に目が眩み、次いで意識を失ったのだ。気がついたら、高い所から落ちそうになっていて、アオタという男に助けられたのである。

 ――マラーを殺すまでは、わたしは死ぬわけにはいかない。

 助かったときにまっさきに思ったことだった。シャルロットはこのことを思い起こし、胸元に手を置いた。懐中には、凶器に使うべく忍ばせた細身の包丁があった。

 アオタは不思議な男だった。まずフランス語が通じないし、顔つきが欧州人のそれとはまったく異なっていた。鼻が低く、堀が浅い。豊富な知識を持つシャルロットは、その中から東洋人の特徴をアオタと照らし合わせた。パリに東洋人がいたら話題になるであろうに、シャルロットはそんな噂は聞いたことがなかった。ちなみにフランス革命当時の日本は江戸時代の末期頃で、ペリーが来航する五十年以上前の鎖国状態であり、日本人がパリにいるということはおそらくありえないが、シャルロットはそんなことは知る由もない。

 ――アオタは、何者なのかはわからないが、誠実な人物だ。

 と、シャルロットは思った。身振り手振りで必死に対話を試みてくれた。アオタによると、ここはパリどころかフランスですらなく、ニホンのトウキョウ、というところらしい。パスポートや貨幣を見せたがどちらも通じないようだった。途方にくれたが、一晩自宅を提供してくれるとのことだった。疑ってもよさそうなものだが、アオタの懸命さはとても嘘を言っているようには思えない、とシャルロットは判断した。さらに言えば、少女の頃から十年余を修道院で育った彼女は、人を疑うことをあまり知らない。世間知らずといってもよかった。ともかく混乱しつつも、アオタの説明を受け入れた。

 その後は、ニホンという国の文明にひたすら圧倒され続けた。アオタの家に向かうために乗った鉄の馬(原付のこと)にまず驚いたし、夜でも明るく清潔な街並みや建物の造りもパリとは大違いだった。ただひとつ安心したのは、鉄の馬に乗って見た星空は、故郷のそれと変わらないことだった。

 アオタの家に着いてからも驚きは続いた。まずぱっと点いた明かりを見て、アオタが魔法を使ったのではないかと思った。白い大きな箱から水を出して与えてくれたが、どういうわけかよく冷えていて美味しかった。喉がカラカラだったシャルロットは、ひと息で半分も飲んだ。はしたなかっただろうか、とシャルロットは思い出して毛布をぎゅっと握った。

 食事を作ってくれるとのことだったが、持っているお金は使えないらしいのでせめてなにか手伝おうと思ったが、シャルロットの知る十八世紀フランスの台所とはあまりに勝手が違いすぎて、見守ることしかできなかった。

 ――アオタは料理が好きらしい。

 これほどの文明を自宅にもっていながら、アオタは使用人を使わずに自分で料理をしていた。何を言っているのかはさっぱりわからなかったが、楽しそうに作っていることは伝わった。

 ――あれは、なんという料理なのだろう。とても美味しかった。

 シャルロットはアオタが作ってくれたチャーハンを思いだした。修道院で清貧を美徳として育った彼女は美食とは縁遠く、あれほどしっかりとした味付けのものは知らなかった。

 ――できればもう一度食べたいけれど、明日にはすぐにでもフランスへ帰る手筈をつけなくては……。

 寝たふりをしたのは、はじめはアオタが眠ったすきに家を出て自力でフランスへ帰ろうとの算段だったが、命の恩人であり誠実さをみせてくれた彼を騙すようなことは、真面目なシャルロットにはできなかったのだ。

 ――なぜならわたしは、マラーを殺さなければならないのだから。

 空調のきいた部屋の心地よさが、早朝からの疲れと緊張を解していく。シャルロットはパリの熱さを思い、眠りについた。


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