第九十二話 狩られる蝶
ケンタはソウマの自室にやって来て、加護の本の事をソウマに尋ねていた。
「加護の本? ああ、これの事かな。」
ソウマはベッド脇まで体を伸ばし、棚の上に開いてある本を一冊手に取った。
ソウマが手に取った本は『加護は実在する』だった。
本の表紙を覗き込んだケンタは目を輝かせた。
「これだ、これ! この本、加護の事が書かれてるんだろ? ただの絵本とかじゃなくて。」
「うん、そうだよ。僕も隅々まで読んだわけじゃないけど……。」
ソウマは表紙と裏表紙を交互に見ながら答えた。
「そうか……。悪いんだけどこれ、ちょっと貸してくれないか? 宝玉の調査が思いのほか難航しててさ。」
ケンタは頭を掻いて苦笑しながら頼んだ。
「勿論いいよ、はい。」
ソウマは本を手渡した。
「ありがとな。終わったらすぐ返す。」
「うん、分かった。」
ソウマは頷き、部屋を出ていくケンタを見送った。
ガチャンと扉が閉まり、部屋にはソウマ、カレン、マディ、クロキ、そしてマディの頭の上のタマが残された。
「さてと……そしたら僕も、別室で休ませてもらうよ。」
クロキはそう言うと椅子から立ち上がった。
「はい、ありがとうございました。」
ソウマはクロキに礼を言った。
「うん。それじゃあ、ゆっくりね。」
クロキはそう言って部屋から出ていった。
部屋を出るクロキを見届けたマディは、ソウマのほうに向き直った。
「ソウマくぅぅぅん。さっき言った通り、君は心の治療に専念する必要があるんだけどぉぉぉ、僕はそれに協力してあげたいと思ってるんだぁぁぁ。そこで、どうだろぉぉぉ? 今の君の気分を教えてくれないかなぁぁぁ? 例えば、今は一人で居たい気分だとか、逆に誰かに居てもらいたい気分だとか、色々あると思うんだけど、どんな感じだぁぁぁい?」
マディはズイッとソウマに顔を寄せた。
マディのギョロギョロとした目で凝視されてソウマは少し戸惑ったが、マディの質問を聞くと、照れた様子で頬を赤らめた。
「あ~……えっと、正直な事を言うと、今は誰かに居てほしい感じ……ですかね……。話し相手が欲しいというか……。」
ソウマは頬を掻いて照れながらも、率直な気持ちを伝えた。
それに対して、マディはニッコリと笑った。
「うん、いいよぉぉぉ。それじゃあ、一緒にお喋りしよぉぉぉ。」
マディはそう言うと椅子に座り直し、話をする態勢になった。
「わ、私もここに居ていいかな?」
カレンは遠慮がちに尋ねた。
「うん、勿論。」
ソウマは快く了承した。
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ソウマの自室から漏れ聞こえる話し声は、外の廊下まで響いていた。
その廊下を、クロキは一人で歩いていた。廊下を進んで階段を下り、一階の廊下を進む。
「ん……。」
クロキは扉が開け放たれた状態の、とある部屋に視線を向けた。
そこはユキオの自室だった。
クロキはその部屋が気になり、部屋の前まで来ると立ち止まり、中を覗いた。クロキは部屋に入るのを少しだけ躊躇ったが、やがて吸い込まれるようにしてその部屋に入っていった。
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拠点の外は初夏の陽気に包まれていた。
拠点を囲む森は青々と色付き、黄色い蝶がヒラヒラと舞う。
拠点の二階ではソウマ、カレン、マディが会話をしていた。
「ソウマ君はいつも右手に何か巻いているよねぇぇぇ。それは何だぁぁぁい?」
マディはソウマの右手首を指さした。
「ああ、これはミスリングって言って、願い事をしながら巻くと、その願いが叶った時に千切れる物なんです」
「ほぉぉぉ。願掛けのようなものかなぁぁぁ?」
「はい、そんな感じです。」
ソウマはマディの問いに頷いた。
「なるほどぉぉぉ。ここにも既に千切れているミスリングがあるけど、これの時は、願いは叶ったのかぁぁぁい?」
マディはベッド脇の棚の上に置いてある、昔ミカが身に着けていたミスリングを指さした。
「いえ……それは僕のじゃないんです。僕が学校に通っていた頃の友達の物で……」
ソウマから『学校』という単語が出て、マディは思わずハッとした。
「学校の……。ごめんねぇぇぇ。辛い事を思い出させてしまったぁぁぁ。」
「い、いえ! いいんですよ。もう……昔の事ですから。」
ソウマは少し切ない表情をしながら、マディに笑って見せた。
「いやいやぁぁぁ。ソウマ君の気持ちを明るくするために居るのに、これじゃ逆効果だぁぁぁ。本当にごめんよぉぉぉ。」
マディは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「あはは……。そんなに気を遣わなくて大丈夫ですよ。どうぞ、手に取って見てもらって構いませんから。」
そう言ってソウマは、棚のミスリングを掴んでマディに渡そうとした。
「いいのかぁぁぁい?」
「ええ、どうぞ。」
「じゃあ、失礼するよぉぉぉ。」
マディはミスリングを受け取った。丸められた状態のミスリングを一直線に伸ばすと、マディはそれを日の光に当てながら繁々と眺めた。
マディの頭の上に陣取るタマもミスリングに興味を示し、スンスンと匂いを嗅いだ。
「とても綺麗な繊維で編み込まれているねぇぇぇ。」
「はい。確か、ドラゴンの髭を編み込んで作られているらしいです。」
ソウマはマディの持つミスリングに視線を向けながら言った。
「ドラゴンのぉぉぉ?」
マディは驚いて目を見開いた。
「は、はい……友達はそう言ってました。」
マディのあまりの驚きように、ソウマは少し自信無さげに答えた。
「んんん? ドラゴンはライオラ大陸には居ないはずぅぅぅ。一体どうやってぇぇぇ?」
マディは首を捻った。
「えっと、その友達のお父さんがドラゴンの研究をしている生物学者なんです。それで、研究の一環でゴレオ大陸まで行った時に、お土産で買ってきた物らしいです。」
「ゴレオ大陸まで……あの大陸にはドラゴンが居るからかぁぁぁ。いや、それにしてもどうやってゴレオまで……だって大陸の間の海には……」
マディは驚愕した様子で目を見開いたまま、一人でブツブツと呟いた。
ソウマとカレンはその様子を不安そうに見守った。
やがてマディはソウマ達の視線に気付き、ハッと我に返った。
「ああ、なんでもないよぉぉぉ。ごめんねぇぇぇ。」
マディは取り繕いながら、ソウマにミスリングを返した。
「は、はい……大丈夫です。」
ソウマは少し怯えた様子だったが、取り敢えずミスリングを受け取った。
「いや本当にごめんねぇぇぇ。しかしそうすると、それは友達の願いが込められた大切な物で、敢えて千切れたままにしているという事だねぇぇぇ?」
マディは空気を変えようと話を進めた。
「いえ……これは、学校を襲った悪魔が無理矢理、千切った物なんです。だから、本当は千切れた部分を直したいんですけど、僕は手先が器用じゃないんで、仕方なくそのままにしてるんです。」
「そ、そうだったのかぁぁぁ。これまたごめんねぇぇぇ。また嫌な事を思い出させちゃったねぇぇぇ。」
マディは慌てて謝った。
そんなマディを、カレンは気の毒そうな顔で見ていた。
(マディさん……ソウマ君を励まそうとしてるけど、全部裏目に出てる……。)
「ソ、ソウマ君。私がそれ、直してみよっか?」
カレンは遠慮がちにソウマに名乗り出た。
「え? いいの?」
ソウマは意外そうな顔で聞き返した。
「うん。私、少しだけならお裁縫が出来るから、多分直せると思う。」
「そうなんだ。じゃあ、お願いしようかな。ありがとう。」
ソウマは優しく微笑みながら、ミスリングをカレンに手渡した。
「うん! すぐ直すから、ちょっとだけ待っててね。」
カレンは頬を赤らめながらミスリングを受け取ると、黄色い花の髪留めを揺らしながら、イソイソと小走りで部屋を出ていった。
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カレンは廊下を歩き、自室に移動した。自室に入ると奥の椅子に座り、机の上に裁縫道具を広げ始めた。縫い針と糸を準備し、早速作業に取り掛かる。
カレンはミスリングに針を刺す直前、先程ミスリングを渡す際にソウマが見せた笑顔を思い出した。
「ふふ……。」
カレンは頬を赤らめながら小さく笑い、作業を開始した。針を刺し、ミスリングの千切れた部分に新しい糸を絡めていく。
カレンの部屋には、窓から初夏の日差しが差し込んでいた。
その窓の外には広大な森が広がり、小鳥の鳴き声が響く。
その森の中を、一匹の黄色い蝶が舞っていた。蝶は花の蜜を求めて森のあちこちを飛び回り、やがて一輪の花に着地した。長いストローのような口を伸ばし、花の蜜を吸っていく。
しかし次の瞬間には、黄色い蝶は死んでいた。
カマキリがゆっくりと忍び寄り、その鎌で蝶で捕らえたからだ。カマキリは大顎で蝶の羽を噛み千切り、ムシャムシャと食べ始めた。
一方カレンはそんな事など一切知らず、部屋で作業を続けていた。相変わらずニコニコ顔で頬を赤らめながら、ミスリングを直していく。作業は順調に進んでいき、もう間もなくで修復完了というところまで漕ぎ着けた。カレンは作業残り僅かというところで、一度ミスリングを遠目で見て出来栄えを確認した。
ミスリングの千切れた部分は半分以上が糸で繋がり、完成間近だった。
カレンは嬉しそうにうんうんと頷くと、修復完了に向けて最後の作業に入った。残りのほつれた糸を束ねていき、新しい糸で繋げていく。
このままいけば無事にミスリングは直る。そう思われた。
しかし――。
――ザクリッ。
人間の肉が裂ける、嫌な音が響いた。
カレンはその音の正体が何なのか、自分の身に何が起きたのか、何も分からないまま絶命してしまった。
カレンの顔は死ぬ直前の笑顔のまま固まり、目の光だけが徐々に失われていった。やがて口元から一筋の血が垂れ始め、顎の辺りまで伝っていく。
カレンを襲った衝撃によって、頭からは花の髪留めが外れ、まるでスローモーションのように落下していった。そのまま髪留めは机の上に落下し、二度三度跳ねて止まった。
窓の外には、相変わらず初夏の長閑な風景が広がり、小鳥の囀りが季節の変化を知らせていた。