第八十九話 心の隙
ソウマは白い空間の中に、ぽっかりと浮かんでいた。
無限に続く白い景色の中で、ソウマは辺りを見渡す。
「ここは……前にもどこかで……。」
ソウマは目の前の光景に見覚えがあり、いつ見たものなのか探ろうと記憶を辿った。
「駄目だ……思い出せないや……。」
ソウマは頭に手を添えて考えていたが、やがて諦めて顔を上げた。
目の前には相変わらず白い空間が広がるばかりで、変化のない景色にソウマは困り果てた。
その時。
「!」
ソウマの背後から何者かが襲い掛かり、ソウマはその攻撃を間一髪で躱した。そのまま態勢が崩れ、四つん這いのような格好になる。
「誰!?」
ソウマは目の前の何者かに視線を向けた。
それは影だった。ユラユラと蠢く影。目と口は不気味に赤く発光し、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべながらソウマを見ている。
ソウマは不安と恐怖の入り混じった表情で影を見つめ、両手を身構えてガードの姿勢を取った。
そのソウマに向かって、影は再び攻撃を仕掛けてきた。右手を振り被り、ソウマを爪で切り裂こうとする。
ソウマはそれもすんでのところで躱した。
その後も影は執拗にソウマを狙ってきたが、ソウマはステップで躱し、地面に回転回避して躱し、なんとか対処し続けた。
「!」
ソウマが攻撃を躱している最中、いつの間にかソウマを攻撃する影は二体、三体と増殖していた。
増殖した影達は一列に並んでソウマを睨んでいたが、やがてタイミングを合わせたかのように一斉に襲ってきた。
「ぐっ!」
ソウマは攻撃を躱しながら、右手から火属性の魔法を放った。
炎は影の中の一体に命中し、その影はあっという間に炎に包まれた。
「キャアアアァァァアアア!」
この世の物とは思えない甲高い声で絶叫を上げながら、影は燃え尽きていった。
ソウマは影が燃え尽きたのを見届けると、顔を上げて残りの影達を睨んだ。
影達はソウマから距離を置いて佇んでいたが、ソウマが顔を上げたのを合図に、また一斉に襲い掛かってきた。
ソウマは火属性の魔法で迎撃。火球を放って影達を次々に葬っていった。やがて周りに居た全ての影を倒し切り、ソウマの周辺には静けさが戻った。その静けさの中に、ソウマの荒い息遣いが響く。
ソウマは息を整えながら辺りを見渡した。
ソウマの周りには、まだ火が燻っている影の残骸が散らばっていた。
ソウマは次に頭上を見上げた。
見上げた頭上には白い空が広がり、思わず吸い込まれそうな感覚に襲われる。
その感覚に襲われた直後にソウマの意識は遠ざかり始め、やがて完全に気を失うと、ソウマは膝から崩れ落ちた。
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ソウマはゆっくりと目を覚ました。
慣れ親しんだホムラの拠点。
その拠点の二階の、自室のベッドにソウマは寝かされ、薄い掛け布団が掛けられていた。
時刻は丁度昼頃で、初夏の涼しい風が開け放った窓から吹いている。
ソウマは仰向けに寝転んだまま部屋の天井を見つめていたが、不意に近くで物音がしたため、そちらに顔を向けた。
そこにはカレンが居た。悪魔の警備隊に荒らされた部屋を片付けようと、床の物を拾い上げている。
「カレン?」
ソウマはカレンの背中に声を掛けた。
「ふぇ!?」
突然背後から話し掛けられ、カレンは驚きながら振り返った。ソウマが目覚めている事に気付いて、カレンはさらに驚いた。
「わ~! ソ、ソウマ君!」
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拠点の二階から、階段をドタドタと下りる音が響く。
カレンは大慌てで階段を下り切り、一階の広間に向かった。そのまま広間の中に入り、部屋の奥の、隠し扉のある床まで急ぐ。
「あうっ!」
カレンは隠し扉の前で躓き、派手に転んだ。
「どうかしたかぁぁぁい?」
マディは隠し扉から顔だけ覗かせ、広間の様子を覗った。
「いたた……あっ! マディさん! ちょ、ちょっと来てもらえますか? ソウマ君がやっと目覚めたので……!」
「おや、そうかぁぁぁい。分かった、すぐ行こぉぉぉ。」
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カレン、マディ、マディの頭の上に乗るタマ、そしてクロキを加えた三人と一匹が、ソウマの居る部屋に集まった。
カレン達が見守る中、マディはベッド脇の椅子に座り、ソウマの腕を親指でフニフニ押して触診した。腕の触診を終えると、ソウマの歯、瞳孔、爪、頭、服を捲って(カレンはここで少し照れた。)背中を確認した。一通り確認するとベッド脇の机から資料を手に取り、「ふぅぅぅむ……。」と声を上げながら考え込み始めた。
「するとぉぉぉ? アルロア国で薬を注射して以降、ソウマ君には一度も薬を打っていないぃぃぃ。だから薬の効果はとっくに切れているはずぅぅぅ。にも関わらず、ソウマ君は一度も悪魔化が再発する事無く、今日まで眠りについていたぁぁぁ。そういう事だねぇぇぇ?」
マディは資料に目を通し、時折カレンに顔を向けながら話した。
「はい、間違い無いです。」
カレンはマディの質問に頷いた。
「なるほどぉぉぉ。悪魔化が頻発しているタマちゃんとは随分違うねぇぇぇ。何故だろぉぉぉ。」
マディは顎に手を当て、深く思慮するような表情をしながら、目をギョロギョロと動かして手元の資料を隈なく読み込んだ。
タマは資料の紙に興味を示して前足を伸ばした。
「クロキくぅぅぅん、この資料に書かれている事は全て本当かぁぁぁい?」
「えぇ、信憑性は極めて高いです。グリティエが長年掛けて蓄積したデータを、分析して纏めた物ですので。」
クロキは太鼓判を押した。
「そうかぁぁぁい、分かったよぉぉぉ。ふぅむ……ああ、ここかぁぁぁ。ここの文言が答えのようだねぇぇぇ。資料によると、『犬や猫のような小型の動物は悪魔化しやすいが、人間や天使のような大型の動物は悪魔化しにくい。』とあるねぇぇぇ。人間は他の動物に比べて、悪魔の血に対して耐性があるぅぅぅ。そういう解釈で大丈夫かな、クロキくぅぅぅん?」
マディはクロキに尋ねた。
「えぇ、その解釈で問題ありません。大型の動物であればあるほど、悪魔の血に耐性を持っているという実験結果が出ています。」
クロキはマディの解釈に同意した。
「なるほどぉぉぉ。じゃあソウマ君は、人間が本来持っている耐性のお陰で、症状が再発せずに済んだのかぁぁぁ。」
「恐らくそうだと思います。」
クロキはマディに同調した。
「ふむ……。するとぉぉぉ、タマちゃんの場合は少ししか血を舐めていないけど、体が小さいから悪魔化が頻発してしまっているという事かぁぁぁ。」
マディは頭の上のタマを見上げながら話し掛け、タマは返事をするように「ニャー。」と鳴いた。
「ふむ……よし、じゃあその点は理解できたぁぁぁ。しかし一点だけ気になる所があるねぇぇぇ。」
「どの部分です?」
クロキは資料を覗き込んだ。
「資料にはこうも書いてあるんだぁぁぁ。『小型の動物は悪魔の血を数滴誤飲しただけでも悪魔化する。一方、人間や天使のような大型の動物は、一度に大量の血を誤飲しない限り悪魔化しない。』とねぇぇぇ。ソウマ君も一度は悪魔化したわけだから、悪魔の血をそれなりの量、飲んでしまっているはずなんだぁぁぁ。でも話を聞く限りだと、ソウマ君はそんなに大量の血を口にはしていなかったぁぁぁ。そうだよねぇぇぇ?」
マディはソウマに尋ねた。
「はい……もし誤飲するタイミングがあるとしたら、ロイドやグリムロと戦った時ぐらいなんですけど、覚えている限りでは、血が口に入った記憶は無いです。」
「なるほどぉぉぉ。その戦いの最中、カレン君はずっとソウマ君の傍に居たらしいけど、どうだぁぁぁい?」
マディは、今度はカレンに尋ねた。
「は、はい……。確かに、ソウマ君の口に血が入っている様子はありませんでした。戦いの後もソウマ君の口の周りには、血はほとんど付いていなかったです。だから、もし血を飲んでしまっていたとしても、その量はほんの少しだったんじゃないかな……。」
カレンは少し自信無さげに答えた。
「なるほどぉぉぉ。クロキくぅぅぅん、ほんの数滴で人間が悪魔化するというのは、有り得る話なのかぁぁぁい?」
「いえ、それは有り得ないと思います。そういった実験結果は一件もありませんし、私自身、悪魔との戦いの中で何度も悪魔の血を浴びてきましたが、悪魔化した事は一度もありません。」
クロキは口元に手を当てて思慮しながら答えた。
「ふぅむ、なるほどぉぉぉ。では一体何故、ソウマ君はたった数滴の血で悪魔化してしまったんだろぉぉぉ?」
マディは上半身ごと首を傾げてみせ、その後はメトロノームのように体を左右に振りながら、「う~ん、う~ん、分からないなぁぁぁ。」と呟き続けた。
そんなマディに助け船を出すように、カレンが口を開いた。
「あ、あの……マディさん……。」
「んんん? なんだぁぁぁい?」
「え、えっと……ヒントになるか分からないんですけど……私、一つ気になる事があって……。」
「話してごらぁぁぁん。」
「はい……。私、ソウマ君が悪魔化した時、その様子を近くで見ていたんです。悪魔化する直前のソウマ君は、ルシフェルさんが目の前で亡くなってしまって、とてもショックを受けている感じでした。そこから段々様子が変わっていって、なんというか……その……正気を失っている感じでした。ソウマ君が血の涙を流し始めたのはその直後で、私には、ルシフェルさんが亡くなったショックが切っ掛けで、悪魔化が始まったように見えたんです。」
「ほほぉぉぉう、なるほどねぇぇぇ。ソウマくぅぅぅん、その時の事は覚えているかぁぁぁい?」
マディはカレンの言葉に頷き、ソウマのほうに向き直って質問した。
「えっと……ごめんなさい……あんまり……。ただ、ルシフェルさんが亡くなってしまった時は、勿論凄くショックでしたし、悲しい気持ちでいっぱいでした。それに正直に言うと……ルシフェルさんを殺した天使に対する怒りみたいなものも……ありました……。ごめんなさい……。」
ソウマは正直に思いを述べた。
マディは申し訳無さそうに話すソウマにニッコリと微笑んだ。
「ううん、いいんだよぉぉぉ。君は優しい子だからねぇぇぇ。優しさはふとした拍子に怒りに変わるものさぁぁぁ。さてと……今の話を纏めてみると、こんな仮説が立てられるねぇぇぇ。ソウマ君は悪魔の血を飲んでしまったけど、少量だったから最初は悪魔化しなかったぁぁぁ。しかし、ルシフェル君の死を目の当たりにした事で心に傷を負ってしまい、心に隙が生じてしまったぁぁぁ。その隙を突いて悪魔の血が体に悪さをし始め、ソウマ君は悪魔化してしまったぁぁぁ。そこへケンタ君が薬を注射した事で精神が落ち着き、抵抗力が復活。その後はソウマ君自身の抵抗力で悪魔化を抑え込み続け、今に至るぅぅぅ。……仮説としてはこんなところかなぁぁぁ? クロキくぅぅぅん、どうだろぉぉぉ?」
マディはクロキに話を振った。
「感情の起伏と悪魔化の因果関係を裏付けるデータはありませんが、今回ソウマ君に起こった事を考えると、とても有力な説だと思います。」
クロキはマディの説を支持した。
「そうだよねぇぇぇ。よし、ソウマくぅぅぅん。今の仮説が正しいとすると、君のやるべき事は一つだぁぁぁ。」
「な、なんでしょう?」
マディにズイッと顔を寄せられ、ソウマは少し引きながら尋ねた。(この時タマはソウマの頭をテシテシ叩いた。)
そんなソウマに対して、マディはニッコリを笑った。
「心穏やかに過ごす事だよぉぉぉ。悪魔との争いの事も、これから先の事も、一旦全部忘れてゆっくり休み、悲しみや怒りの感情を取り除いていくんだぁぁぁ。いいねぇぇぇ?」
「わ、分かりました。心を落ち着かせる事に専念します。」
「うんうんんんん。じゃあ、僕からは以上だよぉぉぉ。」
「はい、診て下さってありがとうございました。」