第八十六話 天使の女王
太古の昔から成長を続けてきたであろう、巨木の生い茂る緑豊かな大地。
そこに柔らかい初夏の陽光が降り注ぐ。
森は陽に照らされて輝き、小鳥達の鳴き声が響いていた。美しく神秘的な雰囲気が漂い、どこか神聖さすら感じる。
そんな森の中に、居住空間として使われているであろう建物達が、まるで森の中に隠れるのように建ち並んでいた。ホビット族が暮らしていそうな隠れ家のような建物だったり、神殿のような荘厳な建物だったり、建築様式は様々だった。建物は木々に囲まれた死角や木の根元に建てられ、外壁は植物や蔓、そして苔に覆われている。その見た目はまるで自然と一体化しているようで、人工物と自然物が融合したような光景だった。
そんな景色の中に、一際大きな建物があった。天高くそびえる塔のような建物で、神話に出てくる神殿のような見た目をしていた。周囲に生える木や植物に壁を覆われ、他の建物と同様、建物は自然の一部となっている。
その建物の最上階の一室に、一人の女性天使が居た。
女性天使が居る一室は、黄金の装飾がふんだんにあしらわれた、豪華絢爛な部屋だった。部屋の壁や床、家具はどれも白を基調としており、貴族の部屋といった感じだった。
部屋には天蓋付きのベッド、フカフカのソファ、鏡台等が置かれ、女性天使は鏡台の前に座って髪を梳かしていた。
女性天使は茶色のストレートの髪を腰の辺りまで伸ばし、金色の刺繍を施した白の美しいドレスを身に纏っていた。見た目の年齢は二十台といったところで、お嬢様という言葉が相応しい整った顔立ちをしている。スラッとした体形で、身長は180センチほどと、女性の中ではかなり高い。背中には、着ている白いドレスと同じような真っ白な翼が生えていて、少女天使の翼と同じように羽毛のようなフカフカした毛で出来ていた。
女性天使は優雅な感じで小さく鼻唄を歌いながら、ゆっくりと髪を梳かしていた。部屋の家具と同じような、金の装飾をあしらった櫛をサクッと髪に刺し、撫でるように下ろしていく。
「あら?」
女性天使は自身のドレスに、糸のほつれがある事に気付いた。
女性天使は櫛を台に置くと右手から光る針を造り出した。その針を使ってほつれた糸を手繰り寄せ、器用に修繕していく。
「これでよし、ですわ。」
そう言うと、女性天使は再び髪を梳かし始めた。
その時、部屋の扉をノックする音がした。
「どうぞ、入って下さいまし。」
女性天使は髪を梳かす手を止め、扉のほうに顔を向けた。
扉が開き、一人の男性天使が部屋に入ってくる。
男性天使は二十台ほどの見た目の、高貴な顔立ちの天使だった。背中には白い翼が生え、白いタキシードのような服に身を包んでいる。
女性天使と同じくらいの180センチはあろうかという背丈をピシッと正しながら、男性天使は女性天使に顔を向けた。
「失礼致します、ガブリエラ様。」
男性天使はキビキビとした声で挨拶しながら、女性天使にお辞儀をした。
「どうかしましたの? ラフィエラ。定例の集まり、今日だったかしら?」
ガブリエラと呼ばれた女性天使はキョトンとしながら、落ち着きのある優雅な声で男性天使に尋ねた。
ラフィエラと呼ばれた男性天使は首を横に振った。
「いえ、臨時の用件でして……。国境警備隊の者がガブリエラ様への謁見を希望しております。なんでも、訳ありの侵入者を連れて来ているようで……。」
ラフィエラはガブリエラの元へと歩み寄り、顔を近付けて小声で話した。
「訳あり? このわたくしを呼びつけるほどの事ですの?」
ガブリエラの声は一気に不機嫌になった。
「分かりません。具体的な事は何も言わず、とにかく女王に合わせろと……。」
ラフィエラは少し困った顔をしながら答えた。
「詳細も教えずに、とにかくわたくしに来い、ですって? 無礼ですわね! お断わりしますわ! 追い返して下さいまし!」
ガブリエラは声をさらに不機嫌にさせながら言った。
「よろしいのですか?」
ラフィエラは不機嫌なガブリエラを前にして、努めて淡々とした声色で聞き返した。
「はあ……どうせまた、小さな子供の悪魔でも捕えてきたのではなくて? 何度も言ってるじゃありませんの。慈悲など必要無し。アルロアの国境を無断で越えた悪魔は、大人だろうと子供だろうと、男だろうと女だろうと、例外無く即処刑。そう伝えて下さいまし。」
ガブリエラの声は話すうちにドンドン不機嫌になり、話の終盤ではとうとうラフィエラからそっぽを向き、髪を梳かすのを再開してしまった。
「承知致しました。ただ、謁見を希望しているのは、警備隊のアリスなのですが、本当に宜しいのですね?」
ラフィエラはいつもの事とばかりに溜め息をつきながら尋ねた。
ガブリエラは意外そうな顔で「あら? アリスが?」と聞き返し、ラフィエラは「はい。」と頷いた。
「それを早く言って下さいまし。あの真面目なアリスが、ふざけ半分で来るわけありませんわ。」
ガブリエラは手に持っている櫛や鏡台に広げている化粧道具を片付け始めた。
「早く支度を済ませないと。アリスとその侵入者とやらを地下施設へ案内しておいて下さいまし。わたくしも後から行きますわ。」
ガブリエラはそう言うと立ち上がり、慌ただしく身支度を始めた。
「承知致しました。」
ラフィエラは一礼し、部屋を出ていった。
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ガブリエラが住む神殿。
その地下にある、地下施設。
そこは大理石で造られた白い空間だった。
壁には松明が準備され、明かりが確保されている。ただし松明には火の代わりに光属性の魔法が使われており、電気のようなチリチリという音が微かに部屋に響いている。
ソウマは大理石のベッドの上に寝かされていた。目を瞑っており、意識はない。
ラフィエラは横たわるソウマの右腕に、光属性の魔法を軽く当てていた。
ラフィエラの右手から作り出された、薄い布のような光り輝く膜が、ソウマの皮膚を軽く撫でていく。
ベッド脇に屈んで作業をするラフィエラを、ガブリエラと少女天使、そしてケンタ達が立ち上がって見守っていた。
さらにその集まりから少し離れた別のベッドに、クロキが腰掛けている。
「このおばさんが天使の女王様なのか?」
「しっ! 静かにしとけ!」
リュウはガブリエラを指さしながら小声でケンタに話し掛けたが、ケンタは口元に人差し指を立ててリュウを静かにさせた。
リュウは取り敢えず黙ったが、まだ何か言いたげな表情のまま、ガブリエラを睨んだ。
ガブリエラはリュウの声が聞こえていたのだろう。こめかみを軽くひくつかせ、イラっとした様子を見せた。しかしすぐに気を取り直すと、ラフィエラに顔を向けた。
「どうですの? ラフィエラ。」
「はい。もし彼が悪魔なら、光の魔法を当てれば皮膚が焼け爛れたり、何かしらの反応があるはずなのですが……」
ラフィエラはガブリエラに返答しながら、ソウマの腕を軽く指先で撫でた。
「彼は間違い無く人間のようです。」
ラフィエラは結論を述べた。
「そう……分かりましたわ。」
ガブリエラは「ふぅ。」と溜め息を吐き、少女天使のほうに向き直った。
「アリス。この人間が血の涙を流していたというのは、本当なんですの?」
ガブリエラは少女天使に尋ねた。
アリスと呼ばれた少女天使は、その能面のような無表情の顔をガブリエラに向けた。
「はい、間違いありません。」
「そう……。それでこの薬を打ったら、涙が透明に戻ったんですのね?」
ガブリエラは手に持っている注射器をアリスに見せながら、念を押すように聞いた。
「はい、その通りです。」
アリスは淡々と受け答えた。
「ふ~む……。」
ガブリエラは片目を閉じ、マディの悪魔化治療薬をじっくりと観察した。
ケンタ達はその様子を不安気に見つめ、ガブリエラが結論を出すのを待った。
ガブリエラはしばし薬を観察していたが、やがて目を閉じて息をゆっくりと吐くと、ケンタのほうに視線を向けた。
「人間の化学力もなかなかの物ですわね。悪魔の血を抑え込む薬を開発するなんて……。」
ガブリエラは悔しいが認めざるを得ない、といった口調で言った。
「俺らの話、信じてもらえるんすか?」
ケンタは慎重にガブリエラに尋ねた。
「あなた方の言った事を信じたわけではありませんことよ。わたくしが信じたのはアリスのほうですわ。この子は嘘をつきませんもの。」
ガブリエラはそう言いながらアリスの頭を撫でた。
撫でられたアリスは一切リアクションをしない。
「なんでもいい。ソウマを見逃すのか殺すのか、さっさと言えや。」
リュウは高圧的に言った。
ガブリエラは怒り笑いをしながら口元をピクピクと震わせたが、無理矢理に平静を取り戻すと、ケンタに視線を移した。
「一つ確認したい事がありますわ。この薬、効果は一時的なんですわよね?」
「……はい、そうです。」
ケンタは少し躊躇してから肯定した。
ケンタの返事を聞くと、ガブリエラはソウマの傍に屈み、ソウマの顔をじっと見下ろした。
「とゆう事は、彼は今は人間でも、いずれまた悪魔となる可能性は有る……そうですわよね?」
ガブリエラはソウマからケンタへと視線だけ移しながら確認した。
「えっと……はい……そうっす。」
ケンタは渋々といった感じで答えた。
「あのアリスとかいうヤツに『薬の効き目は一時的だ。』なんて余計な事喋るからこうなるんだぞ……!」
リュウはケンタに耳打ちした。
「仕方ねえだろ……! こんな事になるなんて知らなかったんだからよ……!」
ケンタは小声で反論した。
ケンタとリュウの声には反応せず、ガブリエラは黙ってソウマを見下ろしていた。
やがてガブリエラは深い溜め息をつくと、ゆっくりと口を開いた。
「今の彼が人間である事に変わりはないですものね。」
そう言いながらガブリエラは立ち上がった。
「分かりました。彼を見逃してあげますわ。」