第八十五話 透明から真紅へ
突如、頭上に現れた少女天使が光の剣を一閃。
振り下ろされた剣がルシフェルの首を刎ね、ルシフェルの頭は切り落とされた。
「!?」
ソウマ達は衝撃で吹き飛ばされ、地面に尻餅をつく。
少女天使は大きく羽ばたいて宙を舞い、ソウマ達から離れた位置に着地した。
「な……何だ、あいつ!?」
ケンタは仰天しながら少女天使のほうを見た。
しかし少女天使の事を追及する間もなく、ルシフェルの体に変化が表れ、ソウマ達はそっちに気を取られた。
ルシフェルの体は徐々に黒く変色していき、やがて石化していった。石化した体は少しずつヒビが入って割れていき、今度は砂になった。黒い砂はボロボロと崩れ、地面に降り積もっていく。
「おいっ! ルシフェル! 待ってくれ! おいっ!」
ケンタが必死に呼び掛けるのも虚しく、ルシフェルの体はどんどん朽ち果てていき、ついには全身が崩れ去った。
ルシフェルの体が崩れ去ると、残された光の矢も全て消え去った。
ルシフェルの居た場所には、降り積もった黒い砂だけが残される。
そしてその黒い砂の山に、ボトリと何かが落下した。それは心臓だった。ルシフェルという主を失った心臓が砂山に落ち、初めての外気に曝される。
しかしソウマ達はそれどころではなく、地面の心臓に気付かない。
「そんな……ルシフェル……。」
ケンタは呆然とした顔で砂に触れ、震えた声で呟いた。両手で砂を掬い上げ、そして指を広げる。
砂は指の隙間からサラサラと流れ落ちていった。
「くそっ……どうして、こんな……。」
ケンタは悔しさで唇を噛んだ。
その時――。
ケンタの隣で地面に座り込んでいたソウマが、静かに立ち上がった。フラフラと覚束無い足取りで、ゆっくりと歩いていく。
「ソウマ……?」
ケンタはソウマの行動に困惑した。
ソウマはケンタの呼び掛けには一切反応せず、歩き続けた。目からは涙が溢れ続け、その表情は絶望に打ちひしがれている。
「おい……ソウマ……よせ! 止まれ!」
ケンタは、ソウマが少女天使の元へ向かっているのに気付いた。急いで立ち上がり、ソウマの元へ駆け出す。
(まだ間に合う……!)
ソウマと少女天使の間にはまだ距離があった。
少女天使はソウマに背を向け、翼の羽を一枚一枚整えていた。やがて、近付いて来るソウマに気付き、そちらに視線を送る。
ソウマは相変わらず絶望に打ちひしがれた顔で、真っ直ぐ少女天使を見据えながら歩み寄って来ていた。その様子はどこか狂気じみていて、普通の人間なら恐怖を感じるような光景だった。
しかし少女天使は一切その無表情を崩さず、じっとソウマを見つめていた。
そして少女天使が見つめる中、歩みを進めるソウマに、ある異変が起き始めた。
ソウマの両目から溢れる透明な涙。その涙の中に少しずつ、血が混じり始めたのだ。最初は、水の中に赤い絵の具を一滴垂らした程度の淡い赤だった。しかし涙の中に混ざる血の量はどんどん増え、涙をあっという間に真っ赤に染めていった。そしてとうとう、目から溢れる涙は透明から真紅へと変わり、ソウマは混じりっけなしの血の涙を流し始めた。
少女天使はソウマの流す血の涙を見て、少しだけ目を細めた。そして肩に掛けた弓を手に取り、光の矢を一本準備して弓に番えた。
少女天使が攻撃準備を進める中、ケンタはようやくソウマに追い付いた。
「おい、ソウマ! 止まれ! 迂闊にアイツに近付くな!」
ケンタはソウマの肩を掴み、必死な声で呼び掛けた。
それでもソウマは歩みを止めようとしなかった。
ケンタはソウマの正面に立って両肩を押さえ、無理矢理ソウマの動きを止めた。
「! ソウマ……お前……。」
ケンタはソウマが血の涙を流している事に気付き、目を見開いた。
「どうして……こんな……はっ!」
ケンタは驚きで思考が乱れた。しかし思考を纏める間も無く、ケンタは少女天使の対処に追われた。
少女天使は弓を引き絞り、真っ直ぐソウマに照準を合わせていた。いつでも矢を放てる状態にある。
「ま……待ってくれ! 俺達は敵じゃねえ! 俺達は秘薬が欲しくて来ただけなんだ!」
ケンタは必死に弁明した。
しかし少女天使は攻撃の構えを崩さない。
「血の涙……それは紛れも無い、悪魔の証拠。」
少女天使は淡々と喋った。
「いや……違う! コイツは人間なんだ! 悪魔じゃねぇ!」
ケンタは弁明を続けた。
「問答無用です。」
少女天使は無慈悲にもケンタの言葉を一蹴し、弦をさらに引き絞った。
その時――。
カレンがソウマの前に立って両手を広げ、ソウマの盾となった。カレンは涙を流していたが、その表情はソウマを守るという強い決心に満ちていた。
少女天使は弦を少し緩めた。
「退いて下さい。人間には危害を加えてはいけない決まりですので。」
少女天使は平坦な口調でカレンに命令した。
「退きません! ソウマ君には……傷一つ付けさせやしません!」
カレンは精一杯に叫んだ。
「強がりを言っても無駄です。あなたの心は今、恐怖に支配されています。その恐怖から解放されたければ、大人しく退いて下さい。」
少女天使の指摘の通りだった。
カレンは恐怖で膝をガクガクと震わせ、両目からは涙が止め処なく溢れていた。
「退きません! ソウマ君を守るためなら……死ぬ事だって怖くありません!」
カレンは声の限り叫び、少女天使に反発した。頭の髪留めがかすかに揺れる。
「そうですか。なら仕方ありません。あなたごと貫きます。」
少女天使は再び弓を引き絞った。
カレンは死を覚悟して目を固く閉じた。
「ま、待ってくれ! 話を聞いてくれ!」
ケンタはカレンと同じようにソウマの前に進み出て、少女天使に懇願した。
少女天使は微動だにせず、沈黙していた。
ケンタはそれをイエスの返事を捉え、話を続けた。
「コイツは元々人間なんだ! 多分、どっかのタイミングで悪魔の血が口に入って、それで悪魔化しちまったんだ! 血の涙が流れてんのは、きっとその所為なんだ!」
「その話は本当ですか?」
少女天使は尋ねた。
「本当だ! 信じてくれ!」
ケンタは必死に懇願する。
「証拠がありません。証拠を見せて下さい。」
少女天使は抑揚の無い声で命令した。
「証拠……あっ! そうだ!」
ケンタは何かを思い出し、服の内ポケットを探り出した。ポケットから水色の液体の入った注射器を取り出し、ソウマのほうを振り返る。
ソウマは虚ろな表情で、ダラリと開いた口から涎を垂らしていた。
「ソウマ、戻って来いよ……!」
ケンタはソウマに囁くと、ソウマの肩辺りに注射した。
注射を受けたソウマは一度だけ目を大きく見開き、そしてゆっくりと瞼を閉じていった。意識を失い、全身から力が抜けて倒れていく。
「おっと……。」
ケンタはソウマの体を支え、地面にゆっくりと寝かせた。
ケンタはソウマの顔をしばらく観察し、やがて顔を上げると少女天使に声を掛けた。
「よし……。ちょっと来てくれ! 見てほしいもんがある!」
呼ばれた少女天使は光の矢を消し、ケンタの元に歩み寄った。
「これを見てくれ。」
ケンタに誘導され、少女天使はソウマの顔を覗いた。
「これは……。」
少女天使はハッとした。
先程まで真紅の涙を流していたソウマが、透明な涙を流していたのだ。閉じた瞼から透明な涙が染み出し、ソウマの頬を流れ落ちていく。
「一体何をしたのですか?」
少女天使はケンタに尋ねた。
ケンタは手に持っている注射器を見せた。
「これは悪魔化を治す薬だ。つっても一時的にだけど……。コイツを注射して、一時的に悪魔化の症状を抑えたんだ。」
「そんな事、出来るはずが……しかし、この涙は間違いなく人間のもの……。」
少女天使はソウマの涙を指先で掬い、顔の前まで持ってきてじっくりと観察した。
しばらく考え込んだ後、少女天使はゆっくりと立ち上がり、そして口を開いた。
「先程のあなたの話は、本当のようですね。」
少女天使は指先に付いた涙を軽く振り払いながら言った。
「納得したか?」
ケンタは淀み無くアリスを睨みながら尋ねた。
「はい。ただ、このような事態は過去に例が無く、彼をこのまま見逃して良いのかどうか、私には判断がつきません。そこで、あなた方には王都ファノーテまで来ていただき、そこでガブリエラ様に謁見していただきたいと考えています。」
少女天使の言葉に、ケンタは眉をしかめた。
「ガブリエラ? 誰だよ、そいつ?」
ケンタは厳しい口調で聞き返した。
「アルロア天使国を統治する、天使の女王です。ガブリエラ様から判断を仰ぎ、その判断に基づいて彼の最終的な処遇を決めます。」
少女天使は地面に横たわるソウマをチラリと見ながら言った。
「それ……女王様の判断によっちゃソウマは殺されるかもって事なのか?」
「はい、その可能性も有ります。」
少女天使は淡々と答える。
「その女王への謁見、断ったらどうなる?」
「力づくで連れていきます。」
少女天使は右手から光の剣を造り出した。
剣からは、ケンタを威嚇するようにバチバチと電気のようなものが迸り、剣に目をやるケンタの額からは汗が垂れた。
「あなた方人間の力では、私には到底敵いません。それと……ここで話を断ったところで、結局あなた方はガブリエラ様に会いに行く事になります。」
「どういう事だ?」
「あなたは先程、秘薬を欲していると言っていました。秘薬はガブリエラ様だけが所持しており、他の天使達は持っていません。秘薬を手に入れるためには、ガブリエラ様に謁見する必要があります。」
「そういう事か……。」
ケンタは少女天使の説明に納得した顔を見せ、隣に居るカレンをチラリと見た。
視線を向けられたカレンは不安そうな顔でケンタを見つめ返したが、やがて何かを決心したような顔をすると、小さく頷いた。
ケンタは頷き返し、少女天使に視線を戻した。
「分かった。ファノーテまで案内してくれ。」