第六十二話 ムカデ
トフェレスが操る馬車は野原の轍を順調に進んでいった。
トフェレスは鼻唄を歌いながら手綱で馬をコントロールし、時折馬に軽く鞭を振った。
馬車が野原を進んでいくと次第に植物は姿を消し、周囲には荒涼とした大地が広がり始めた。
植生の変化と共に、立ち込める霧も薄い紫色から濃い紫色へと徐々に変化していき、不気味な雰囲気がさらに増していった。
そんな気味の悪い光景の中を馬車は休む事無く進み続け、進む毎に景色はどんどん寂れていった。
辺り一面には砂の大地が広がり、剥き出しの岩が転がり、枯れて白色になった木が転がり、それら全てを不気味な紫の霧が覆う。
(これがバロア悪魔国か……。)
ソウマは木箱の隙間からその様子を眺めていた。
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馬車は丸一日ひたすら走り続け、やがて日没を迎えた。
霧が立ち込めている分、バロア悪魔国の夜はベリミット人間国よりも暗く、不気味な空気が漂っていた。
トフェレスの馬車は岩に囲まれたちょっとした広場のような場所に止められ、トフェレスは御者台の上に仰向けで寝転がり、いびきを掻きながら寝ていた。
(寝静まったようだね……。さて、慎重に動かないと……。)
クロキは木箱の中でタイミングを計った。
別の木箱の中ではケンタとリュウが小声で会話をしていた。
「もう狭くて耐えらんねえ! さっさと出ようぜ!」
リュウはしかめっ面で言った。
「駄目だ! クロキ先生の合図を待て!」
ケンタはリュウを制した。
「なんだぁ、ケンタ? ビビってんのかぁ?」
リュウは挑発的な口調で言った。
「違え! 合図の後に出るって予め段取りしたろ! お前こそビビってないだろうな?」
ケンタも挑発的に言い返した。
「フンッ! 俺様を見くびるなよ、凡人。才能がしとどに溢れているこの俺様は精神の鍛練もバッチリだ。いついかなる状況においても平静を保ち、どんな危険が来ようとも冷静沈着。叫び声一つ上げる事はない……ぎゃああああああ!!」
リュウは自分の手にムカデが這っている事に気付き、バロア国中に響く叫び声を上げた。
「ひでぶ!」
リュウは驚いて飛び上がった拍子に木箱の蓋に頭をぶつけ、断末魔を上げながら白目を剥いて気絶した。
「ん~? なんだ、今の?」
トフェレスは騒音に気付き、寝ぼけ眼で起き上がった。
(今のはリュウ君か? 気付かれたようだね……行くしかない!)
クロキは勢い良く木箱から飛び出すと、素早い身のこなしでトフェレスとの距離を一気に詰めた。
「ひい!」
突如現れたクロキに対してトフェレスは驚きの声を上げ、咄嗟に両手で顔をかばった。
クロキはトフェレスのガードを物ともせず、トフェレスの上にのしかかると首元に輝く炎の剣を突き付けた。
「大人しくして下さい! あなたの命を奪いたくはないので!」
クロキは鋭い口調でトフェレスに警告した。
「ひ、ひ~! わ、分かった! 分かったから! その物騒な物、どけてくれぃ!」
トフェレスは涙目になりながら怯えた声で言った。
トフェレスは目を固く閉じ、恐怖で手を震わせていた。
クロキはトフェレスの様子をじっくりと観察していたが、やがてゆっくりと炎の剣をどかした。
「手荒な真似をして申し訳ありませんでした。皆、出てきて大丈夫だよ。」
クロキは馬車に積まれた木箱に向かって言った。
クロキの合図で木箱の中からソウマ達が出てきた。
「な!? なんだお前ら!? なんで人間がいんだよ!?」
トフェレスは驚いて目を見開いた。
「事情は移動しながら説明します。今はとにかく少しでもベオグルフに近付きたい。馬車を走らせてくれますか?」
クロキは冷静な口調でトフェレスにお願いし、トフェレスは「わ、分かった……。」と応じた。
トフェレスがクロキの話に応じたその頃、リュウは木箱の中で泡を吹いて失神していた。
そんなリュウの様子を、先程のムカデが心配そうに見つめていた。
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「言っとくが、俺が連れてけるのはベオグルフの手前までだからな。」
トフェレスは手綱を捌いて馬車を走らせ、背後のワゴンに乗っているソウマ達に話し掛けた。
「ああ!? なんでだよ!? てめえも行き先はベオグルフなんだろ!? 一緒に連れてけや!」
リュウは拳を震わせながらトフェレスに向かって怒鳴った。
「や~なこった。お前らと一緒に居るとこを見られたら、俺まで不法入国者の仲間だと思われちまう。」
トフェレスはぶつくさと言った。
「途中までで構いません。近くまで連れて行っていただければ、あとは自力で行きますので。」
クロキは話に割って入った。
「……て、言ってるぜ、ガキンチョ?」
トフェレスはリュウを横目に見ながら言った。
「ぐぬぬ……フンッ!」
リュウはしかめっ面のままそっぽを向き、無理やり矛を収めた。
「にしてもバロアに不法入国たぁ、いい度胸だな。法律はちゃんと守ってほしいもんだぜぃ、人間さん達よぉ。」
トフェレスはチクリと言った。
「ああん!? 法律破ってんのはてめえら悪魔も同じだろうが!」
リュウは怒りを露わにしてトフェレスに拳を振るおうとしたが、ケンタが「落ち着け!」と言って後ろから取り押さえた。
「あんた、俺の思ってた悪魔のイメージと違うな。」
ケンタは暴れるリュウを抑えながら、改まった口調でトフェレスに話し掛けた。
「あぁ? なんだそりゃ?」
トフェレスは後ろを振り返りながら尋ねた。
「いや、その……悪魔ってもっとこう……人を襲う危険な生き物って感じがしてたからよ……。」
ケンタは奥歯に物が挟まったような言い方で言った。
「そんな事する訳ねえだろ。むしろ襲われたの俺のほうだぞ。そこの人間によ。」
トフェレスはクロキのほうをチラッと見ながら言い、言われたクロキは苦笑いした。
「たくっ、イメージが変わったのはこっちのほうだぜ。人間ってのはケンゾウみたいにみんな優しい奴らだと思ってたのによ、お前らみたいな野蛮な連中もいるとはな。逆らったら何されるか、考えただけで震えが止まんねえぜぃ。」
トフェレスは手綱を持つ手を大袈裟に震わせて見せた。
「やっぱり変な奴だな。言っとくけどよ、俺らはバロアの法律破った罪人だぜ? 俺達の事、捕まえなくていいのか?」
ケンタは呆れ笑いを浮かべながら言った。
「そりゃ警備隊の仕事だ。俺の仕事じゃねぇ。見ての通り、俺はただの運び屋だ。」
トフェレスは淡々とした口調で説明した。
「そうか……。」
ケンタは納得したように呟いた。
一行の間にしばし沈黙が流れた後、ケンタが再び喋りだした。
「なあ、トフェレスさん。」
「あぁ?」
「あんた、ガリアドネの事、詳しいか?」
「ガリアドネ? 女王陛下の事か?」
「ああ。」
「姿は何度か見た事あるぜ。いっつもおんなじ赤いドレスを着て、長い黒髪をなびかせて……そんでもって陛下は凄く深い青い目をしてんだけどよ、その目に見つめられた奴は心が凍る感覚に襲われるとか、そうでもないとか……。」
トフェレスは多少いい加減な情報も交えつつ答えた。
「直接会話した事はあるか?」
ケンタは質問を重ねた。
「いや、ねえよ、一度も。喋ってる所も見た事ねえし、何を考えてらっしゃるのか、全然分かんねえお方だ。」
「じゃあ女王が人間の事をどう思ってるかとかも、分からないか?」
ケンタは念を押すように聞いた。
「う~ん……知らねえなぁ。」
トフェレスは悩んだような顔で言った。
「そうか……。じゃあもう一個だけ質問だ。あんた、運び屋なんだろ? 運んでる食料の事で、最近変わった事は起きてないか?」
「変わった事? 漠然としてんな。例えば何だよ?」
トフェレスは眉をしかめ、質問の意図が分からない様子だった。
「う~んと、例えば食料の量が少なくなってきてるとかさ。」
「ん~? ……あ~、言われてみりゃ昔より量が減ってきてるような気がしなくもねぇけど……なんでそんな事聞くんだよ?」
トフェレスは訝し気な視線をケンタに向けた。
「それは……その……」
ケンタは答えを渋り、クロキの顔色を窺った。
「彼からはもっと情報を聞きたい。ここまで協力してくれた恩もあるし、話して構わないよ。」
クロキはケンタにそう言い、ケンタは「分かりました。」と言ってまたトフェレスのほうを向いた。
「ベリミットやグリティエの人達が悪魔に襲われてるんだ。何か事情を知らないか?」
「えぇ!? そんな悪魔がいんのか? 条約違反じゃねえか!?」
トフェレスは目を見開き、心底驚いた顔で言った。
「ああ、確かに条約違反だ。でも実際に人を襲ってる悪魔がいて、そいつらは人間を食い殺してるんだ。何か知らないか?」
ケンタは同じ質問を繰り返した。
トフェレスは顎に手を当てて「う~ん……知らねえなぁ。」と唸りながら返答したが、すぐに合点のいった顔をすると、
「……ああ、それで食料の事聞いたのか。食料が減ってるから代わりに人間が襲われてんじゃねえかって?」
とケンタに聞いた。
「ああ、そうだ。」
「う~ん、俺も仕事仲間の悪魔としか話さねえからなぁ……それ以外の悪魔の事はあんまりなぁ……。まあでも、腹が減ったら食うんじゃねえか? 人間でもなんでも。」
「え!? ……悪魔って、そういうもんなのか?」
ケンタは怪訝な顔をしながら言った。
「悪魔が全部そうだとは言わねえがよぉ、中にはそういうおっかねえ悪魔もいるかもってことだ。」
トフェレスはあっけらかんとした口調で言った。
「そうか……。あんた自身はどうなんだ?」
ケンタは質問を重ねていった。
「俺か? 俺はそんな事しねえよ。俺は条約を守る善良な悪魔だからな。ただ、俺も食い物が無くなって本当にどうしようもなくなったら、人間を襲って食うかもな。」
トフェレスのその言葉にケンタは一瞬驚いた顔をし、「そうか……。」と暗い顔になりながら呟いた。
「あ! いや! ほら! 見ての通り俺は運び屋の仕事をしてっからよ。運び屋はベリミットから直接食料を貰ってるから食い扶ちには困らねえんだ。もしそれが無くなったら大変だなっつう話だ。」
ケンタの暗い顔を見て、トフェレスは慌てたように言葉を付け加えた。
「あ、ああ……。」
ケンタは少し面食らったような顔で曖昧な返事をした。
「にしても人間の肉か……。考えた事もねえけど、どんな味がすんのかちょっと興味あるな。……はっ! す、すいません……!」
トフェレスはクロキと目が合った瞬間に慌てて謝り、クロキは「大丈夫ですよ。」と苦笑いしながら言った。
トフェレスは「ふぅ。」と胸を撫で下ろし、呼吸を整えてから再び話し始めた。
「お前ら、ベオグルフに何しに行く気だ?」
「ん? まあ、仲間を助けに行く、って感じかな。」
ケンタはお茶を濁した。
「はあ……やっぱしな……。悪い事は言わねえ、やめとけ。」
トフェレスの言葉にリュウはまたムキになったが、ソウマとケンタがリュウを制止した。
「どうしてそう思うんですか?」
ソウマはリュウを取り押さえながら聞いた。
「王都は女王のお膝元だ。まず犯罪なんて犯せねぇ。それにあそこは女王直属の戦闘集団、バロア悪魔軍の第一師団が警護してる。その辺の人間風情が相手に出来る連中じゃねえ。そこのクロキとかいうのは中々の強さだと思うけどよ、それでも最後には全員取っ捕まっちまうと思うぜ?」
トフェレスはソウマ達に忠告を与えた。
「へっ! ご忠告どうもありがとよ! ここまで来て引き返せるか!」
リュウはソウマとケンタに抑えられながら吐き捨てるように言った。
「そうかい。まあ勝手にしろ。どうせ俺には関係ねえ。」
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そんな会話をしている間に、トフェレスの馬車は小高い岩山の麓までやって来た。
「あの岩山を越えた先がベオグルフだ。俺が連れてけるのはここまでだぜぃ。」
トフェレスは馬車を停めながら言った。
「ありがとうございます。助かりました。」
クロキは礼を言って馬車から降りた。
ソウマ達もクロキに倣って馬車を降りた。
「おう。俺も久々にケンゾウ以外の人間と話せて楽しかったぜぃ。ありがとよ。」
トフェレスはそう言うと手綱を握り直した。
「ああ、そう言えば……」
トフェレスは思い出したように言いながら腰布の中を探った。
「俺、バロア牢獄の地図持ってるんだったな~。無くさないように気を付けねぇとな~。おっと、手が滑った。」
トフェレスは腰布から取り出した一枚の紙切れをヒラヒラと振り、わざとらしい口調でそう言うと紙を地面に落とした。
ソウマがその紙を拾い上げると同時にトフェレスは馬車を走らせ、ソウマ達から遠ざかっていった。
ソウマが紙の中身を確認すると、紙にはバロア牢獄のある洞窟の内部の地図が描かれていた。
「トフェレスさん、ありがとうございます……!」
ソウマは遠ざかっていくトフェレスの背中に向かって礼を言った。
トフェレスは振り返る事はせず、片手だけ振ってソウマの礼に応じた。