第五十一話 ドミノ
クロキはゆっくりと目を覚ました。クロキの目に最初に見えたのは、要塞の廊下の天井だった。次に見えたのは、自分をお姫様抱っこして運ぶルシフェルの姿だった。
「ん。目覚めたか、クロキよ。すっかり眠り呆けていたな。夜通し祭りを楽しんで寝不足のようだな。」
ルシフェルはクロキの顔を見下ろしながら微笑んだ。
「ルシフェルさん……。」
抱っこされているクロキは、ルシフェルの歩みに合わせて揺すられながら、くすりと笑った。
「安心したまえ。今、仮眠室までお前を運んでいる。そこのベッドでゆっくり休むといい。」
ルシフェルはそう言うと、また前を向き直した。
「ありがとうございます……。ただ、出来れば仮眠室ではなく、救護室まで運んでいただけると助かります。」
「ん? そうか、分かった。」
ルシフェルは了承し、進路を変えた。
「……ところでクロキよ、一つ聞きたいことがある。」
ルシフェルは前を向いて歩きながらクロキに話しかけた。
「なんです?」
「なぜ私の本名を知っている? 私の名はモリノだぞ?」
ルシフェルは真面目な顔で尋ねた。
「え? ははは……。あなたがルシフェルさん本人であることは、もうとっくに調べはついていますよ。」
「何? そうであったか。」
ルシフェルはあっけらかんとしながら言った。
「はい。あなたが訓練の初日に、うっかり本名を名乗った時、最初はただの言い間違いかと思ったんですが、念のためと思って調べみたんです。それで昔の文献や新聞を漁って、百年ほど前の新聞から、あなたに関する記事を見つけたんです。」
クロキは過去の行動を回想しながら話した。
「ほう、一体どのような記事だ?」
「ルシフェルさんの姿がグリティエ国内で目撃された、という記事です。その記事に載っていた人相書きとあなたを見比べて、それであなたがルシフェルさん本人だと分かったんです。」
「そうであったか。私の潜入捜査を即座に見破るとは、素晴らしい働きぶりだ。見事だぞ。」
ルシフェルは他人事のようにクロキを褒めた。
「いえ、大したことではないです。むしろ私を含め、誰もルシフェルさんの素顔を把握しておらず、あなたの侵入を易々と許してしまったことは、グリティエ軍の大きな失態です。」
クロキは自嘲気味の笑顔で言った。
「百年経てば私の姿など、人々の記憶から簡単に薄れてゆくものだろう。」
「確かにあなたの素顔を知る人はほとんどいなくなっています。しかしグリティエ軍がそのような低い危機意識のままではいけませんから、そこはしっかりと反省しないといけません。」
クロキは飽くまで謙遜した。
「そうか……。それにしても百年前か……。」
ルシフェルは天井を見上げながら呟いた。
「はい。グリティエを訪れた記憶はありますか?」
「幼い頃から色々な土地を散歩してきたのでな。散歩中にうっかり国境を越えていたのかもしれん。」
ルシフェルは昔を懐かしむような顔で言った。
「はは……。ルシフェルさんは散歩をしただけでニュースになるんですね……。」
クロキは怪我の影響でまだ声が弱々しかったが、徐々に笑顔を見せるようになっていた。
「生き辛い世の中だ。私のことなど放っておけばよいものを……。」
「そうですね……。けど、あなたの力は国をひっくり返しかねませんから、仕方のないことですよ……。」
クロキは薄っすら微笑みながら呟いた。
「はぁ……。それにしても私のミスで潜入がバレてしまっていたとはな。後でケンタに謝っておかねば。」
「ケンタ? ケンタというのは誰ですか?」
クロキは眉を潜めて聞いた。
「イガリのことだ。彼の本名はケンタなのだ。この本名というのは非常に厄介な代物でな。潜入先では敵にバレないよう用心しなければならん。」
「……潜入先の敵というのは、私のことではないんですか?」
「何? ……いや、そんなことはない。クロキは我が友だ。敵ではない。」
ルシフェルは一瞬動揺したような顔をしたが、すぐに優雅な笑顔に戻った。
「はは……そうですか……。」
クロキは乾いた笑いを漏らした。
そこからしばし二人は無言だったが、クロキのほうから沈黙を破った。
「でもルシフェルさん、もう本名のことを気にする必要は無いですよ。イガリ君……ではなくケンタ君。それにキンジ君と、ユーリさん。彼らが不法侵入者であることは、もう分かっていますから。」
「む……そうであったか。」
「はい。行方不明になっていた門兵達が無事に保護されまして……それで彼らにあなた方の顔を確認してもらって、自分達を襲った四人に間違いないと証言を貰っています。」
「そこまで調べ上げていたか。……ん、ここが救護室だな。」
そう言ってルシフェルは廊下にある扉を開け、救護室に入った。
ルシフェルは救護室のベッドにクロキを寝かせ、自分はベッド脇の椅子に座ると、話を再開した。
「そこまで知っていて、何故我々を逮捕しなかった?」
「もちろんそれは考えました。特にルシフェルさんが国内に潜伏しているなんて、非常事態宣言を即時発令する事態です。ただ……」
クロキはそこで言葉を切った。
ルシフェルは不思議そうな顔をしながらクロキの次の言葉を待った。
「──私には、あなた方が悪い人には見えなかったんです。ただの侵入者ではないというか、目に何かこう……光を宿していたというか……勘みたいなものですが……。なので、今日まで様子を見続けてきたんです。」
「そうか。私達はクロキの恩情によって見逃されていただけだったのだな。」
ルシフェルは感心したように言った。
「訓練中彼らをずっと見てきましたが、私の勘は当たっていたように思います。彼らの本名は何と言うんですか?」
「赤髪の少年がソウマ、ピンクの髪の少女がカレン、茶髪の青年がケンタだ。」
ルシフェルは一人ずつ説明した。
「ソウマ君、カレンさん、ケンタ君……分かりました……。」
「何故本名を尋ねる? やはり我々を自警団に突き出す事にしたか?」
ルシフェルは微笑みながら冗談っぽく聞いた。
「はは……今更そんなことはしませんよ……。ただ彼らの事が気になったんです。どこから来た子達なのか、どうしてファナドに来たのか。」
「その辺りのことは全て秘密でな。一切明かす事は出来ないが、我々はベリミットという国からやって来た。ホムラという組織に所属し、悪魔の女王ガリアドネの暗殺を計画している。ファナドへ来たのは、女王を倒せるだけの魔法技術を身に着ける為だ。」
ルシフェルは大事な秘密をペラペラと喋った。
「秘密を……ほぼ全て言ってしまいましたね……。ホムラという組織で……目的は女王の暗殺……やはりそうですか……。」
クロキはどこか切ない表情をしながら、ルシフェルの言った言葉を復唱した。
「そうだ。お前も付いて来るか?」
ルシフェルはクロキに話を持ち掛けた。
「……ええ、是非そうしたいです。」
クロキは少し考えてから提案に応じた。
「そうか。協力する仲間が増えればユキオ達も喜ぶだろう。」
ルシフェルは満足そうに言った。
「いえ、協力するために付いて行くのではありません。むしろその逆です。」
「ん? どういうことだ?」
ルシフェルは不思議そうに小首を傾げた。
「彼らの計画を止めたいんです。彼らが女王の暗殺を計画しているのは、恐らくそれが、平和に繋がると信じているからでしょう。ですが実際のところ、それが実現する可能性は低いです。ベリミットではあまり公けになっていないのでしょうが、悪魔が人間を襲う理由は、恐らくベリミットが食料供給を怠っているからです。無関係である女王を暗殺しても、無駄骨に終わる可能性が高いです。」
「成程……そうであったか……。」
溜め息混じりに相槌を打つルシフェルに、クロキは「えぇ。」と頷きながら話を続けた。
「それに、もし女王が黒幕だったとしても、やはり計画は中止すべきです。」
「何故だ?」
「女王を殺したとしても、彼女を慕う悪魔達が復讐にやって来るだけです。平和はやって来ません。寧ろ、人間と悪魔は互いに復讐心に駆られていき、争いは永遠に続く事になります。復讐の連鎖はまるでドミノのように、最後の一人が倒れるまで止まることを知りません。この負の連鎖は、誰かが止めなければいけません。次の時代を担う子供達の人生を、単なるドミノの一つのまま終わらせる訳にはいきません。その為に私は、ホムラに入ります。」
クロキの力強く感情の籠った演説のような言葉に、ルシフェルはかなり驚いた顔をしたが、やがてゆっくりと微笑むと、「それは素晴らしい考えだな。」と言った。
「ありがとうございます。ただ、そういう私も散々悪魔を殺してきた身ですから、偉そうに説教出来る立場ではありませんが……。」
「国やファナドを守るためにしてきた事であろう? 先程私がした事と同じだ。復讐とは違う。故に、自分を責める必要はない。」
ルシフェルは優しく微笑を浮かべながらクロキをフォローした。
「そう言っていただけると心が救われます。」
「うむ。……では十分に休息を取ったら、クロキをホムラの拠点まで連れてゆこう。そこにユキオというホムラのリーダーがいる。たっぷり話をするとよい。」
ルシフェルは椅子から立ち上がりながら言った。
「ありがとうございます。もし組織の考えを改めさせることが出来たら……その後は私もホムラの一員となって、組織をより良いものに変えていきたいと思います。」
クロキは救護室の天井を見上げながら言った。
「そうか……。それならばいっそのこと、お前が新しいリーダーとなってしまえばよい。」
ルシフェルはクロキに微笑みながらそう言った。
「はは……。流石にそこまで出過ぎた真似はしませんよ。」
と受け流したが、
「でも……ありがとうございます。」
と礼を言った。
「うむ。……さて、では私はこれで失礼する。ゆっくり休むといい。」
ルシフェルはそう言うと救護室を立ち去ろうとした。
「あ! 待って下さい。一つお願いが……」
「ん? なんだ?」
「キンジ君……いや、ソウマ君達が要塞の中で私の帰りを待っているんです。申し訳ないんですが、私の代わりに迎えに行ってもらえませんか?」