第四十二話 命懸けのかくれんぼ
「待って! アリサ! 止まって!」
カンナは大声でアリサを呼び止めた。
しかしカンナが制止した時には、既にアリサは十字路まで辿り着いていた。アリサは足元の影には気付かず、不思議そうな顔でカンナを振り返った。
次の瞬間、巨大な手がアリサの頭部を上から鷲掴みにした。その手は岩石のようにゴツゴツとした黒い皮膚に覆われていて、どう見ても人間の腕ではなかった。
「……!」
カンナは目の前の出来事に声にならない悲鳴を上げた。
そんなカンナを他所に、悪魔の手は徐々に力を込め始め、アリサの頭を締め上げていった。
「あ……が……!」
アリサは苦しみの声を上げ、悪魔の手から逃れようと藻掻いた。
そんなアリサに一切構うことなく、悪魔の手は力を込め続け、とうとうリンゴのようにアリサの頭を握り潰した。
藻掻いていたアリサの両手はダラリと下がり、体が痙攣した。
カンナはその光景に只々絶句した。両手で口元を覆い、絶望と恐怖の入り混じった表情をしながら、カンナはゆっくりと後ずさりしていった。
悪魔の手はアリサを離し、アリサの体は糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。やがて地響きのような足音を響かせ、アリサを殺した悪魔が曲がり角の陰から現れた。
悪魔は腕の皮膚と同じように全身が岩石のような固い皮膚に覆われ、獣というよりは最早化け物といった感じの見た目だった。顔もゲームのダンジョンに出てくるモンスターのように凶悪で、悪魔にしては小柄なほうだが、それでも二メートルを越える巨躯を誇っていた。
岩石悪魔とカンナとの距離は十メートルほどあった。
悪魔はまだカンナには気付いておらず、赤く光る鋭い眼光は足元に転がるアリサの遺体に向けられていた。やがて悪魔はゆっくりしゃがむと、アリサの花柄の私服を引き裂いた。そして牙を剥き出しにしながら口を目一杯開き、アリサの体に噛みついた。
アリサの体が噛み千切られる音、そして咀嚼音が辺りに響き渡る。
カンナは震える手で顔を覆い、指の隙間からその光景を見ていた。震える足でゆっくりと後ずさりを続け、やがてカンナの背中に何かが当たった。カンナが後ろを振り返ると、それはどこかの部屋の扉だった。カンナは音を立てないように慎重にその扉を開けると、部屋の中に入ってゆっくりと扉を閉めた。
カンナが入ったのは物置に使われている十畳ほどの部屋だった。箒や塵取りなどの掃除用具、予備のランタンやオイル、ベッドのシーツなどが棚やロッカーに仕舞われ、ロープや軍服、訓練で使った金属の支柱などが床に直置きされていた。部屋の壁際には使い古された大きな樽が沢山並べられていた。
「はあ……はあ……。」
カンナは物置の静寂の中で荒い息を響かせながら、部屋の中を見回した。部屋の奥へ進もうと少し歩いたその時、カンナは足元に転がるモップに足を引っ掛けてしまい、躓いて転んでしまった。その拍子にそばに置いてあった金属の支柱を倒してしまい、石の床と金属がぶつかる激しい衝突音が周囲に響いた。
岩石悪魔は外の廊下でアリサを食べていたが、その衝突音を聞いて顔を上げた。口の周りに血を滴らせ、グチャグチャとアリサの体を咀嚼しながら、悪魔は中腰の態勢で辺りを見回し始めた。やがて悪魔はカンナの入っていった部屋の扉が目に留まり、少し考えた後、ゆっくりとその扉に向かって歩き出した。
(やばい……! やばいやばい! 絶対気付かれた! ……隠れなきゃ! 早く!)
カンナは急いで立ち上がると部屋の中を見回し、部屋の奥に並べられている樽に気付いた。
(あそこしかない……!)
カンナは小走りで一番右端の樽まで行くと、樽の蓋を開けてその中に体をねじ込んだ。
カンナが樽の蓋を閉めた瞬間、岩石悪魔が扉を蹴破って物置に入ってきた。
「……!」
カンナはその大きな音に思わず声を上げそうになったが、両手で口を押さえてなんとか踏み止まった。樽に空いている細い隙間から、カンナは外の様子を覗った。
隙間からは悪魔が物置を物色している様子が見えた。悪魔は棚やロッカーを破壊し、床に散乱する軍服をひっくり返した。しかし何も見つからず、悪魔はまだ探していない箇所はないかと部屋を見回し始めた。やがて悪魔は壁際に並ぶ樽に目線がいき、左端の樽まで歩いていった。
カンナは右端の樽の中で震えながら、なんとかじっとしていようと努めた。
その時大きな破壊音が聞こえ、カンナは思わず体をびくつかせた。
その音は悪魔が樽を蹴りで破壊する音だった。砕けた木材が飛び散り、床に当たって乾いた音が響く。
悪魔は蹴りで一個ずつ樽を破壊していき、少しずつカンナの樽に近付いていった。
カンナは目に涙を溜め、両手で口を覆い、全身を震わせながら必死に死の恐怖と戦っていた。
やがて悪魔はカンナの樽の前までやって来た。樽をしばし見下ろしていたが、やがてゆっくりと右足を構え、樽を蹴る態勢を整えていった。
カンナには樽の隙間からその様子が見えていた。カンナの目は恐怖で正気を失っていたが、悪魔の足がこちらに向かって降り抜かれるのを見た瞬間、最期を覚悟してギュッと目を瞑った。
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「ほれ見ろ! やっぱりだ! またあいつダイヤの8持ってやがった! で、俺の手札にはダイヤの9から13までが勢揃いと来たもんだ! あの野郎、またなんか仕込んでやがったな……!」
兵舎ではリュウが憤慨しながらシドウの手札を場に並べていた。
「あ、あはは……。」
リュウの様子を見てソウマは苦笑いしたが、すぐに心配そうな顔つきになり、
「シドウ君、遅いね……。」
と言った。
「ん、そうだな。ちょっと様子見てくるか。」
ケンタはそう言うと立ち上がった。
「放っとけよ、あんなやつ。」
リュウはイライラした声でケンタを止めたが、ケンタは部屋の出口まで歩いていった。
「あ、僕も行くよ。」
「いや、俺一人で大丈夫だ。ちょっと行ってくる。」
ソウマの申し出を断り、ケンタは一人で寮の部屋を出ていった。
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要塞の建物の中で、何か重いものが倒れる音が響き渡った。
「ハア……ハア……ハア……ハア……。」
廊下の真ん中で上官Aは息を荒げ、全身から出血しながらも、なんとか一人で立っていた。頭から流血して左目に血が滲み、上官Aは右目だけ開けていた。
上官Aの目の前には、さきほどシドウを殺した巨大な赤毛悪魔がうつ伏せに倒れ伏していた。全身に無数の深い切り傷があり、床には血だまりが出来ていた。
「グ……ガ……グ……。」
悪魔は途切れ途切れに呻いていたが、やがて緑の目から光が失われ、完全に動かなくなった。
悪魔の体は徐々に黒く変色していき、やがて全身が黒色に変わった。そして少しずつひび割れていき、黒い砂となってボロボロと崩れていった。悪魔の体は全身が黒い砂へと変わり、やがて跡形も無くなった。悪魔が倒れていた場所には黒い砂だけが残った。
「やっと死んだか……。さて……さっきの新兵を呼びにいかないとな……。」
上官Aは荒い息の中で途切れ途切れに呟いた。上官Aは左目に滲む血を拭い、何度か瞬きして左目の視界を回復させた。
「よし……。」
上官Aはカンナが走っていった方向を向き、廊下を駆けだした。上官Aは廊下を区切る扉をいくつか抜け、ひたすら真っ直ぐ走った。数十メートル走ると、やがて廊下の暗闇の向こうに要塞の中央の十字路が薄っすらと見えてきた。
「!」
上官Aは何かに気付いて立ち止まった。
上官Aの視線の先には、アリサを殺した岩石悪魔がいた。
岩石悪魔は上官Aに背を向け、左手に掴んでいる人間を引き摺りながら歩いていた。
岩石悪魔に髪の毛を掴まれて床に引き摺られていたのは、眼鏡をかけた黒髪の女の子だった。