第百二十二話 挑戦を続けているからこそ
ベリミット人間国の、とある田舎町。町は夕暮れが迫り、オレンジ色に染まる。その町の一端の、森の奥深くにあるホムラの拠点。
マディはその拠点の地下研究室に居た。天井のランタンが部屋を照らす中、机に突っ伏し、スヤスヤと寝息を立てている。
一方、マディが纏っているローブのフードの中には、同じくスヤスヤと眠っているタマの姿があった。体を丸めてアンモニャイトを形成し、寝息を繰り返す度に体がゆっくりと上下している。
しかしそれも束の間、タマはパチリと目を覚ました。ムクリと体を起こすと、「ニャウゥ……。」と不安そうな声を上げながら、マディの首筋にチョンチョンと前足を当てる。
「ん……んん……? どうしたんだぁぁぁい?」
マディは眠い目を擦りながら起き上がり、タマのほうを振り返った。マディは目の下にクマが出来ていて、かなり寝不足な様子だった。
そんなマディに対して、タマは不安そうな鳴き声を繰り返した。
「ああぁぁぁ、また発作が来そうなんだねぇぇぇ、分かったよぉぉぉ。」
マディはタマの行動を直ぐに理解すると、本や薬品が散乱している机の奥のほうを探した。やがて、水色の液体が入った注射器を手に取ると、注射の準備を始めた。
マディが作業を進めている間、タマはフードの中で大人しく待っていた。しかしそんなタマに、少しずつ不穏な変化が訪れ始める。それまで穏やかだった表情は狂暴なそれになり、爪や牙は徐々に鋭くなっていく。さらに、猫とは思えないような低い唸り声を上げ始め、口からは醜悪な涎が垂れる。
「急がないとねぇぇぇ……よいしょぉぉぉ。」
マディはフードの中のタマを抱き上げると、作業台の上に置いた。左腕で包み込むようにしてタマを抑え込み、暴れないようにしながら針を刺す。
タマは一瞬痛がったが、直ぐに症状は治まり、鋭くなっていた爪や牙は引っ込んでいった。タマはやがて全身から力が抜け、作業台の上でぐったりと伸びた。
そんなタマを、マディは優しく撫でた。
(さっき打ったばかりなのに、もう悪魔化がぶり返してしまったかぁぁぁ。薬が未完成だからかなぁぁぁ、段々効かなくなってきているねぇぇぇ。マズイなぁぁぁ、早く必要な材料を見つけないとぉぉぉ……。)
マディはタマをフードの中に入れて寝かしつけると、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
机の上には、実験記録らしき書類の束が乱雑に置かれ、それらの書類には表が細かく記載されていた。アドマヘビの舌、クロオオカミの牙、千年草の花等々、沢山の実験材料の名称が記載され、その全てに上からバツ印が引かれていた。
(僕の直感では、薬の完成に必要な材料はあと一つぅぅぅ。その最後の一つがどうしても見つからないぃぃぃ。ここに列挙した材料は全て試したぁぁぁ。あとは何があるぅぅぅ? 何を試してないぃぃぃ?)
マディは机に突っ伏して頭を抱えながら、目まぐるしく思考を巡らせた。そしてチラリと視線を動かし、ある一点を恨めし気に見つめる。
マディの視線の先には、真っ赤な血の入った試験菅があった。その血は且つて、マディがルシフェルから貰った物だった。
「はぁぁぁ……。」
マディは深い溜め息をついた。
(駄目だぁぁぁ、分からないぃぃぃ。悪魔の血がここまで手強いとは思わなかったぁぁぁ。……少し気分を変えよぉぉぉ。)
マディは疲れて落ち窪んだ目を擦りながら、地上に這い出た。
「やあぁぁぁ、クロキくぅぅぅん。」
マディは広間に出て、椅子に座っているクロキに声を掛けた。
クロキはテーブルに書類を広げ、その書類を難しい顔で読み込んでいる最中だった。が、マディに声を掛けられると顔を上げ、いつものくたびれた笑顔を浮かべた。
「マディさん、お早うございます。」
「おはよぉぉぉ。呪いの傷の具合はどうだぁぁぁい?」
マディはクロキの傍までヒタヒタと歩きながら尋ねた。
「えぇ。時々痛みは有りますが、今の所、生活に支障は有りません。」
クロキは軽くお腹の辺りに触れながら返答した。
「そうかぁぁぁい。僕の再生薬でも、呪いは消えなかったそうだねぇぇぇ?」
マディは少し悲しそうな顔をしながら尋ねた。
「はい、残念ながら……。ただ、秘薬さえ届けば、呪いはすぐに治せますから。……そんなに落ち込まないで下さい、大丈夫ですよ。」
クロキの返答に対して、マディが露骨に落ち込んだ様子を見せた為、見かねたクロキは苦笑しながらマディを励ました。
「うんんんん……。確か秘薬は、ガブリエラ様から貰う約束をしてるんだったねぇぇぇ?」
マディは落ち込んでいた気持ちを切り替えて、クロキに問い掛けた。
クロキはその問い掛けに対し、「はい、直に届くと思います。」と頷く。
「成程ぉぉぉ。それじゃあ、呪いは直に解決しそうだねぇぇぇ。それじゃあ僕は、悪魔化治療薬の開発に集中するとしよぉぉぉ。」
「お願いします。ただ、あまり無理は為さらないようにして下さい。とてもお疲れの様子ですから。」
クロキは憐憫の感情を含んだ笑顔でマディを気遣った。
「えぇぇぇ? どうしてだぁぁぁい? 元気だよぉぉぉ?」
マディは不思議そうにしながら尋ねた。自分は平気だとアピールしようと、両腕をブンブン振り回す。
「本当ですか? 目の下にクマが出来ていますし、あまり寝られていないように見えますよ?」
クロキは微笑みながら、自覚のないマディにクマの事を教えた。
「おや、そうかぁぁぁい。確かにあまり寝れてないなぁぁぁ。ここ最近、ずっと開発に没頭していたからねぇぇぇ。」
マディは目の下をゴシゴシ擦りながら言った。
「そうでしたか……。」
「うんんんん。この悪魔化治療薬なんだけどねぇぇぇ、これがどうしても完成しないんだぁぁぁ。最後の材料探しに思いの外苦戦していてねぇぇぇ。案外、身近にある物が答えのような気がするんだけどぉぉぉ、ずっと失敗続きなんだよぉぉぉ。」
マディは薬の入った注射器をクロキに見せ、溜め息混じりに肩を落とした。
「なるほど……。ですが、たとえ一時的にでも、症状を抑える薬を作れた事は、とても大きな成果だと私は思いますよ。」
「そうかなぁぁぁ?」
「ええ。再生薬に悪魔化の治療薬。どれもグリティエの技術では、まず再現不可能な代物です。勿論、私なんかでは到底出来ません。マディさんは失敗続きだと仰いましたが、私はそうは思いませんよ。過去を振り返ってみれば、マディさんのこれまでの研究は、大きな成功を収めていると思います。」
クロキの口調は、落ち込む新兵を励ます教官そのものだった。
職業病が出るクロキに対し、マディは尚も続ける。
「そんな事はないよぉぉぉ。過去を振り返るというなら、そもそもタマちゃんを悪魔化させてしまったのは僕が原因だぁぁぁ。結局僕の研究は、失敗だらけなんだよぉぉぉ。」
ネガティブ発言を連発するマディに対し、クロキはすぐには返事を返さず、ゆっくりと体の向きをマディに向けた。
「マディさん。」
「んんん?」
「失敗が続いてしまうのは、挑戦を続けているからこそです。私は挑戦を続けているマディさんを、心から尊敬していますよ。」
クロキはいつもより優しめのくたびれた微笑みを浮かべながら、マディを称えた。
「そ、尊敬ぃぃぃ!?」
クロキの放った『尊敬』というワードに、マディは驚愕した。そして目を輝かせ、頬を赤く染める。
クロキは微笑みながら「はい。」と肯定。
その瞬間マディは、それまでの落ち込んでいた様子から一変し、元気を取り戻した。
「嬉しいねぇぇぇ、こんなに褒められたのは初めてだよぉぉぉ。」
マディはクルクルと回りながら、広間の中で小躍りした。
マディのテンションに若干引き気味のクロキを余所に、マディは話を続けた。
「そうだぁぁぁ、気分転換に小川でも見に行こうかなぁぁぁ。クロキ君もどうだぁぁぁい?」
「い、いえ、私は大丈夫です……。」
クロキはやんわりと断った。
「そうかぁぁぁい、じゃあ僕は行ってくるよぉぉぉ。あ、タマちゃんを頼むよぉぉぉ。屋外で悪魔化しちゃうと大変だからねぇぇぇ。念のため、治療薬も一緒に置いておくよぉぉぉ。」
マディはテーブルにタマを寝かせ、横に注射器を置いた。
「はい、分かりました。」
タマをそっと撫でながら返事をするクロキ。
その返事を待たずして、マディはスキップしながら、上機嫌で拠点を出ていった。
マディとクロキがそんなやり取りをしていた丁度その頃、拠点の外にはリュウの姿があった。リュウはカレンとケンタ、そしてルシフェルの墓標の前で、静かに佇んでいた。