第百十二話 ゴブスケ
バロア悪魔国で人肉食文化が解禁され、酒場は毎日のように賑わいを見せるようになった。
それから数日が経過したある日。
ベオグルフの外れに位置する、とある集落。
一軒の建物の中で、一体の悪魔がテーブルの前に立ち、何やら作業を進めていた。
悪魔は大相撲の力士のような巨大な体格をしていて、体長は二メートルほど。全身は緑色、顔は豚鼻、口元には猪のような牙。一言で言うなら重度の肥満多型のオーク、といった具合の見た目だった。ボロボロの腰布を纏い、首には首飾りを掛け、ドでかいハンマーを背負う背中には、申し訳程度の小さな翼が生えている。
悪魔の名前はゴブスケ。
ゴブスケは木の板を掴んだ。
その板には何かの文字が掘られている。
ゴブスケは木の板にインクを塗り付けると、紙に押し付けて文字を印字した。印字しては乾かし、印字しては乾かす。同じ作業を繰り返し、少しずつ紙が積み重ねられていく。
やがてゴブスケが作業するテーブルには、印字が終わった紙が堆く積まれていった。
やがて数百枚の紙に印字を終えたゴブスケは、積み上げた紙をまとめて掴み、テーブルにトントンと当てて乱れを整えた。
「よし、出来たッス。」
ゴブスケは紙束を眺めながら満足げに頷いた。紙束を小脇に抱え、ゴブスケは外出をしようと玄関の扉を開けた。
「あ、あれ? 詰まっちゃったッス。」
ゴブスケは太って突き出たお腹が、玄関の出口に完全に嵌まってしまった。
「ふんっぬぬぬぬぬぅ……!」
ゴブスケは必死の形相で足を踏ん張り、なんとかして脱出を試みる。
すると段々と家の壁にヒビが入り、派手な音と共に玄関が壊れた。
「うわっ! いててて……。はあ……オイラ、また太っちゃったッス。ダイエットしなきゃッスね。」
ゴブスケは地面に倒れた玄関の扉を起こすと、自宅の壁に立て掛けながら溜め息をついた。
ゴブスケは床に散らばった紙を拾い集めると、歩いて何処かへ出掛けていった。
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数日前にトフェレス達が親睦会を開いた酒場。その酒場は、今日も大勢の悪魔達で賑わっていた。
談笑する悪魔達の笑い声は店の外まで響き、その楽し気な雰囲気に誘われるように、一体また一体と悪魔達が来店する。
悪魔達の出入りは激しくなり、より一層の盛り上がりを見せる。
そんな様子の酒場の前を、ゴブスケは通り過ぎていった。店の前を通る際、ゴブスケは少しだけ立ち止まった。
「さすがにここじゃ邪魔になるッスね。」
ゴブスケはそう呟くと、店を通り過ぎていった。
やがてゴブスケは、ベオグルフの中心街までやって来た。
中心街はまるで都会のように、大勢の悪魔達が行き交っていた。
ゴブスケは辺りを見渡して高台を見つけると、「あそこがいいッスね。」と言ってその高台に登った。
「オホンッ……。皆! 聴いて欲しいッス!」
ゴブスケは軽く咳払いして喉の調子を整えると、民衆に向かって声を張り上げた。
「ん?」
「なんだなんだ?」
群衆の注目がゴブスケに集まる。
集まった群衆の中には、トフェレスの姿もあった。
悪魔達の聴く態勢が整うまで待ってから、ゴブスケは口を開いた。
「単刀直入に言うッス! 少し前、この国で人肉食が解禁されたッス! けどオイラは、アレを全部禁止にするべきだと考えてるッス! 皆はどう思うッスか!」
ゴブスケの演説内容に対し、群衆は訝し気な表情を浮かべ、反感の声を上げた。
「はあ? 何言ってんだ、アイツ?」
「なんで禁止になんかすんだよ!」
「人間達が可哀そうだからッス! 人間はオイラたち悪魔と同じように沢山感情を持ってて、大切な人を亡くした時に、深く悲しむ心を持ってるッス! だからオイラ達が人間を食べれば食べるほど、悲しい思いをする人間が増えるんス! もうこんな事はやめるべきッス!」
野次が飛び始める中、ゴブスケはその野次を抑えるように声を張った。
しかしそれが火に油を注ぎ、野次は勢いを増していく。
「それじゃあ元の貧しい生活に戻れってのか!?」
「人間を犠牲にしなきゃ、俺達が食っていけないだろうが!」
「そうだそうだ!」
「先に条約を破ったのはベリミットのほうだろ! 自業自得だ!」
怒りの声を上げる群衆。
その様子を見回しながら、トフェレスは小さく溜め息をついた。
(そりゃあ、こうなるだろ……。普通に考えてよぉ……。)
「ちょ、ちょっと! みんな落ち着くッス! 話はまだ続くッス!」
ゴブスケに制され、群衆が少しだけ落ち着く。
「なにもオイラ、ただ単に人肉食を止めようって言ってる訳じゃないッスよ? オイラだってお腹が空くのは嫌ッス! だから人間の犠牲は無しにするけど、その上でちゃんと食べ物は確保しなきゃいけないッス!」
「どうやってやんだよ? 無理だろ、そんなの……。」
「そんな事は無いッス! 人間と協力すれば、きっと実現出来るはずッス!」
「協力? どうするんだ?」
ゴブスケの力説に、群衆の一体が眉を吊り上げて聞き返した。
「農耕や牧畜の技術を人間達から教えてもらうんスよ! そして教えてもらった技術を使って、悪魔達が食べる物を、悪魔達自身で作っていくんス! 人間から奪うんじゃなく! 自分達の食べる物は、自分達で作っていく! これが本来あるべき姿だとオイラは思うッス! 皆、どう思うッスか?」
ゴブスケは民衆に問い掛けた。
一瞬の沈黙、そして――。
「馬鹿馬鹿しい……。」
群衆の中の一体がそう呟き、その悪魔は立ち去っていった。
それを合図に、他の悪魔達も続々とその場を去り始める。
「今の制度で上手く行ってるんだ。態々(わざわざ)変える必要ないだろ?」
「その通りだ。フェゴール様の努力が無駄になる。」
「そもそも人間は下位の生物だぞ? 下位生物から教えを乞おうなど、上位生物である俺達悪魔の誇りを傷付けるつもりか?」
捨て台詞を吐いてその場を後にする悪魔達。
その悪魔達を、ゴブスケは必死に呼び止めた。
「ま、待ってくれッス! せめて、このビラだけでも受け取って欲しいッス!」
ゴブスケは慌てて高台を下り、手に持っていた紙束を配ろうとした。
『人肉食文化、反対! 人間達に尊厳を!』などと書かれているビラ。
ゴブスケはそのビラを悪魔達に渡そうとするが、誰一人受け取る者は居ない。
「いたっ!」
一体の悪魔がゴブスケの肩にぶつかり、ゴブスケは倒れた。手に持っていたビラが地面に散らかる。
「あっ! ちょっと! 踏まないで欲しいッス!」
ゴブスケの頼みも虚しく、悪魔達に踏まれて汚れるビラ。
やがて群衆は居なくなり、残されたゴブスケは地面に膝を突いた状態で、ビラを拾い集め始めた。
「よいしょ……。あぁ、思いっ切り足跡付いちゃってるッス……。」
悲しい声で呟くゴブスケ。
そのゴブスケを、トフェレスは腕組みした状態で、遠くから見つめていた。が、やがてその腕組みを解くと、ゆっくりとゴブスケに向かって歩み寄っていった。