第百一話 届かぬ拳
「ぐぅおおおぉぉぉおおお!」
ソウマは獣のような叫び声を上げながら、破壊活動を続けた。
そんなソウマを、遠くからロイドが観察する。
「あ~りゃりゃぁ。派手に暴れやがって、たくっ……。」
ロイドは頭を掻きながら、やれやれといった具合に首を横に振った。
(あいつ、例のガキだな……悪魔化してるみてぇだが……。さあて……どうすんだ、グリムロ?)
ロイドは心の中でそう尋ねながら、上空で停止飛行するグリムロを見上げた。
グリムロは腕組みをしながら上空で羽ばたき、至って冷静な表情で街の惨状を見つめていた。
「グリムロ様、早く指示をお願いします。ここで待機していても、被害が拡大するだけです。」
グリムロの傍に居る闘牛のような悪魔が、グリムロに指示を催促した。
「待て。」
グリムロは闘牛型悪魔を制止する。
「何故です!? 早くしないと、犠牲者は増える一方です!」
闘牛型悪魔は憤慨しながら食い下がった。
そんな闘牛型悪魔に対して、グリムロはゆっくりと振り向きながら口を開いた。
「ヤツは単独で先遣部隊を全滅させた。迂闊に近付けば、我々も殺されるやもしれん。」
「それは……確かにそうですが……」
闘牛型悪魔は不満気に口籠る。
「ヤツは元々人間だった。今は悪魔化によって肉体が強化されているようだが、それだけで本物の悪魔と渡り合う事など、本来であれば不可能なはず……。」
そう言いながらグリムロは、眼下のソウマに視線を戻した。
「……。」
闘牛型悪魔は無言のまま、グリムロに倣ってソウマに視線を移した。
「何か秘密があるはずだ。我々悪魔族を凌駕する何かが。それが分かるまでは、決して手を出すな。」
「……了解。」
上空でグリムロ達がやり取りをする一方、地上のソウマは街の破壊活動を継続していた。大人子供、関係無く襲い掛かり、体を引き裂いて殺害していく。
グリムロとロイド、そして部下の悪魔達は、その様子を遠巻きに眺める事しか出来ず、ただ手をこまねいているだけの時間が続いた。
「!?」
その時、ソウマの体に異変が訪れた。力一杯振り回している両腕からブチブチ、バキバキという、筋組織の壊れる音、そして骨の砕ける嫌な音が響く。さらに皮膚の表面がパンッと弾け、そこから激しく出血し始める。それはまるで、皮膚が内側から破裂したかのような光景だった。
「ぐ……うぅ……うおおお!」
ソウマは突然の出来事に驚き、苦痛に呻きながら腕を庇った。激痛に苛まれ、激しく顔を歪ませる。が、その痛みを気力で無理矢理捻じ伏せ、ソウマはすぐに攻撃を再開した。腕を振り被り、再び竜巻で攻撃を仕掛ける。
しかし、先程まで生み出していた巨大な竜巻とは違い、出現させたのはつむじ風程度の物だった。そのつむじ風に悪魔を殺傷出来るほどの力は無く、なんの脅威にもならない。
ソウマは竜巻による攻撃を繰り返そうとするが、痛みを庇いながらの動作は弱々しく、襲来当初の威力は完全に失われていた。
「グリムロ様、あれは……!」
闘牛型悪魔は隣のグリムロの顔を見ながら声を掛けた。
しかしグリムロは無言のまま、少し目を細めてソウマを見続けるだけだった。
そんなグリムロの視線の先、眼下のソウマは、体のあちこちが壊れ始めていた。地面を踏み込めば、踏み込んだ足のふくらはぎが破裂して出血し、歯を食いしばれば奥歯が砕け、叫べば咽喉が傷付いて吐血する。重傷を負い続け、全身のあちこちから血が噴き出す。それでもソウマは暴れ続けた。
「ハア……ハア……ハア……ハア……。」
やがてソウマは体力を使い果たし、肩で息をし始めた。破壊されたベオグルフの街並みの中に一人立ち、焦点の合わない目で虚空を見つめる。そしてソウマはゆっくりと夜空を見上げ、そこで初めてグリムロの姿を捉えた。
ドクンッ。
ソウマの心臓が一度大きく跳ね、虚ろだった表情が一気に憤怒の形相となる。
「グゥゥゥリィィィムゥゥゥロォォォオオオ!」
次の瞬間には、ソウマは絶叫しながら飛び上がっていた。地面を踏み込んで飛び立ち、真っ直ぐグリムロに向かって行く。
「グ、グリムロ様? どうします?」
闘牛型悪魔は迫って来るソウマに対して危機感を募らせながら、グリムロに尋ねた。
しかしグリムロは腕組みしたまま、微動だにしない。
その間にもソウマはドンドン迫った。
「グリムロ様!?」
闘牛型悪魔は切羽詰まった様子で再度尋ねた。
しかし、それでもグリムロは身じろぎ一つしない。
ソウマは右手の拳を構え、グリムロの顔面を殴ろうと大きく振り被った。
その時――。
到頭ソウマの体に限界が訪れた。全身の皮膚が一気に弾け、血が迸る。頭の天辺から足の指先まで、全身の至る所の皮膚が破裂して出血。さらに口からも激しく吐血し、口元から溢れた血が空中に飛び散った。
ソウマの拳はグリムロの顔面に当たる寸前、ギリギリで止まった。
そのソウマの拳を目の前にしても、グリムロは空中で仁王立ちしたまま、一切動く素振りを見せない。
そんなグリムロと間近で相対するソウマは、激しい出血の所為で血を失い、段々と意識が遠のき始めていた。そんな薄れゆく意識の中で、ソウマはなんとか拳を当てようと必死に腕を伸ばしたが、拳はプルプルと震えるばかりで、グリムロにはどうしても届かない。
やがてソウマの意識は完全に消え、ソウマは頭から真っ逆さまに落下していった。消えていく意識の中、ソウマは心の中で無念の思いを呟いた。
(ちく……しょう……届かなかった……。グリ……ムロ……覚えて……ろ……。僕は……必ず……お前を……)
自由落下したソウマは地面に叩き付けられた。そのまま地面に転がり、ピクリとも動く気配は無い。
「死んだ……のか……? いや、まだ息はあるか……?」
闘牛型悪魔は半信半疑で呟いたが、グリムロは無言だった。
その時、現場にフェゴールが到着し、グリムロの隣にやって来た。
「グリムロ、状況を教えろ。例の悪魔はどうなった?」
フェゴールはグリムロの隣で停止飛行しながら尋ねた。
グリムロは質問には答えずに視線だけ動かし、同じほうを見るようフェゴールに促した。
「あれか……。無事に始末したようだな。でかしたぞ。」
フェゴールはグリムロの肩にポンと手を乗せ、労をねぎらった。
「いや、俺達は何もしていない。」
グリムロはフェゴールの早とちりを訂正した。
「何? どういう意味だ?」
フェゴールは眉をひそめながら尋ねた。
「ヤツは悪魔化した人間だった。悪魔の力に体が慣れていないまま暴れ回り、自滅しただけだ。」
「んん? ぬあっはっはっはっ! そういう事か! だが、何れにせよ鎮圧には成功したのだ。よくやった。」
フェゴールは合点がいった顔をしながら高笑いし、笑いが収まると冷静な面持ちに戻り、辺りを見渡した。
フェゴールの眼下には、ソウマに惨殺された悪魔達の死体と、破壊し尽くされたベオグルフの街並みが広がっていた。
「これをあの小僧一人がやったのか?」
フェゴールはグリムロのほうに顔を向けて尋ねた。
「この目で見ていた。間違い無い。」
グリムロは肯定する。
「そうか。たかが悪魔化した人間がこれ程の力を奮うとは……。俄かには信じられんが、まあいい。規律第八百六十五条を適用してよいぞ。この場で殺せ。」
「承知した。」
グリムロはフェゴールの言葉を受け取ると、ゆっくりと降下してソウマの近くに降り立った。
ロイドもその場に歩いて近付いて来る。
グリムロは無言で右手を構えた。
「おーい、グリムロ! ちょっとタンマ!」
ロイドが遠くからグリムロを呼び止め、呼ばれたグリムロは右手を構えたままロイドのほうに顔を向けた。
「コイツ、例のセントクレアの生き残りだろ? 殺しちゃまずいんじゃねえんの? 女王様に怒られるぜ?」
「次にバロアに来れば容赦はしないと伝えたはずだ。そしてその事は陛下も了承済みだ。問題は無い。」
グリムロは淡々と答え、再びソウマに向き直る。
「あ、そう。じゃあいいや。けど、せめてサクッと、痛くないようにしてやってくれ。頼むぜ?」
ロイドの要望には返事をしないまま、グリムロは闇属性の魔法を準備し始めた。構えた右手から闇の物質を生み出し、禍々しいオーラを纏った球体を造り出していく。
グリムロは軽く右手を振り、その球体を放った。
ほぼゼロ距離で放たれた暗黒球はソウマにモロに命中し、辺りに激しい衝撃音が響いた。同時に、周囲に濛々と土煙が舞う。
「ん~?」
ロイドは土煙の中で見え隠れするソウマの姿を覗き込み、訝し気な表情を見せた。
「おいおい、グリムロォ。まだ息あるぜぇ? まさか……この距離で外したのかぁ?」
ロイドはソウマの呼吸を確認しながら、挑発的な口調でグリムロに言った。
グリムロは何も喋らず、僅かに驚きの混じった表情でソウマを凝視していた。
「たくっ……しょうがねえな~。俺が手本をみせてやんよ。」
そう言いながらロイドは、自身の右手から野球ボールほどの大きさの闇の球体を生み出した。その球体を放ち、ソウマの頭にぶつける。
球体は間違いなくソウマに命中したが、ソウマの体は全く傷付かなかった。
逆にソウマに当たった球体のほうが砕け散り、木っ端微塵になった。
「ありゃ? 死なねえな。なんでだ?」
ロイドは思わず素っ頓狂な声を上げた。
そこへフェゴールが降り立った。
「フェゴール殿。今のは……」
グリムロはフェゴールのほうに顔を向け、慎重な口調で話し掛けた。
「うむ、見ていた。お前のあの規模の魔法なら、確実に殺せていたはず。だが、この人間はまだ生きている……。」
フェゴールはしゃがみ込み、ソウマの腕を掴み上げて慎重に観察した。
「何故死なない? 何故原形を留めていられる?」
フェゴールは苛立ちを隠せない様子で自問自答した。
「す、すいません! フェゴールさん! 俺がちょっと手抜きをしちまったからで……! 今度はちゃんと始末するんで……!」
ロイドは怯えた様子でフェゴールに謝りながら、魔法を準備しようとした。
「いや、いいぞロイド。」
「ふえ?」
フェゴールに止められ、ロイドは間の抜けた声を出した。
フェゴールは無言で人差し指を立て、ゆっくりとソウマの腕に突き立てた。
フェゴールの鋭い爪がソウマの腕に触れた瞬間、バチンと音がしたかと思うと、フェゴールの人差し指は曲がらない方向に九十度曲がった。
フェゴールは特に痛がる素振りは見せず、無言のままその指を掴むと、ボキリという音と共に、無理矢理その指を元に戻した。
「あまり空想や妄想の類を口にしたくはないが……」
フェゴールは立ち上がり、
「どうやら、この人間を殺す事は不可能なようだ。俄かには信じ難いが、殺す事はおろか、傷つける事すら出来ん。こんな芸当が出来るのは、一つしか考えられない……加護だ。どう思う? グリムロよ。」
と、右手をグーパーしながら重い口調で話した。
「同意見だ。この人間は恐らく、悪魔王の加護を宿している。伝説上の物とばかり思っていたが……。」
グリムロはフェゴールの話に頷きながら受け答えた。
「え? 加護? 何々?」
ロイドは話に付いて行けず、一人で困惑した。
そんなロイドをほったらかしにして、グリムロとフェゴールは話を続けた。
「やはりそうか。ということは、此奴がその気になれば、いつでもこの国を滅ぼせるというわけか。となると……此奴が目覚める前に、何らかの対策を講じなければならん。」
フェゴールはソウマを見下ろしながら言った。
「だが、我々の力ではこの人間を処分する事は出来ない。どうする?」
グリムロはフェゴールに意見を仰いだ。
「幸いな事に、此奴の体は悪魔化が進んでいる。まだ不完全で、精神的には人間の心を保っているようだが、悪魔化が進めば、やがてその心も失われるだろう。」
フェゴールはしゃがみ込み、ソウマの背中の翼を掴みながら言った。そして立ち上がり、話を続ける。
「此奴が目覚める前に悪魔化を完了させろ。大量の血を投与すれば短時間のうちに、精神を悪魔の色に染める事が出来るだろう。そうすれば、悪魔王の加護は我らの物だ。よいな?」
「……承知した。」
グリムロは一呼吸置いてから返答した。
「よし、話は以上だ。後は任せるぞ。」
そう言うとフェゴールは翼を広げ、夜空へと飛び去って行った。
フェゴールが立ち去った後、現場にはグリムロとロイドが残された。
グリムロは腕組みをしたまま無言で仁王立ちし、ロイドは倒れているソウマの傍にしゃがみ込んでいた。
ロイドは何か言いたげな表情でグリムロを見上げた。が、すぐに口を噤むと、何か納得いかないような顔をしながら、ポリポリと頭を掻いた。やがて無言でソウマを抱き上げて肩に担ぐと、そのまま歩き出した。
グリムロもそれに付いて行く。
この時ロイドが何を言おうとしたのか、それは誰にも分からない。
傍に居たグリムロでさえも。