人気者の女の子が何故か家に来る話
「よっしゃ!ざまあみろ雑魚!!」
モニターの中で、風見羊のあやつっていたキャラクターがガッツポーズをとる。それにつられて、羊自身も思わずこぶしを宙に突き出した。部屋は暗く、モニターの明かりだけが羊の細い腕を白く照らしている。机わきに置かれた時計の針は午前1時半を指し示していたが、羊は気に留める様子もなく再びゲームのコントローラを握りなおした。羊がこんな生活を始めてからすでに三か月が経過していた。はじまりは些細なことでなんということもない。ただある日、クラスの女子の一人が突然に、「なんか風見キモくね」と放課後の教室の中でつぶやいて、次の日からクラスにもそんな風な雰囲気が広がって、羊はいじめられるようになった。
靴やカバンを隠されたり、二階から水をかけられたり、果てにはクラスの女子の下着を盗んだ犯人として仕立て上げられた。そしてそのあと、羊は高校に通うことをやめ、部屋へとひきこもるようになった。
「羊、いい加減出てきなさい。引きこもってちゃどうしたいかわからないだろう?」
「羊ちゃん、お母さん話聞くからここを開けてくれない?」
初めの一か月は両親が今まででは考えられないくらいの猫なで声で外へと連れ出そうとした。彼らにとっては息子が学校でいじめられていたかどうかよりも、目に見える形で息子が引きこもっている方が問題なようだった。世間体を重んじる両親がまともに話など聞かないことを、羊は知っていた。
実際、そうした両親の試みも長くは続かず、引きこもって二か月経とうかというときには、羊はすでにいないものとして扱われていた。食事だけは毎日律義に部屋の前に置かれていたがそれ以外のやり取りは一切なくなっていた。そして夕飯時に時折聞こえる両親や妹の笑い声を聞くまいと、羊はいつの間にか昼夜問わずオンラインゲームに没頭するようになったのだった。
気づけば時計の長針はすでに三時をまわっていた。羊はパソコンの電源を落とすと、荒れ放題のベッドの中にもぐりこんだ。部屋の中に充満している寂しげな寒さから身を隠すように頭から掛け布団をかぶる。
「……帰りたい」
ゲームを終えて深夜に眠ろうとするとき、羊は決まって大きな虚無と、強烈な孤独を感じるのだった。眠れぬまま朝を迎えることもあった。そしてその都度こぼれる「帰りたい」という言葉はどういう意味をはらんでいるのか、発した羊自身にもわかっていなかった。
*
コンコン、と部屋の扉が二回ノックされる。窓から差し込む西日を遮るために羊がカーテンを閉めている途中のことだった。ドア越しに妹のくぐもった声が聞こえる。
「兄貴、お客さん」
妹はそれだけ言うとバタバタと足音を立てて階段を下っていった。もともとそこまで好かれてはいなかったからか、引きこもる前と後で唯一自分への態度を変えていないのは妹の蝶花だけだった。ふと、羊は部屋の前の廊下に誰かがいる気配を感じた。
「……ごめんなさい、家にまで押しかけて」
扉の向こうに立っている人物は泣いているようだった。時折鼻をすすり、声を震わせながら、聞いているかもわからない部屋の内側にその人物は語り掛けていた。
「私のせいで風見はそとに出られなくなっちゃったんだよね……私が……みんなが風見にひどいことしたから……」
羊は声の主に心当たりがあった。それは雷同狼香という少女だった。標準語に時折混じるおかしなアクセントがかわいいと評判で、クラスの女子の中でもひときわ目立つ容姿をしていた彼女はひっきりなしに告白を受けているような存在だった。しかしどうして彼女が、一枚扉を隔てた先に今現在いて、しかも泣いて自分に謝っているのかは羊には全く分からなかった。なぜなら彼女はいじめの主犯グループのうちの一人であり、羊が犯人の濡れ衣を着せられた下着事件の被害者でもあったからだった。扉の向こうにいるのが雷同狼香だと気付いた瞬間、羊の中に沸々と冷たい怒りが沸き起こった。
「帰れよ。雷同の声なんて聞きたくない」
と、吐き捨てるように羊は言った。
扉の向こうにいる狼香は返事が返ってきたことに驚いたのか、しばらくの沈黙があった後、「ごめんね」と言い残して階段を下って行った。
するとすぐに羊の携帯電話に着信が入った。発信元は妹の蝶花だ。
「兄貴さーもうそろそろ学校行けば?一応みんな心配してるみたいだし……つかせっかく来てくれた女の子泣かして帰すってどういう神経してんの?」
「お前には関係ない。大体みんなって誰だよ。知らねえんだよそんな奴。みんな心配してるって、誰も心配してないのと同義だ」
「……あっそ。もういい」
荒々しく通話が切られると同時に、階下から何かを殴りつける鈍い音が響いた。
多分、自分がいじめられた原因はこれなんだろうと薄々羊は感づいていた。あまのじゃく、という言葉ではくくることのできない、病気みたいなもの。いつもうそをついている。そんな感覚が羊にはあった。
羊は五歳の時、家族でいったキャンプ場の川でおぼれたことがあった。両親が気づかないうちに川の深いところまではいってしまい、そのまま下流へと流されたのだった。運よく中流で釣りをしていたおじさんに助けられたが、両親のもとへ戻った後、「どこへ行ってたの?」と怪訝な顔で尋ねる母親に羊は「何でもない」とうそをついたのだった。なぜ自分がその時うそをついたのか、どうして本当のことを話して母親に泣きつかなかったのか、いまだに羊にはわからなかった。
「誰か助けてくれよ……」
泣きそうな声は部屋の空気にとけるようにして消えた。
*
「風見、今日は調理実習でクッキー作ったんだ」
ガサガサとバッグの中を探る音が扉越しに聞こえる。雷同狼香は毎日風見羊の部屋を訪ねるようになっていた。その日学校であったこと、最近のマイブームなど、羊からの返事がなくとも話し続け、一時間ほどしたら帰っていく。そうした狼香の行動が羊には理解できなかった。
だからこそつい言葉がこぼれ落ちてしまった。
「なぁ、雷同。お前って何なの?」
言ってしまった後に慌てて口をふさぐ。会話するつもりじゃなかったのに。少しの沈黙の後、狼香のくぐもった声が扉の向こう側から聞こえた。
「私は鶴……だと思う」
「鶴?」
予想外の返答に羊は目を丸くした。意味が分からなかった。
「まぁ恩返し的な?風見はわかんないと思うけど。あ、クッキーあった!ここ置いとくね」
「あ、ありがとう」しどろもどろにそう返す。
流れている空気が違う。彼女と話していると如実にその違いが分かった。こちら側は冷え切っているというのに、狼香のいる「あちら側」はとても暖かそうに感じた。
「で、風見はオオカミ少年かな」
「俺の話は聞いてない。……でもなんでそう思うわけ」
なんとも得意げなそのもの言いに少しだけ興味をそそられた。ドアの向こう側からクスっと笑う声が聞こえた。
「風見がほんとは優しいってこと、私は知ってるから。優しいからこそ風見がうそをつき続けてるってことも、全部」
「は?俺の何を知ってるつもりになってるんだよ。」
俺をいじめていたお前が。言葉にはしなかったが、心の中で羊は激しく毒づいていた。自分のうわべだけを知ったようにして語られては困る。
しかし狼香はそんな羊の言葉を無視して話を続ける。
「風見さ、学校に行かなくなる一週間くらい前にナンパから女の子助けてたでしょ」
「……」
「私、それ見てたんだ。膝とかガックガクに震えててさ、すごく情けなかった。で、警察呼んだからお前ら覚悟しとけーとかバレバレなウソついてさ……」
「覚えてない」
心当たりはあった。学校帰りに駅前のコンビニ前で同年代くらいの女の子が絡まれていたのを助けたことがある。時期的にも狼香の言っているものと合っている。しかし羊はそんなもの知らないと狼香の話を遮った。その言葉すら無視して狼香は話を続ける。
「ナンパを追い払ったら、名乗るほどのものじゃないとか言ってさっさとどっか行っちゃうしさ、考えられる限り最悪だったなぁアレ。女の子はきっとすごく不安だったと思う」
「だから覚えてないって言ってるだろっ!知らねえよそんなの!」
突然羊が出した大声に、狼香も思わず黙ってしまう。しかし少しの沈黙の後、狼香は声をしぼりだすようにして再び口を開いた。その口調は扉の向こうで荒々しく息をする羊に優しく語り掛ける、穏やかなものだった。
「でもかっこよかった。なんであんなかっこいいやついじめてたんだろうって思うくらい。それで気付いたんだ。風見はむかつくやつなんかじゃなくて……下着を盗むようなキモいやつでもなくて、ただ自分も同じように誰かに助けてほしいんじゃないかって。心の中でずっと、助けてくれ!って風見は叫び続けてたんだって、気づいた。」
そう言って狼香は、羊から見えないと分かっていたが笑顔を浮かべた。
「風見、ごめん。気づくのに三か月もかかっちゃった。でも、でもね、今度は私が風見を助けるから。だから……」
狼香の声に嗚咽が混じり始める。羊は扉一枚隔てた先から聞こえる狼香の声を呆然と聞いていた。
今まで自分のために泣いてくれる人がいただろうか。思えば自分は、自分から誰かに歩み寄ることをしたことがあっただろうか。ただ今の今まで待っていただけだったのではないか。そう気づいてしまった途端、雷同狼香が今流している涙はこれまでの自分の人生の中で最も意味があることのように、羊には思えた。
泣きじゃくりながら、それでも狼香は必死に言葉を絞り出す。
「だからここから出てきて……帰ってきてよ、風見……」
狼香が切実にそう願っていることが、羊にはありありと分かった。
「……俺は帰らない。帰ってくれ雷同、どうせ罰ゲームか何かで来てるんだろ?俺のことをこけにするのもいい加減にしてくれ」
と、震えそうになる声を必死に押さえつけながら羊は淡々と狼香を罵倒した。狼香がハッと息をのむ。
「毎日家まで来て気持ちわりぃんだよ、聞いてもいないことぺらぺらしゃべりやがって」
「違う、私はただ」
「同情はごめんだ。自分の罪悪感のためだけに俺に会いに来るのはやめてくれ」
狼香の嗚咽が大きくなる。そして羊はとどめの一言を狼香に告げた。
「お前なんて大嫌いなんだ」
*
泣きながら狼香が階段を下りていく音が聞こえた。玄関の扉がばたん、と大きな音を立てて閉まるのを聞き届けると、羊は白い息を静かに吐き出した。
「これでよかった」
誰もいない部屋で羊はひとり呟いた。狼香はおそらく二度と来ない。だがそれでいいのだと羊は強く思った。彼女が自分を助けたばかりにいじめの標的となるよりは、引きこもりの自分が嫌われる方がずっといい。
いつの間にかカーテンから差し込む西日はなくなり、明かりをつけていない羊の部屋は薄暗くなっていた。もうすぐ両親が帰ってきていつも通り自分のいない「風見家」が始まるのだろう。これまでと何ら変わりない。ただ今日、一人の少女をまた救うことができたのだからそれだけで羊は満足だった。
羊は立ち上がると背もたれ代わりにしていたドアを引っ張った。冷たいフローリングの廊下には茶色い紙袋がぽつんと一つだけ置いてあった。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「メッセージカード?」
紙袋には折りたたまれて中が見えないようになっている、簡素なメッセージカードがセロテープで張り付けられていた。表面には「風見羊くんへ」と書かれている。
中を開くとそこには書きなぐったような荒い文字で「うそつき」とだけ書かれていた。
五千字の縛りで短編小説を書いてみました。
粗が目立つので供養です。