ミドルセックスに生まれて
※自殺に関する描写があります。不安感、不快感をおぼえる方はご注意ください。
「生まれはミドルセックスなの」
プラスチック製のグラスに入った白ワインで唇を軽く濡らしてから、そのひとは言った。
「でもね、こちらの人には「ロンドン郊外です」って言うことにしてるの。ミドルセックスなんて、彼らに聞こえるのは「セックス」の部分だけなんだもの。そういえば、近畿出身の日本人のお友達が同じこと言ってたわね。英語圏の人にはKinky(変態)って聞こえちゃうって」
平日の午後三時、遅めの昼食を摂るために立ち寄ったフードコートで本を読みながらサンドイッチにかぶりついていたら、隣に座っていた白人の女性に声をかけられた。彼女だって普段なら、都心のターミナル駅で見ず知らずの若い男に声をかけたりなんかしないだろう。きっかけのひとつはおそらく、自分が開いていたSF小説のペーパーバッグだ。少なくとも、英語を理解できる人間だと思ったから。もうひとつは。
「実は今日ね、継子の命日なの」
アジアで生まれ育ったものには現実離れしてさえ見えるような美しいペールブルーの目を持つその人は、年々白さが増してきているであろう金髪をこざっぱりとまとめ、深い紺色のカットソーを着ていた。若い頃はきっと、とても美しいひとだったのだろうな、と思う。
「あなた、いまおいくつ?」
「二十三です」
「あぁ、やっぱり。ちょうどあの子が亡くなったときと同い年くらいだわ……あ、ごめんなさいね、いきなり」
いいえ、と軽く微笑む。今日の自分はなんだか、こんな奇妙な偶然を楽しみたいような気分だった。
「ええ、夫は日本人なの。日系企業のロンドン支社で働いているときに出会って。日本人の前の奥さんとは子供が二人いて……親権は奥さんのほうだったから、一緒に暮らしたことはなかったんだけど。でも週末に、よくうちにも泊まりに来ていてね。金曜日の学校帰りに、おなかすいたー!って騒ぎながらやってきて。エッグ&チップスを作ってあげるとうんと喜んだ。厚切りのベーコンも焼いてつけたげて。すごいのよ、掃除機に吸い込まれるみたいになくなってくの」
話しながら、彼女はプラスチックのグラスのステムを指でこすっていた。
「……いい子たちだった。特に下の子は、ほんとに優しくて穏やかで……ちょっとあなたに雰囲気が似てたかも、賢そうな感じで。でもきっと、繊細すぎたのね。二十三のときに、自分で自分を殺してしまった」
少しだけ、ほんの少しだけいたたまれないような気持ちになって、冷めきったコーヒーをひとくち流し込む。
「きっと寂しかったのね。お母さんもなんというか……話を聞いているかぎり、あまり子供たちを省みるようなひとではなかったみたいだし。再婚もしてたしね。時々、日本の親子はずいぶんドライだなぁ、って思ってしまうの。ハグしたり、愛してるって言ったり……じっくり話したりしない家族が普通だって聞くし。もちろん文化の違いってわかってるけど、そういう触れ合いから愛って伝わるって思うのよ。あの子はきっと、自分が愛されてるって感じることができなくて、あんなことになっちゃったんだわ」
昨日、本当につい昨夜、ベッドのヘッドボードにベルトを引っ掛けて首をつろうとした自分は、それに対してなんと言っていいのかわからなかった。わからなかったけど、あぁ、この人も「そういう風」になったことがないんだなぁ、と心の中で密かに思った。
大学で唯一仲良くなった女の子は、KーPOPファンだった。あるとき彼女の推しが突然、自殺してしまった。ニュースを聞いた夜、なぐさめるために行った深夜のファミレスで、ボロボロと絶え間ない涙を流しながらずっと彼女は「どうして」と言っていた。事務所とうまくいっていなかったから?SNSでの誹謗中傷のせい?そういえば付き合ってるって噂のあったあの女優はろくでもなさそう。でもどうして、生きていればなんとでもなるのに。どうして。
それを聞きながら、彼女と自分の見ている世界の間には、目に見えない、けれどとんでもなく大きな「線」があるんだと実感した。だって自分は「どうして」なんて思わない。この世界を置いていきたくなるのに、大きな原因なんて、決定的な理由なんて必要ないかもしれないって、よくわかっているから。
それはほとんど発作のようなものなのだ。たとえば何もかもがうまく行っているように見えたとしても、それは突然、天災みたいな感じでやってくる。かつてそのうちの一回、本当にギリギリのところまで行ってしまったところを運悪く(良く?)発見されて救急車で運ばれたとき、母は泣きながらやっぱり「どうして」と繰り返した。あなたなんて、何にも嫌になるようなことないじゃない。お金にも恵まれてて、いい学校に行って、友達もいて、頭も見た目も悪くなくて、それでなんで死にたいようなことがあるの。世の中にはもっとずっと大変な人たちがいるのよ。それなのになんで、こんなことになっちゃうの。お母さんの育て方が何か間違ってた?
ちがうよ、って心の底から思った。お母さんのせいじゃない。お母さんはちゃんと愛情を持って育ててくれた。もちろん人間は誰しも完璧じゃないけれど、悪い母親だと言われるようなことはひとつもなかった。もちろんお父さんだってそうだ。恵まれてる、本当に。ちょっと人と違っても迫害されたりあからさまに拒絶されたりすることもなかった自分の人生は、多分できすぎなくらい恵まれている。
それでも、たまにちょっとしたことが……たとえば何かのアンケートや申込書の性別をチェックする欄に「男性」と「女性」しかないこととか、「男だから」「女だから」なんて言う人達を軽蔑しているのに、気がつくと自分も無意識にそう口にしているのに気がついて自分自身にひどく失望することとか、どんなに自分が幸せだと感じる人生を手に入れたとしても、皆がお手本だと思うような幸せをどうやっても手に入れられない自分は、きっと一生どこか人に見下されるんだ、と頭の隅で知っていることとか。そういうちょっとしたことが澱になって溜まっていって、あぁもういいやめんどくさい、こんな手にあまる自分は手放したい、と思うときが、来てしまう。そしてそれは誰のせいでも何のせいでもない。
もちろん、明確なきっかけや理由があって死を選ぶ人もいるだろう。けれど中には自分のように、なんとなくずっとこの世界と合わない肌を持っているような気がして、それが耐えられないくらいの摩擦になってしまう場合も間違いなくある。その人の見ていた世界は、そこに溜まっていたかもしれない澱は、他人から見たらなんでもないものかもしれない。人間というのは無数の複雑な要素がからまってできた、完成図もピースが揃っているかもわからないジズソーパズルのようなもので、きっと本人ですらどんな絵だったかなんて見えないまま終わる。だから「どうして」なんて、去った人の人生をほじくり返してこねくり回したところで、何もわかりはしないのだ。
彼女の話はいつの間にか全然違う話題(主に日本の政治家に対する文句だ)に移っていた。それを適当に聞き流しながら、この人の継子に実際会えてたらどうだったろうな、と考えてもしょうがないことを考える。出会えなくて残念だったな、とも。この世界を去った人たちに対してできるのは、偶然に見ることのできたその人のほんの一面を、尊ぶことだけだ。
「あらやだ、もうこんな時間。そろそろ電車に乗らないと。住まいは伊豆のほうなんだけれど、一月に一度はこちらに来るから、その時はここで一杯飲むことにしているの。もしかしたらまた会えるかもしれないわね」
そうですね、と返しながらも、なんとなくもうこのフードコートを利用することはないかもしれないな、と思った。
「読書の邪魔をしちゃってごめんなさい。でもお話しできてとっても楽しかった」
「いえ、ひとりで食べるよりも楽しかったです。ありがとうございました」
これは本心だった。ここで彼女の話を聞いたのも、またひとつの必然的な偶然のような気がした。
「お気をつけて」
彼女は南国の海のような瞳を細めると、洋ナシ型の体を揺らして去っていった。その姿が見えなくなるまで見送ってから、読みかけの本をもう一度開いた。