人魚姫の夢
紺碧の海を人魚のように泳ぐ君を見てみたい。
それは君の夢であり俺の夢でもある。
車椅子の上から渇望するように水面に手を伸ばした君を、止めることなど俺にはできなくて。
君の身体が水飛沫を立てて太陽の日差しに煌めく水面に滑り落ちた時、俺は自由に泳ぎ回る君の尾鰭になると決めた。
陸で生きられない人魚姫は、恋をしたら海に還るのか?
それほど渇望するのなら俺に恋をすればいいのに。
君は俺の心を決して受け取ろうとしない。
君は泡になりたいんだろう。すべての記憶を忘れて、痛みと涙を泡に変えて流れていきたいんだ。
だけどそんなことはさせない。
俺は君の王子様にはなれないんだろう。
君は決して俺に愛を囁きはしないだろう。
それでも。それでも。
枯れた涙を潤して、失くした尾鰭を取り戻して君を自由にしてあげたいと願う。
地上で自由に動き回る尾鰭を失った君は、人の優しさを恐れるようになった。
「好きでやっている」といくら君に語りかけても、「ごめんね」と返す。
君は分かっていない。
君が行きたい場所に行きたい時に、その力になれることがどれほど俺にとって幸福なことなのか。
君の笑顔が好きで。君の声が好きで。
泳げなくなった人魚姫はどうなるんだろう?
悲しい未来しか待っていないのか?
そんなことはないだろう。
君がどれほど否定しようと、どれほど信じなくても、俺が肯定してやる。俺が信じさせてやる。
君の生きる場所は陸地なんだと教えてやる。
そのためにできることはなんでもしてやろう。
君が泳ぐ俺を見たいといえば、プールサイドに君を連れていこう。
君は自分の夢を俺に重ねて、青空のもと跳ねる水飛沫を、気泡に包まれながら泳ぐ俺を、燦燦と差し込む日差しの中あきもせずに見ていた。
『わたしも泳ぎたいの』
ずっと君の声が聴こえてくるようだった。
決して言葉に出さない君の渇望。
言葉に出してしまったら、叶わない現実に打ちのめされてしまうから、君はその言葉を瞳に乗せる。
でも俺にはその声が聴こえていたから。
無数の星と月が水面に映るあの夜。
俺は君を誰もいないプールに連れ出した。
差し伸ばした手を君は驚いたように見つめていたけど、泣きながら笑って手を握り返した。
君を抱えてゆっくりと水に浸かると、君は生き返ったように表情を輝かせた。それを見た俺の心がどれほど幸福に包まれたか、君は知らないだろう。
君を抱きしめる俺に身を任せて、月の光を浴びながら水中に漂って夜空を見上げる君は、本当に人魚姫のように美しい横顔をしていた。
だから俺はもっと君の夢に近付きたいと思った。
地元から遠く離れた紺碧の海で、君の分のボンベを背負って。君を腕の中に抱いて。
俺たちは海の中へもぐった。
君が渇望した海はどこまでも蒼く輝いていて、色鮮やかな魚と踊るように揺れる桃色のサンゴを飽きるまで見つめていた君は、ゴーグルの奥の瞳を柔らかく細めて、海中でホワイトボードに文字を綴った。
『わたし、今とても幸せ』
涙があふれたよ。だけど君は気がつかなかっただろう。俺たちを包む無数の泡に涙は掻き消えてしまったから。
夕陽が紅く海面を染めた頃、離れがたいように岩肌に身を委ねて海に浮かぶ君が、俺にとびっきりの笑顔を向けた。
「好きです」
ずっとそう伝えるのが本当の夢だったと、茜さす世界で君は笑いながらそう言ったんだ。
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