『雪と娘』
「おかあさん! おはなー!」
舞は黄色いタンポポを見つけ、嬉しそうに差し出した。
けれど、母――雪は、どこか驚いたような顔をして受け取らなかった。
(どうして……?)
舞は不安げに問いかける。
「おかあさん、タンポポきらい?」
春の陽光がまぶしくて、母の顔がよく見えない。
繋がれた手はどこか冷たくて、まるでいつもの優しいお母さんじゃないみたいだった。
「……好きよ。ありがとう」
返ってきた声も、やっぱり冷たかった。
舞はそれでも笑顔を崩さず、小さな手で母の手を強く握る。
(あったかくなれ……)
願うように、ぎゅっと。
「ねえ、おかあさん……わたしが産まれて、うれしかった?」
かすれそうな声だった。
けれど、その言葉に込めた想いは、決して小さくない。
「わたしね、おかあさんの声が、だいすきなの」
震える母の手を握ったまま、続けた。
「かわいい……かわいい……わたしのあかちゃん。
はやく、はやく……でてきてね……」
懐かしい記憶の底から引っ張り出した、母の子守唄。
本当は覚えてるはずのないその言葉を、舞は今でも口ずさめる。
「……っ!」
母の肩が、小さく震えた。
舞は微笑みながら言った。
「おかあさんのこどもで、わたしね、すっごくしあわせなの!」
その言葉は、真っすぐだった。飾らない、純粋な本心。
そして、母は顔を覆って泣いた。
絵本でしか知らなかった“涙”が、目の前で零れ落ちていくのを、舞は静かに見ていた。
*
「……カット」
張り詰めていた空気を断ち切るように、声が響いた。
けれど、誰も動かない。
静まり返ったスタジオの中で、稲田孝作だけが無言のまま立っていた。
あの飄々とした笑みは消え、代わりに強い眼差しを投げていた。
「……次のシーン、すぐ行くぞ」
「っ、ちょ、待ってください! 泉さんのメイク直さないと……!」
スタイリストが駆け寄り、崩れた泉さゆりを支える。
それでも稲田は首を横に振る。
「ダメだ。このまま続ける」
誰もが理解していた。
この感情の連鎖を、今断ち切ってはいけない、と。
ベンチに腰掛けた舞――はなは、手にしたタンポポを見つめていた。
風にしんなりと揺れるそれは、もう最初の鮮やかさを失っていたけれど、心は不思議と穏やかだった。
「はなちゃん……?」
加藤俊平の声に、はなはゆっくり顔を上げた。
(あれ……おとうさん? もう仕事、終わったの?)
ぼんやりと、まだ“舞”のままの意識が残っている。
少しだけ首を傾げ、にこっと笑って言った。
「おとうさん、はやくかえってきてね」
俊平は、何も言えずに頷いた。
*
「それじゃあ、次。問題のシーンだ」
スタジオの片隅で、スタッフたちの緊張した声が囁かれる。
「……台本なしで五分間、長回しって……子供に無茶させすぎじゃないか?」
「稲田さん、ほんとに何考えてるんだよ……」
「でもさ……あの子、なんかすごくないか?」
その言葉に、誰も否定しなかった。
*
タンポポを握りしめ、はなはふと背後に気配を感じた。
「……嬢ちゃん」
振り返れば、稲田孝作が腕を組んで立っていた。
無精ひげの下から、薄く笑って呟く。
「ちょっとだけ、期待してやるよ」
丸眼鏡の奥の目が、きらりと光った。
*
「舞、行けますか?」
サングラスをかけた助監督の問いかけに、はなは元気よく「はいっ!」と答えた。
その声を受けて、泉さゆり――雪も、目を伏せたまま静かに頷いた。
「行けます」
その表情には、もはや迷いはなかった。
いつもの優しいおかあさんの声じゃなくて、はっきりとしていてかっこいい声のおかあさん。
初めて見る姿に、少し嬉しくなる。
「こどもちゃん、君、名前は?」
サングラスのおじさんが、今度はわたしに話しかけてきた。
真っ直ぐと向けられるおじさんの目にたじろいで、おかあさんの背中に隠れる。
おかあさんは驚いた顔をしたけれど、わたしはおかあさんの服を握っておじさんを睨みつける。
「おかあさんが、知らないひとには、なまえをおしえちゃいけないって!」
そう言うと、おじさんは目を見開いておかあさんを見た。
おかあさんも、驚いた顔をしていたけれど、くすっと笑って、わたしの頭を撫でてくれた。
「この子の名前は、『舞』です。…舞、ご挨拶して。」
おかあさんが、『いつもの』優しい笑顔でわたしを見つめた。
なんだか、おかあさんの笑顔を久しぶりに見た気がして、わたしは思わず笑顔になってしまう。
おかあさんに言われた通り、おじさんに挨拶するため元気よくおじさんに向き直った。
「おじさん!わたしね、舞っていうの!!よろしくね!」
☆
アクションッ!!
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「おかあさん!きょうはおとうさん早くかえってくるんでしょう?」
おかあさんの暖かい手を繋ぎながら信号を渡る。
「ええ、だからお父さんの好きなシチューを作って待ってましょうね。」
おかあさんが嬉しそうに笑ってるから、わたしも嬉しくて笑っちゃう。
しあわせだなぁ。
手を繋いでる方とは逆の手で握っていたタンポポをおかあさんに見せる様に掲げる。
「タンポポ!おとうさんにみせるんだぁ!」
おかあさんはにっこり笑って頭を撫でてくれた。嬉しい。
「お父さんも喜ぶわね、舞は本当にやさしい子」
だいすきよ。
そう言ったおかあさんの顔は、しあわせに満ち溢れていて、幸せで幸せでたまらなかった。
わたしもおかあさんだいすき!
そう伝えようと口を開いた時。
ブワッ!!
強い悪戯な風が、わたしのタンポポをさらって行ってしまったの。
「あっ!わたしのタンポポ!」
後ろに飛ばされたタンポポは、さっき歩いてきた横断歩道へと誘う。
おとうさんに、まだ見せてない!捕まえなきゃ!
そう思って、とっさに駆け出す。
「っ!舞!!」
おかあさんがわたしの名前を呼ぶけど、ごめんね止まれないの!
タンポポはふわふわと風に拐われてどんなに手を伸ばしても届かない。
何度も何度も手を伸ばす。
あともう少し!もう少しで掴めるのに!
もういっ…ぽ!!
パシッ!大きく飛び跳ねて手を伸ばすと、風に遊ばれていたタンポポはようやく手に収まった。
「やった!!」
捕まえた!嬉しくて、思わず笑っちゃった。
その時、
パァァァァア!!!!
耳につんざくクラクションの音。
「え?」
わたしの目の前で迫る車。
あれ、なんで…?
大きな車の影が、わたしを飲み込もうとしている。
スローモーションの様にわたしの世界が遅くなる。
だいすきなおかあさんが怖い顔でわたしに手を伸ばしてる。
どうして?
「___舞っ!!
!!」
ぎゅっと目を瞑ると、おかあさんの聞いたことのない悲痛な声がして、そのまま暖かい掌が、わたしを押し除けた。
ドンッ!!
鈍く低い大きな音が聞こえた。
目を瞑る瞬間、最後に見えたおかあさんの顔は、今までに見たことがない位、怖い顔をしていたの。
「っ、いたぁ…。」
気づけば、地面に転がっていた。
突き飛ばされた体は、簡単に飛ばされて、いろんなところをぶつけてしまった。
ヒリヒリと痛む膝小僧と、掌。
ゆっくりと目を開ければ、血が滲む膝小僧。
初めての大きな痛みに視界がぼやけるが、おとうさんと『泣かない』って約束したから。泣かないの。
それに、おかあさんが頭を撫でてくれれば、こんな痛みへっちゃら!
ね!おかあさん!
「あれ、おか、あさん」
目を擦って、おかあさんがいた場所を見ても、おかあさんがいない。
あれ?どこ行っちゃったの?
あるのは血溜まりと、地面に残るタイヤの跡。
あれ?おかあさん、わたしのこと置いてかえっちゃったの?
「おかー、あさん」
喉が痛くて声が出ないよ
おかあさん。
おかあさぁん
おかあさんが、どこにも見当たらない。
「どこ、どこぉ…?」
ぼやける視界
泣いちゃダメ。
目に入る血溜まり
血のついて引きずられた様な跡
足を引きずりながら、その跡を追う。
目に入ったのは、赤いシャツ。
あ、違う、おかあさんのシャツは白いもの
赤い真珠が辺りに散乱している
おかあさんの真珠のネックレスは真っ白で綺麗、だからコレじゃない。
真っ赤に染まった肌。
おかあさんの肌は白くてすべすべ。だからちがう。
赤く染まったおかあさん
違う。
血だらけのおかあさん
違う
目を閉じた優しいおかあさん
ちがう
おかあさん
「っぁ、ぁぁあ、っ、お、か–さ、」
真っ赤なタンポポが、おかあさんの側に散っていた。
「っぁ!…ぁーっ!」
引き攣った声にならない悲鳴が喉の奥から這い出てくる。
目が熱い、焼ける様に熱い
目玉が溶けてしまいそうなくらい熱いのは、なんで?
「おか゛あ、さん。
おが゛ぁー、ざん!!」
ボロボロと瞳から落ちる水。
鼻水が止まらない
目が溶けそう
心臓が焼ける様に痛い
おかあさんを揺すっても、呼んでも、おかあさんは起きない。
「おね、が、い。おか゛あさん…おきて、おきてぇ」
だいすきなおかあさん。
どうして、おきないの?
「おかぁ、さん?」
ぼろっ、大きな滴が溢れて、おかあさんの肌に落ちた。
握った血だらけの手は冷たくて、わたしは初めて『死』を感じた。
「っぁ゛ぁ゛ぁあーーー!!あぁぁぁぁぁぁあ!!!」
そんなはずない。
こんなの本当じゃない。
発狂した、頭を掻き毟って、ボロボロと目玉を溶かして、何度も何度も叫んだ。
おかあさんの頭を抱きしめて、鼻水と目からの水でぐちゃぐちゃのわたしの顔を空に向け、神様に届く様にひたすら叫んだ。
しあわせだったのに、世界で一番、わたしがしあわせだったのに。
行かないで、行かないで、おかあさん
目を覚まして。
わたしを…、お父さんを…
「…ぉぃて、か、なぃで」
おかあさんの手は、冷たいままだった。
カチンっ!
プラスチック同士がぶつかった音がした。
______________
「…書き直しだ。」
「え?」
「台本、最後のシーン、全部書き直す。」
芸能コソコソ話!!
泉さゆりは、流れてしまった子供に、女の子だったら『舞』と名付けようとしてたらしいよ!
 




