才能は呪いを超えて
みなさん、東雲しのぶを覚えていますか?
これが本当の最後です、今まで長い間ありがとうございました!
夕方の空は、どこか懐かしい匂いがした。
はなは、ふと気がつくとその場所に立っていた。
⸻
夕暮れの空は、まるで大きな絵本の表紙みたいだった。
ページの角は少しくたびれて、それでも色は鮮やかで、温かかった。
昔よりもずっと小さく見える滑り台。ギシギシと風に揺れるブランコ。
けれどこの場所には確かに、あの日の“わたし”がいた。
誰よりも仕事が好きで、誰よりも空気を読んで、誰よりも早く大人になってしまった、“あの子”が。
ブランコに腰をかけて、そっと宙を見上げた。
空は少しずつ、昼と夜の境目をなくしていく。風が頬をなでると、思い出たちが、ひとつずつ胸に灯っていった。
――もう、大丈夫だ。
そんな気がした。
「ここには、もう“嫌われっ子の子役”はいないよ」
ふっと、笑った。
それは照れくさいような、けれど誇らしいような微笑みだった。
あんなに努力して、あんなに笑って、
あんなに泣いて、あんなに嫌われて、
それでも、やっぱり、
わたしは――ちゃんと、ひとつの人生を生きた。
誰かのためじゃなくて、
もうすこし、自分のために生きていいって、ようやく思えた。
「だからね、これからは……」
声が少し震えた。けれど、その目には確かな光があった。
「今度こそ、“自分の名前”で笑うんだ」
須藤には、まだ言っていない。
でも、言おうと思ってる。ちゃんと、自分の言葉で。
「やっぱりもう一度、演じたいです」って。
今度はあの子役の名前じゃなくて、自分自身の名前で。
夕焼けの空に向かって、小さく手を振る。
あの日のわたしに、ありがとうって言いながら。
もう、過去に縛られることも、愛されようと無理をすることもない。
だって――この空の下にいるのは、ちゃんと選んで、ちゃんと立っている、「いまのわたし」だから。
はなは顔を上げる
そして、1番会いたかった人物が目の前にいた
――お父さん……?
名前を呼ぶ前に、父がこちらを振り返った。
目が合った瞬間、はなはなぜだか足が震えた。
「……はなか」
父は、驚いたように、それでもどこか懐かしそうに声をかけてきた。
「なんで……こんなところに」
「わかんない……ただ、来たくなっただけ」
そう言った自分の声が震えていたのに気づいて、はなは自分でも驚いた。
父がベンチに座る。
手を伸ばして、ベンチの隣をぽんぽんと叩いた。
「座るか」
はなは黙ってうなずき、父の隣に腰を下ろした。
途端に、胸の奥にしまっていたものが溢れそうになった。
「ねぇ……あのときの話、覚えてる? うちで……家族で話した夜のこと」
「……ああ」
父の返事は短かったけれど、その声には確かに何かが宿っていた。
はなは、小さな声で続けた。
「わたし、あのあと……お父さんに、“見てた”って言ってもらえたの、すごく嬉しかった」
「……あれが、俺の精一杯だったんだ」
「ううん……」
はなは、言葉を詰まらせながら、父の肩に小さく身を寄せた。
「ほんとは……ずっと、ぎゅってしてほしかった。あのときみたいに……泣いたら、頭なでてくれたでしょ……」
はなは、期待した…何度も裏切られたが、今回は大丈夫という自信があった
父の手が、ためらうように、けれどゆっくりとはなの髪に触れた。
その瞬間、はなの小さな体が震え、堰を切ったように涙があふれた。
(やっと…っ、やっとだ)
「う゛あっ、あっ、あああああん……!」
声にならない声で、子どもみたいに泣きじゃくる。
「ずっとずっと……寂しかったの……!
見てほしかったの……わたしのこと、ちゃんと見てほしかったの……!
頑張ったのに……いっぱい頑張ったのに……わたしのこと、誰も褒めてくれなかった……!」
父の胸にすがって、ぐちゃぐちゃに泣いた。
鼻水も涙もぐちゃぐちゃで、でも、それを恥ずかしいなんて思わなかった。
父は何も言わず、ただ肩を抱いてくれていた。
「……ごめんな」
その低い声が、何より優しくて、あたたかかった。
「ほんとうは……俺が一番、はなのこと見てたよ。ずっと……見てた」
「ほんとに……?」
「本当だ。お前が、どれだけ小さい肩で頑張ってきたか……。
全部、言葉にできなかっただけなんだ」
「……もう遅いよ、バカ……」
はなは泣き笑いで呟き、ぐいと父のシャツを掴んだ。
「でも……会えてよかった。言ってもらえて……よかった……」
「俺も、だよ」
二人は、夕暮れの中でしばらく抱き合っていた。
まるで、何年分もの想いを一気に交わすかのように――
──
帰り道、並んで歩くその距離は、もう家族だったころよりも、近かった。
「……バカみたいだね」
「何が?」
「最後にこんなふうに会って、こんなふうに仲直りしてさ……まるで、ドラマじゃん」
「はなは主役だからな」
「ふふっ、そうだった」
そんなふうに笑いあった、ほんの数歩先の横断歩道で――
信号は青。
周囲の人々がゆっくりと横断を始めたそのとき。
――ブレーキ音。
金属をひき裂くような、耳を裂く「キーッ!!」という音が、世界を貫いた。
「……?」
はなが反射的に顔を上げる。
左手から迫ってくる“何か”があった。
ヘッドライトが、夜の街を白く焼く。
スピードを落としきれていない大型トラックが、信号無視のまま突っ込んできていた。
運転席の中で、ドライバーが恐怖に顔を歪めているのが見えた。
タイヤがアスファルトを裂く。焦げたゴムの臭いが空気に混ざる。
「――はな、危ないっ!」
父の声が、はなの耳を貫いた次の瞬間。
ごうっ、と風が鳴った。
重い衝撃音と同時に、はなの体は、強く、強く抱きしめられていた。
視界の端で、トラックのフロントが跳ね上がった。
鋼鉄の塊が、猛獣のような音を立てて突っ込んでくる。
運転手が必死にハンドルを切っていた。
だが、それはもう何も間に合わなかった。
ガラスが砕け、フロントバンパーが地面に火花を散らす。
空気が爆ぜ、世界が白く爆発するような音がした。
鉄の咆哮。悲鳴。
車体が二人を巻き込んだ瞬間――すべてが、空気のなかで止まった。
はなは、父の胸にしがみついていた。
目の前には、あたたかいシャツの生地。
鼓動が――かすかに、胸の奥で響いていた。
その温度だけが、現実だった。
「あったかい……」
声にならないほどかすれた声が、口からこぼれた。
激突の瞬間の衝撃はすでに過ぎ、世界はゆっくりと遠ざかっていく。
焦げたタイヤの匂い。
遠くの誰かの叫び声。
空に残るヘッドライトの残像。
それら全部が、薄い水膜を通したようにぼやけていく。
でも、父のぬくもりだけは――どこにも行かなかった。
「おとうさん……だいすき……」
そう呟いた声は、もう誰にも届かなくてもよかった。
この胸の中でだけ、永遠に響いていれば、それでよかった。
そして、すべてが――やさしく、静かに、光に溶けていった。
⭐︎
⸻
――白い光が、頬を撫でていた。
うっすらと目を開けると、天井があった。木の模様の入った、どこか懐かしい天井。
布団のあたたかさが、肌にじんわりと残っている。
――長い、夢を見ていた気がした。
あまりにも鮮明で、切なくて、涙が出そうになるような夢。
でも、細部はどうしても思い出せない。
「しのぶー! 起きなさーい!」
階下から聞こえてきたのは、父の声だった。優しく、どこか焦ったような、でも懐かしい呼び方。
「あっ……!」
しのぶはガバッと起き上がった。
今日は、大事な日だった気がする。そう、たしか――子役のオーディションがあるんだ。
「しのぶ、早くしなさい! 朝ごはん冷めちゃうわよ!」
母の声も、いつものように明るく響く。
階段の向こうからは、兄の笑い声と食器の音が聞こえた。
家族がいる。
あたたかくて、当たり前のような朝の光景。
でも、なぜか胸の奥が、ふっと熱くなる。
「……あたたかい……」
小さく呟いたその声は、自分でも驚くほど切実だった。
その感覚は、まるで“戻ってきた”ような、そんな不思議な安堵を連れてくる。
洗面台の鏡を覗き込む。
そこには、大きな瞳と、少し寝癖のついた髪の女の子が映っていた。
まだあどけなさの残る顔。それでもその奥に――自分でも説明のつかないような静かな決意が宿っている。
「……大丈夫。私には、才能があるから」
誰に言われたのかも思い出せない。
けれど、その言葉は何度も、何度も、胸の奥で反響していた。
「“あの人”みたいになりたいんだ」
食卓に並ぶトーストとスープの香り。
兄が「あ、起きたー!」と笑って、椅子を引く音。
母がオーディション用の服をハンガーにかけて待っている。
そして――父が言った。
「しのぶ、今日はお前の晴れ舞台だな。応援してるぞ。『あの伝説の子役・道野はな』みたいに、なれるといいな」
その名前に、心がきゅっと締めつけられた。
――知っている。
どこかで、その名前を……たしかに、知っている気がする。
でも、誰だったのかは、もうわからない。
なのに、涙が出そうになった。
「……うん。わたし、がんばる!」
しのぶは、にこっと笑った。
幸せな、あたたかい一日の始まりだった。
窓の外には、きらきらと朝日が差し込んでいる。
その光は、まるで「おかえり」と言っているかのように、彼女を包んでいた。
もう、寂しくなんかない。
「わたしは、東雲しのぶ…わたしは…ーーー」
最後のしのぶの呟きは、誰にも聞こえはしなかったが、優しい風がしのぶの頭をなで、空へと溶けた
「いってきます!!」
しのぶは、自分の足で玄関に向かって歩き出した。
そして扉を開ける。――新しい世界が、まぶしく広がっていた。
読者の皆さまへ
ここまで、はなちゃんの物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
彼女の小さな背中がどれほどの痛みを抱えていたか、どれだけの孤独と戦っていたか、皆さまと一緒に感じ、共に涙し、時に希望を見つける旅をさせていただけたこと、私にとって何よりも宝物です。
はなちゃんは決して平坦な道を歩んだわけではありません。傷つき、誰にも言えない想いを抱えながら、それでも強く、懸命に生きました。その彼女の姿は、私たちが忘れかけていた「強さ」と「優しさ」を教えてくれたと思っています。
皆さまが彼女の人生を見守り、時には心を痛め、時には微笑んでくださったことが、何よりの励みでした。はなちゃんの輝きは、皆さまのおかげでより一層強く、美しくなりました。
これからも、はなちゃんのように心に響く、誰かの人生に寄り添う物語を届けていきたいと思います。どうか、またどこかでお会いできることを心から願っております。
本当に、心から、ありがとうございました。
そして、最後に…
あなたの感じたこと、思ったことをぜひ聞かせてください。
最後にコメントをいただけたら、私はそれだけで救われる気がします。




