最後の撮影
朝露に濡れた土を踏む音が、ひまわり畑に静かに響いていた。
まだ空は白んでおらず、鳥の声さえ遠慮がちに聞こえる。
はなは、用意された黄色いワンピースに着替え、
麦わら帽子のリボンをそっと結び直す。
「寒くない?」
メイク担当が上着を差し出すが、はなは小さく首を横に振った。
「大丈夫です」
笑顔は、柔らかく。
けれど、その笑みの奥には、誰にも触れられない決意があった。
「じゃあ本番いきます。ロールカメラ……スタート!」
監督の声が響いた瞬間、
はなは、ひまわり畑の真ん中で、ゆっくりと回り始めた。
くるくると、スカートの裾を翻しながら。
麦わら帽子を押さえ、顔を空に向けて、ぱあっと笑う。
――太陽みたいに。
それは、どこから見ても”無邪気”で、“幸福そのもの”にしか見えなかった。
けれど。
胸がどくどくと熱い
目頭がカッと熱くなる
(羨ましかったんだ)
胸の奥で、小さな声が響く。
(あの子の、あの笑顔が)
眉間に皺がよりそうだったが、笑って誤魔化す
思い出すのは――
“兄”だった、ユズルの幼い頃の姿。
太陽の下で、泥だらけになって笑っていた、あの頃の彼。
あんなふうに、無垢に、無防備に、笑えたら。
誰かの許しを乞うでもなく、
誰かに怯えるでもなく、
ただ、「生きていて楽しい」と言えるような、笑顔。
――はなには、一度もなかった。
だから、演じている。
でも、それは“演技”ではなく、“願望”の延長だった。
こんなふうになりたい。
こんなふうに笑ってみたい。
叶わなかった過去に、小さな手で手を伸ばすように。
(ユズル、わたし、あなたともっと話してみたかった)
ユズルの顔を思い出す
小さい頃のユズル、大きくなったユズル
あなたが苦しんでたこと知ってたよ
わたしに申し訳ないって思ってたのも知ってる
あなたも、“可哀想な子”だったのを…知ってるから
だから、今回は…幸せに生きて欲しいッ
はなは、ぎゅっと自分を抱きしめた…
まるで、ここにはいない“ユズル”を抱きしめる気持ちで、はなは微笑んだ
ひまわりに囲まれたその中心で、
はなは、ひとり“幸せのフリ”をした。
「カット!」
スタッフが小さく拍手をする。
だが、はなはすぐには笑いを引っ込めず、
しばらく空を見上げたまま、風の中に佇んでいた。
(……よし)
胸の奥で、自分にだけ聞こえる声で呟く。
次のシーンは病室。
ウィッグで髪を抜けたように見せ、
体は点滴に繋がれ、顔色も悪く、唇は青い。
ここからは、笑ってはいけない。
「お願いします」
自分でそう言って、ベッドに横たわった。
心の奥にいる“あの子”が、見ている気がした。
ひまわりの中で笑っていた、かつてのユズル。
そして今は――ベッドの上で、命を繋がれている彼。
(伝わるかな)
目を閉じて、想像する。
臓器提供を待つ“誰か”。
それを知らない“誰か”。
そして、かつての自分のように、置き去りにされた“誰か”。
お母さんが、ユズルを愛していた気持ちは本当だから、最後にお母さんに、残したい
“ユズルのいる未来”を
「……生きたい」
絞り出した声は震えていた。
“生きたい”の主語が、誰かであっても、自分であっても、それはもうどうでもよかった。
ただ、伝わってほしかった。
誰かの体に、心に、刻まれてほしかった。
“生きたい”って、誰かがきっと、そう願っている。
「まだ、生きたいんです……お願いします……」
前世のあの日、あの時、私が死んだ時
その時の感情を込めて、“まだ行きたい”“まだ死にたくない”
(だれか、たすけてッー!!)
死にたくなかったんだ、生きたかったんだ
わたしは、幸せになりたかったんだッ!!!
この気持ちは、わたしの、そして“誰か”の気持ちだ
“あの日の私”を救えるように、“あの日死んだ誰か”を救えるよう…
その“誰か”のために。
この一言が届くようにと、願って、声を振り絞った。
「神様じゃなくて、いい…
だれか、たすけて…」
カメラは静かに回り続ける。
スタッフの誰かが、鼻をすする音が聞こえた。
現場が、少しざわつく。
でも、はなは動かない。
目を閉じたまま、呼吸も浅く、
ただ“命を願う者”としてそこに在り続けた。
「……カット」
監督の声が震えていた。
はなはゆっくりと目を開けた。
涙は出ていなかったが、
枕元に落ちた髪の一本が、妙に重たく見えた。
(きっと、誰にも気づかれなくていい)
誰のためにこのCMを撮ったのか、言うつもりはない。
ただ、見た人の胸に、何か小さな火が灯ればそれでいい。
そう思って、ベッドから身を起こす。
点滴の針を抜き、白衣を脱いで、ひとり控室へ戻った。
誰とも目を合わせず、ただ静かに歩くその背中は――
どこか、凛としていた。
⭐︎
控室のドアを閉めた瞬間、
張りつめていた糸が切れたように、はなはその場に腰を下ろした。
メイクを落とすことも忘れていた。
点滴の跡を模したテープがまだ腕に残っている。
ウィッグの下、結んだ髪が汗で湿って、首に張りついていた。
「……」
息が浅い。
喉の奥が熱い。
でも、泣くわけじゃない。ただ、しばらく誰とも話したくなかった。
静寂がしばらく続いた後、
コンコン、と軽くノックの音がした。
「……はい」
はなの声はかすれていた。
ゆっくりと扉が開き、顔を出したのは――マネージャーの須藤だった。
彼は、何も言わずにドアを閉めて、はなの正面まで歩いてくる。
スーツの袖を無造作にまくりながら、はなの隣に腰を下ろした。
「……お疲れ」
その一言に、はなは静かに笑った。
「……ありがとうございます」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
冷房の風がゆっくりとカーテンを揺らす音だけが、部屋を満たしている。
「……想像以上だった」
須藤がようやく口を開いた。
「何がですか?」
「……はなちゃんが、あそこまでやるとは思ってなかったって意味じゃないぞ。
ただ、なんていうか……あんな“目”を、俺は初めて見た」
「“目”?」
「うん。……本当に“生きたかった人”の目だったよ。
俺、ちょっと、怖かったくらいだ」
はなは返事をしなかった。
ただ視線を落として、自分の指先を見つめていた。
須藤が少し間を置いて、静かに続ける。
「……苦しかっただろう?」
「……」
「なのに、演じきった。最後まで。誰にも頼らずに」
はなの肩が、微かに震えた。
須藤は、その小さな震えを見て、言葉を選ぶ。
「俺がそばにいても……何もできないんだなって思った。
ただ黙って見てることしかできなかった」
はなは、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ、見ててください。
誰かのために、とかじゃなくて。
私が、こうしたいと思って、こうしたってこと……ただ、それだけを」
「……ああ。もちろん」
須藤は短くうなずいた。
その視線は、あたたかかった。
はなはゆっくりと立ち上がり、鏡台の前へと歩く。
ウィッグを外し、汗を拭き、メイクを落とし始める。
その背中越しに、須藤がぽつりと言った。
「……ほんとに、誰にも言わないのか?
君が自分から、あのCMを作りたいって言ったこと」
「言わないです」
「どうして?」
「……言ったら、台無しになるから」
「何が?」
「……“想い”が。
伝わるかどうかは、受け取った人の自由だし……私が口を出すことじゃない」
須藤は、しばらく何も言わなかった。
ただ、その背中を見つめ続けていた。
そして、そっと立ち上がり、ドアへと向かう。
「……じゃあ、俺も何も言わないよ」
「……うん」
「でもな、ひとつだけ。言わせてくれ」
はなは手を止めた。
鏡越しに、須藤の目を見る。
「すげぇよ、はなちゃん。……ほんとに」
照れたように、須藤は笑った。
はなも、少しだけ、目尻を緩めた。
「……ありがとうございます」
その言葉は、とても小さくて、とても強かった。
控室のドアが閉まると、再び静寂が戻ってきた。
はなは、鏡に映る自分をじっと見つめた。
そして、自分にしか聞こえない声で、そっと呟いた。
「……ありがとう、…太陽」
言葉は空気に溶け、音もなく消えた。
けれど、それは確かに、あのCMのラストカットよりも強く、美しかった。




