家族を辞めた日
玄関の前で、はなは小さく息を吸った。
冷たい風が髪を撫でていく。
見慣れたドア。けれど、今はもう、何の温もりも感じなかった。
「家」――そう呼んできた場所なのに、なぜだろう、立っているだけで心が凍えるようだった。
――これが最後になるかもしれない。
その言葉を、胸の奥で繰り返す。
そうだ。今日は、ちゃんと向き合うために来た。
「わかってもらいたい」とか、「変わってほしい」とか、もうそんな願いじゃない。
“向き合う”ための帰宅だった。
扉の向こうにいる人たちは、きっと変わらない。
それでも、私はもう変わった。変わるしかなかった。
子どものままじゃ、ここでは生きられなかった。
手のひらにじんわりと汗が滲む。ドアノブを握る指がかすかに震える。
でも、怖くない。
傷つけられるのは、もう慣れている。
悲しいのは、もう十分味わった。
――それでも、今日だけは。
今日だけは、ちゃんと話す。
逃げずに、黙らずに、自分の言葉で、自分の痛みを伝える。
それがきっと、私にできる最後の“けじめ”。
「……行こう」
誰にも届かない小さな声を漏らして、はなはゆっくりと玄関のドアを押した。
踏み出したその一歩が、子どもだった自分と、“家族”という幻想に、終わりを告げる音に思えた。
⭐︎
リビングの電気は、もう随分前から点けっぱなしだった。
窓の外はすでに暮れていて、夕暮れの朱は、すっかり夜の影に飲み込まれていた。
はなは、意を決して、父の背に声をかけた。
「……お父さん、時間ある?」
ソファに座ったまま、テレビを見ていた父が、ゆっくりと振り向く。
「どうした」
「……家族で話したいことがあるの。ちゃんと……みんなで、向き合いたいの」
父の表情が曇った。
一瞬だけ顔を強ばらせて、深く息を吐く。
「……やめておけ」
「どうして?」
「……おまえが、傷つくだけだ」
その言葉に、はなは喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
傷つける。傷つけるのは、いつだって向き合おうとしない方じゃないか。
「でも私は……話したいの。傷ついても、ちゃんと知りたいの」
父は黙り込んだ。何かを言おうとして、何も言わない。
何かを伝えたくて、それでも口を閉ざす。
その姿が、たまらなくもどかしかった。
「お父さん……私も家族なんだよ?」
「…………」
「なんで私だけ、いつも輪の外にいるの? ねえ、どうして……」
声が震えていた。
胸の奥が、ずっとずっと言えずにいた言葉でいっぱいになっていた。
「……私だって、ここにいたいの……! ちゃんと向き合ってほしいの!」
その声に、父の指先が震えた。
それでも、視線は逸らされたままだった。
「……はな」
その低い声には、迷いと、苦しみと、愛しさと、全部が滲んでいた。
「……おまえに、そんなこと言わせたくなかったんだ」
それは、本心だった。
本当は――ずっと、誰よりもはなを見ていた。
仕事で家を空けている間も、息子の看病をしていた日々も。
いつも、はなが一人で何かを飲み込んでいることに気づいていた。
でも――それを抱きしめる資格が、自分にはないと思い込んでいた。
「……わかってるよ。お父さんは、私なんて見てないって……」
「……違う」
思わず、声が漏れた。
「じゃあ、なんで。なんで何も言ってくれなかったの……!?」
その言葉に、父の胸が音を立ててひび割れたような気がした。
この子は、こんなにも――
自分に、愛されたかったんだ。
「……見てたよ」
思わず出たその声は、まるでひとり言のように掠れていた。
「ずっと、見てた。だけど、見ちゃいけないと思ってた……」
はなは目を見開いた。
それでも、何も言わず、ただ涙をこぼしていた。
「愛してるよ……おまえが思ってるより、ずっと……だけど、それを言ったら、おまえを縛る気がして……」
言葉にしてしまった瞬間、自分がそれをどれだけ恐れていたのか、父はようやく気づいた。
「俺は……おまえに、愛される資格なんてないと思ってた」
ようやく絞り出したその言葉に、はなは堪えきれずに父の胸に飛び込んだ。
「違うの……私だって、愛してほしかったの……! ずっと……ずっと、見てほしかったの……!!」
嗚咽が止まらなかった。父のシャツが、はなの涙で濡れていく。
それでも父は、ぎこちなく、でも確かにその肩を抱きしめていた。
「ごめんな……はな」
優しい手が、震えながら髪を撫でる。
「おまえが、こんなにも……泣くなんて。俺は……父親として、何してたんだろうな」
はなはただ、首を振った。
「いま……ぎゅってしてくれてるじゃん……それだけで、すこし……あったかいよ」
父は、黙ってはなの背中をさすり続けた。
この手を、もっと早く差し出せていたなら――
そんな後悔をかみしめながら。
そして、ようやく告げた。
「……家族で、ちゃんと話そう」
はなは、しゃくりあげながら、小さくうなずいた。
父の胸の中で、泣きながら――ずっと、待っていたぬくもりを感じなが
⭐︎
その夜、父は静かに口を開いた。
「……今夜、家族で話をする。時間をとってくれ」
食卓に座った母と兄――ユズルは、面食らったように顔を見合わせた。
「話って……何の話?」
母が苛立ちを隠さず聞く。
「はなから、話したいことがあるそうだ。ちゃんと、向き合ってやってくれ」
父の言葉に、母は眉をしかめる。
「向き合うもなにも……いまさら何よ」
ユズルも、黙ったまま顔を伏せている。
食卓の空気は、冷たい水のように静まり返っていた。
その中で、はなは小さく喉を鳴らし、口を開いた。
「……ずっと、家族って何だろうって思ってた」
緊張で喉が詰まりそうになる。
それでも、もう逃げないと決めたから、はなは言葉を続けた。
「私は……お母さんにも、ユズルにも、あんまり笑いかけてもらったことがない気がする」
母が「は?」と口を歪めた。
「なによ、いきなり。構ってちゃんみたいなこと言って」
「構ってもらいたかったんじゃないの。ただ、ちゃんと“私”を見てほしかったの」
ユズルが少しだけ顔を上げた。
その目に、かすかな罪悪感が浮かんだような気がした。
「……私、変な子かもしれないけど……」
はなは、自分の手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「でも、同じ家で生まれて、同じ家で育ったのに、なんでこんなに……寂しかったのかなって」
母は、鼻で笑った。
「また“被害者ぶる”の? あんたが勝手に外で注目されて、勝手に自分で距離取ってたくせに」
はなは、少し俯いて、そして――静かに笑った。
それは、どこか壊れかけたような、泣き笑いだった。
「……そうだね。」
父が思わず椅子から立ち上がった。
止めようとしたのか、何か言おうとしたのか――でも、はなはそれを手で制した。
「大丈夫、お父さん」
ゆっくりと立ち上がって、家族を見回す。
母の冷たい視線と、ユズルのうしろめたい目を正面から見つめて。
「私は……ずっと、あなたたちに嫌われてると思ってた」
重苦しい空気の中、誰もが口を閉ざす。
はなだけが、自分の言葉を出し尽くし、もうこれ以上語るものはないように見えた。
そのときだった。
「……ねえ、もう終わった? 私、言いたいことあるんだけど」
母が、ぽつりと呟いた。
その声はあまりにも静かで――妙に、澄んでいた。
「……なによ。あんた、言いたいことだけ言ってスッキリしたみたいだけどさ」
はなは、黙って母を見つめた。
「私があんたに冷たかったのはね……当然なのよ」
父が「やめろ」と低く言ったが、母は止まらなかった。
むしろ――待っていたかのように、吐き出した。
「あんたの顔を見るたびに思い出すのよ。
……あのとき、あの男にされたこと。
私が、壊れたみたいに泣いた夜のこと。
拒否しても逃げても、無理やり押しつけられたものの、証が……」
はなは、まるで動かないまま、聞いていた。
「……あんたは、そのときにできた子よ」
父が椅子を蹴って立ち上がり、怒りを押し殺して声を荒げた。
「それでも、そんなこと娘に言うか!? 何がわかる!お前は――!」
「うるさい」と母は静かに言った。
「育ててやっただけでも、充分でしょ。
愛してやれなかった? 当たり前よ。
だって、私の中にはあの夜の記憶が、焼きついてんのよ……。
無理よ。そんな子、愛せるわけないじゃない」
父は言葉を失った。
リビングに、時計の秒針の音すら響くような沈黙が落ちる。
その中で、はなは――静かに息を吸った。
目に、涙が浮かんでいた。
でも――憎しみではなかった。
「……そうだったんだ」
はなはぽつりと呟き、そして、ふっと微笑んだ。
その笑みは、あまりにも切なく、優しいものだった。
「……そっか。それなら、しょうがないね」
母が「は?」と目を細める。
「私が……お母さんに愛されなかったのは、私のせいじゃなかったんだ」
ポタ、と涙がひとすじ、頬を伝う。
けれどその表情は、どこか晴れやかだった。
「お母さん、辛かったんだよね。きっと。
……すごく苦しんだんだと思う。
私、ずっと“なんで?”って思ってた。
どうして笑ってくれないんだろうって……。
でも、いま、ようやくわかった」
はなは、一歩だけ前に出て――母のほうに小さく頭を下げた。
「……教えてくれて、ありがとう。
やっと、納得できたよ」
その声に怒りはなかった。ただ、哀しみと赦しがあった。
「ねえ、お母さん。
あなたは、私のことを好きじゃなかったかもしれない。
でも――私は、あなたのこと、嫌いじゃなかったよ」
もう泣かない。
泣いてしまえば、どこか“被害者”になってしまうから。
はなは微笑んだ。
「……そりゃあ、家族になれないわけだよね」
そのひとことを残して、はなは背を向け、リビングを出ていった。
小さな背中が、ドアの向こうに消える。
父は、微かに手を伸ばそうとして――そのまま拳を握り締めた。
取り返せるなら、いくらでも時間を戻したかった。
だけど、その夜――はなはもう、大人だった。
誰よりも傷ついていたのに、誰よりも優しくて、
誰よりも……「大人」だった。




