THE BEAST
控え室のソファに、はなは丸くなって座っていた。
大きめの衣装用ミラーには、どこか他人のような顔が映っている。
――あれは、本当に“わたし”だった?
「……違う。違うよ」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。
控え室のドアは閉まり、歓声の聞こえる舞台裏からも隔てられている。
試写会での反響は上々だった。記者は皆一様に絶賛し、ロータスも満足げに微笑んだ。
ニノマエ監督さえ、あの撮影時には一度も見せなかった柔らかい表情で、はなに「ありがとう」と頭を下げていた。
でも――
(わたしは……違う)
はなは、小さく震える指先で、膝を握る。
脳裏に浮かぶのは、ガラス越しに対面した“本物”――ダニエルの目。薄暗い面会室。
透明なガラス越しに座るのは、⚪︎⚪︎歳になったダニエル・サンダース。
小柄で痩せた体躯、整った顔立ち。
だが、その目は――静かすぎた。
面会に来たのは、はなだった。
撮影の参考に、最後の確認のために。
しかし彼女は今、この少年がまとう「空虚さ」に、言葉を失っていた。
「後悔してるか、って聞かれるけど……うーん、なんでみんなそう聞くんだろうね」
ダニエルは小首を傾げ、にこりと笑う。
まるで冗談を言ったあとのように。
「だってさ、僕は“殺したくて”殺したんだ。
怒りとか、悲しみとか、そんなのはたぶん最初の一件だけだった。
でも……味を覚えたんだよね。『殺す』っていう感覚に」
はなの瞳が微かに揺れる。
けれどダニエルは気にしない。気づきもしない。
「初めて、ナイフが刺さったときの感触。
抵抗する体の熱さ。悲鳴。血の匂い。全部、全部、たまらなかった」
彼の語り口は冷静だ。
それが余計に異常だった。
「だから次は、ちゃんと計画してやったよ。
クラスメイトたちを“まとめて”殺せたのは……僕の中で最高傑作だった」
「殺したあと、どうなったかって? うん、見たよ。
吐いて倒れる子、泣き叫ぶ子、泡を吹いて意識を失う子……
僕ね、そのとき思ったんだ。“綺麗だな”って」
はなの背筋に、氷のようなものが走る。
吐き気すら覚える狂気。
でも、ダニエルは淡々と続けた。
「人って死ぬと、静かになるんだね。
世界の音が、全部止まったみたいだった。
ああ、この瞬間が欲しかったんだって思った」
はなの視界がかすむ。
呼吸が浅くなる。
それでも、ダニエルは笑っていた。
「で、君はどう? そんな僕を、演じられるの?」
言葉が出なかった。
これを“演じる”なんて――
(わたしには……無理)
理解することも、なりきることもできない。
これはもう、人間の顔をした“何か”だった。
「君の目、優しいね。そんな目の子が、僕になれるわけないよ」
挑発でも、怒りでもない。
ただの“真実”として語られる、その言葉。
はなは、椅子から立ち上がれなかった。
全身から力が抜けていた。
そして気づく。
――本物の狂気は、感情ではなく「欠落」なのだと。
表情は、静かだった。
声も、落ち着いていた。
けれど、そこには、何もなかった。
怒りも、悲しみも、反省も、ない。
ただ、ひとつの“事実”として、自分のしたことを語る。
ダニエルの目は、はなの知っているどの人間のものとも違っていた。
(あのとき、わたしは逃げたんだ)
はなは、演技の中で“人間らしい苦悩”を滲ませてしまった。
罪悪感、後悔、揺れる良心――それを芝居に滲ませてしまった。
でも、ダニエルは違った。
彼は、「後悔」なんてしていなかった。
(わたしは、わたしの“人間らしさ”を、演技に持ち込んでしまった)
そして、それは「ダニエル」ではなかった。
「……勝てなかった」
呟きながら、はなは顔を上げた。
鏡の中の少女は、濁った瞳をしていた。
「わたしは……“本物”に負けた」
「優しくなったから、ダニエルを演じられなかった」
「もう、役者としては失格だ……」
演技が上手いと褒められるほどに、胸が苦しかった。
観客が感動するほどに、自分が「嘘を演じた」気がしてならなかった。
――ゆうとくんは、言ってた。
「もう、“天才”なんかやめていい。君は君のままで、ちゃんと輝けるよ。」
でも、はなにはできなかった。
“輝く”には、自分があまりに変わりすぎてしまった。
“ゆうとくんに出会って、変わったんだ。
あのときは、気づけなかったけど。
優しさって、こんなにも演技を邪魔するんだ”
それは、役者としては致命的かもしれない。
でも――
でも、ふと思ってしまう。
(もし、もう一度ゆうとくんに会えたら、わたし……どうするんだろう)
涙は出ない。
泣くのはもう、芝居の中だけでいい。
ただ、心の中に広がる“挫折”だけが、ずっと、そこにあった。
⭐︎
撮影を終えてから、はなはずっと部屋にこもっていた。
照明も落としたまま、カーテンも閉じっぱなし。
薄暗い空間の中、ベッドの端で毛布にくるまったまま、小さな背中が静かに呼吸している。
何度も見たダニエルの顔。
何度も繰り返し響いた、あの冷たい声。
(……演じられなかった。あたし、演じられなかった……)
マネージャーの須藤の携帯が鳴ったのは、そんな夜のことだった。
差出人の名を見て、彼は目を見開いた。
翌日。
「……はなちゃん、ちょっといいかい」
優しく扉をノックする音。けれど、返事はない。
それでも、須藤はそっと扉を開けた。
「起きてなくてもいいよ。……これ、届けに来た」
その手に握られていたのは、一通の封筒だった。
白くて、少し分厚い。それだけで、何か大切なものが詰まっているのが分かった。
「鈴木悠斗からだよ。……手紙、届いてた」
毛布の中で、はなの指がぴくりと動いた。
それを見て、須藤は何も言わずに封筒をそっと机の上に置く。
「……俺も、最初読んだとき、ちょっと泣きそうになったよ」
その一言だけ残して、須藤は静かに扉を閉めた。
部屋には、また静寂が戻る。
けれど、数分後。
ゆっくりと、毛布から細い手が伸びる。
震える指先が、机の上の封筒に触れた
『 はなちゃんへ
おつかれさま。
映画、完成したって聞いたよ。
ニュースでちょこちょこ取り上げられてて、見てる人がみんなザワザワしてた。
君は、あの渦の中にいたんだよね。
本当に、おつかれさま。
正直に言うと、俺は『THE BEAST』を観ていない。
たぶん、観ない。
観たら、俺も何かに引きずられそうで。
君が演じた役も、その奥にある現実も――全部を受け止めるには、ちょっと、今の俺には荷が重い。
でも、演じた君の気持ちは、なんとなくわかる気がする。
演じたあとに、自分の中に何かが残ってしまって。
それが、正しいのか、間違ってるのか、わからなくて。
ああ、自分は“本物”になりきれなかった、って思ってしまうこと。
わかるよ。
俺も、演奏のあとにそうなることがあるから。
どれだけ全身全霊で鍵盤を叩いても、
「これは、死を知った人間の音じゃない」って、自分で自分に思ってしまうことがある。
君はきっと、“優しすぎる”んだと思う。
人の痛みを、自分の体に通してしまうくらいに。
だから君は役を“理解”できなかったんじゃなくて、
“なりきれないことを、悔やめるくらいに優しい”んだよ。
俺は、君が本物の“役者”になれないなんて思ってない。
君が君のまま、どれだけ心を削っても、演じようとしたことを、
俺は尊敬してる。
それで十分じゃないか。
君は、君のまま、痛みを知った。
でもね、ひとつだけ――
これだけは忘れないで。
本物にならなきゃ、誰かの心に届かないわけじゃない。
届くよ。
きみの声も、目も、震えた指先も。
それで救われる人が、必ずいる。
はなちゃんは、すでにそういう場所に立ってる人間だと思うから。
…でも、無理はしなくていい。
壊れてしまったら、君が君でなくなってしまうから。
疲れたら、ちゃんと休んで。
泣きたいなら、泣いて。
天才も、ちゃんと人間だから。
また、ピアノでも弾こうよ。
何も考えずに、音を出すだけで、少しだけ、心が軽くなるかもしれないから。
それじゃ、またね。
鈴木悠斗より 』
部屋の隅、読んだままの手紙を膝に置いて、
はなは、ずっと動けずにいた。
手紙の中には優しい言葉ばかりが詰まっていた。
責めるでもなく、突き放すでもなく、
ただ静かに、そっと、
彼女の心のいちばん深いところに手を差し伸べてくる言葉たち。
「なんで……」
ぽつりと、声が漏れた。
「なんで……そんなふうに、言ってくれるの……」
演じられなかった。
いや、“なりきれなかった”。
優しさが、恐れが、罪悪感が――彼女を止めた。
本物になんてなれなかった。
あの冷たい目を、あの無垢な狂気を、心の底から“なりきる”ことが、どうしてもできなかった。
それを、自分は「俳優失格」だと思っていた。
“天才”を名乗る資格はないと、
“自分は偽物だ”と、
ずっと、心の中で罵ってきた。
なのに――
「それで、いい、って……」
くしゃ、と、手紙を握る指が震えた。
こらえきれなかった。
堰を切ったように、
全身からあふれ出すものがあった。
「う……っ、あああああああああ……っ!!」
声を出して、泣いた。
みっともなく、ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、
子どもみたいに、喉を鳴らして、全身で嗚咽した。
それまでずっと張っていたもの――
“天才”の仮面も、
“プロ”の意地も、
“強がり”の盾も、
全部、崩れ落ちた。
「なれなかったの……っ、わたし……ダニエルに……っ、なれなかったの……!」
「でも、でもね……っ、わたしは、ほんとうに、殺したくなかった……っ!」
「みんなを、殺したくなんて、なかった……っ!」
涙は止まらなかった。
頬だけじゃない。
顎から、首から、服の上にもぽとぽとと落ちて、
気がつけばカーペットにまでしみこんでいた。
それでも泣いた。
泣いて、泣いて、泣きじゃくって――
やっと、ほんの少し、心が軽くなった気がした。
 




