『雪と蝶』
「おっ、嬢ちゃん! やっと来たか!」
稲田孝作が手を振る。
(お前が置いてったんじゃん…)と内心毒づきながら、はなは加藤俊平に手を引かれて歩み寄る。
「おっ、早速“お父さん”と登場か」
その言葉に、俊平の手がぴくりと動いた。
「かとうさんがお父さんなの、うれしーいです!」
にぱっと音が鳴りそうな笑顔を向けると、俊平の腕に力がこもった。
見上げると、彼は眉を下げ、照れたように微笑んでいた。
(…顔が良い)
そう呟く心の中まで、少し熱くなる。
「君の“お母さん”、挨拶したいってさ」
孝作の言葉に、視線を前へ向けると──
(……泉さゆりっ!)
オーラが違った。切れ長の瞳、通った鼻筋、計算された配置に生気を宿す美しさ。
その大人の色気と石鹸の香りに、呼吸を忘れる。
「初めまして、泉さゆりです」
凛としたハスキーボイスが、胸に響いた。
(本物…っ!綺麗!)
憧れが高まり、はなは思わず背筋を伸ばす。
「道野はなっ!5さいですっ!」
元気いっぱい、手をパーにしてぐっと掲げる。
「……5歳なのね」
その瞬間、泉の表情が曇った。
(あっ…)
胸がきゅっと痛む。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「いずみさん、いたいいたい?」
「え?」
「いたそうな顔してるよ? だいじょーぶ?」
心配そうに眉を下げて、涙を浮かべる。
本気の演技じゃない。けれど、今はただ、嫌われたくないと思った。
「っ、平気よ」
泉は目を逸らして、距離を取ろうとする。
(…やだ、行かないで)
咄嗟に言葉がこぼれた。
「おかあさんっ!」
ぴた、と泉の足が止まり、振り返った顔は──
悲しみと戸惑いに満ちていた。
まるで迷子のようなその表情に、胸が締めつけられる。
「私は、あなたの母親じゃない!」
怒声が響く。返す言葉も、出てこなかった。
ピューッと、口笛がスタジオに響く。
見れば、孝作が面白そうにニヤニヤしていた。
(……なにこの人)
怒りが込み上げるが、表情には出さず、泉をじっと見つめ返す。
その視線を受け止めることなく、泉は顔を伏せて逃げていった。
何か言おうとしたその瞬間──
「はいはい、雑談は終わり! じゃあ、“君”のシーン撮ろうか!」
稲田孝作が割って入る。
いつものように、容赦も準備もない。
(…あんたって人は)
泉の顔を見る。まだ顔色が悪いまま、そわそわと落ち着きがない。
(主演のコンディションも最悪じゃん…)
拳を握るはなの肩に、優しく触れる手があった。
「はなちゃん、緊張する?」
加藤俊平が、穏やかに頭を撫でる。
「最初は誰だって緊張するよ。でもね、その緊張が人を成長させるんだ。だから、君は君のままで演じてごらん」
まっすぐな言葉だった。
見上げる俊平の目が、誠実で、優しかった。
(……いいな、こんな風に真っ直ぐに生きられるなんて)
少しだけ、羨ましいと思った。
「うん! はな、がんばる!」
前を向いたその決意は、自分への誓いだった。
(頑張らないと。“死んだ”意味が、なくなっちゃう)
私は“私”になる。
⸻
「それじゃあ、公園で“雪”と“娘”が遊ぶシーンからいくよ〜!」
監督の指示に、孝作がにやついたまま付け加える。
「はなちゃん、ミスってもそのまま使うからね〜!」
(……この現場、狂ってる)
泉さゆりの表情は険しく、カメラ横の俊平は心配そうに見守っていた。
はなは、小さく手を振る。
(……あ、笑ってくれた)
彼が返してくれるだけで、少しだけ背筋が伸びる。
泉の手を握る。──冷たい。
(そうだ。私は“雪”の大切な娘。泣かない、明るい子)
もう一度、自分に言い聞かせる。
(“演じる”んじゃない。“なりきる”んだ)
思い出すのは、東雲しのぶ。
20年後のあの天才がやっていたメソッド演技。
あれこそが、“命を吹き込む”ということ。
(私は“雪”の娘)
「ねぇ!おかあさん!」
「っ!だから私は、あなたのおかあさんじゃないって言ってるでしょ!」
「? なに言ってるの? おかあさんは、わたしのおかあさんでしょ?」
泉の動揺が走る。視線が揺れ、呼吸が荒くなる。
「よし、本番いくよ!」
孝作の一声で、カチンとカチンコが鳴る。
泉の手が、振りほどこうとしていた動きを止めた。
そして──
「アクション!!」
 




