遺族を喰らう獣 後編
水筒の蓋を開けた瞬間、胸が高鳴った。
カチリと音を立てるその行為に、儀式的な重みすら感じていた。
(これで……みんな、同じになる)
ダニエルは、教室中を見回す。
友人も、苦手だった子も、優しい女子も――誰もが、何も知らずに水を飲んでいる。
そして、自分も、ゴクリと飲み干した。
(ぼくも……同じ)
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最初に違和感を覚えたのは、唾を飲み込んだ瞬間だった。
喉がピリつき、胃の奥がチリチリと熱くなった。
「あれ……?」
息が詰まる。
みるみるうちに顔が青ざめ、手足の感覚が遠のく。
周囲を見渡せば、ほかの子たちも次々と顔をゆがめ、椅子から転げ落ちていた。
⸻
教室に悲鳴が響く。
教師の怒声、泣き声、椅子が倒れる音――。
だが、ダニエルの耳には、その全てが水の中のように鈍く響いていた。
(ああ、これが……平等)
(ぼくと、あの子たちの……唯一の、同じ痛み)
⸻
そして、遠のく意識の中、誰かが駆け込んでくるのが見えた。
「ダニエル!!」
遠くから、父親の声が聞こえたような気がした。
(……また幻聴か)
そう思った瞬間、誰かに体を揺さぶられる。
薄れゆく視界の中、制服を着た大人の男の姿がぼんやり映る。
必死に名前を呼ぶ声、震える手、滲んだ目元――
でも、ダニエルの思考は、すでにうまく働いていなかった。
⸻
(どうして、そんなに怒った顔をするんだろう)
(もう“同じ”になれたのに)
⸻
彼の中では、全てがうまくいっていた。
誰も責めない。誰も許さない。
それが「平等」で、それを成し遂げた自分は、まるで神様になったような気分だった。
胃の奥を焼くような痛みとともに、ダニエルは微笑んだ。
⸻
「……成功、したね」
⸻
それが、担架に乗せられながら彼が吐いた、最後の言葉だった。
父親は、ずっと彼の手を握りしめ、何度も名前を呼び続けていたが――
ダニエルの意識は、すでにどこか遠くへと、離れていた。
⭐︎
病室のカーテン越しに、午前の光が薄く差し込んでいた。
点滴の管が細く揺れている。
椅子に座る父親の顔は、夜を徹した疲労と、言葉にできないものを宿していた。
それを見ても、ダニエルは何も感じなかった。
ずっと昔のことのように――もう、自分の感情は、遠くに置いてきた気がした。
「……おとうさん」
しばらくぶりに、少年の声が空気を震わせた。
その声は、どこか空っぽで、響きが平坦だった。
父親が目を向ける。
ダニエルは静かに、その視線を受け止めた。
そして、にこりと笑った。
その笑みは、痛々しいほどに無垢で――壊れていた。
「ねえ、知ってた? あの草……乾かすと、苦くなくなるんだよ」
意味のわからない言葉に、父親は眉をひそめた。
ダニエルは楽しそうに続ける。
「それを……みんなの水筒に入れたの。誰にもバレないようにね。僕、全員と“おんなじ”になりたかったんだ」
父親の目が大きく見開かれる。
ダニエルは気づかない。
いや――気づかないふりをしているのかもしれない。
自分の手の甲を、光の下で眺める。
そして、ぽつりと口にした。
「でも、僕だけ……助かっちゃったんだって」
「…………ダニエル」
「なんでだろうね?」
ダニエルは首をかしげる。
その動作も、まるでぬいぐるみのように感情がこもっていなかった。
そして――
彼は、父親の目を真っ直ぐに見た。
その瞳は、深い夜の湖のようだった。
暗く、光が差さず、何も映さない。
怒りも、悲しみも、罪悪感も、恐怖も――何一つ浮かばない。
ただ、空っぽだった。
「ねえおとうさん、
僕のこと、ちゃんと“見ててくれた”?」
その一言に、父親の喉が震えた。
ダニエルの目が笑う。
その瞬間、父親は息を呑んだ。
――そこには“人間”がいなかった。
形だけの少年。
形だけの笑顔。
形だけの、目だった。
まるで、何かを演じるように――けれど、もう感情という舞台装置を捨てた少年が、そこにはいた。




