遺族を喰らう獣 中編
毒草は、ノートの奥に隠されていた。
ダニエルはそれを「お守り」と呼んでいた。
誰にも言えない秘密。心の奥にしまったまま、彼は日々を生きていた。
──もう誰にも追われない。
──もう、怖くない。
あの事件のあと、学校では奇妙な静寂が続いた。誰も彼に手を出さない。クラスの空気は張り詰めていたが、それは逆に心地よかった。
父は、毎晩遅くまで家に戻らなかった。
被害者の親の前で頭を下げ、証拠の少ない事件を前に捜査の手を止めずにいた。
ダニエルは、その背中を遠くから見つめていた。
「ぼくのために、動いてるんだ」
それが、快感だった。
⸻
だが、ある日、全てが変わった。
放課後、廊下で女子たちの話し声が耳に入った。
「ダニエルのパパって刑事なんでしょ?すごい正義感強いんだって」
「でも、昔は結構チャラかったらしいよ?離婚した奥さんのこと、ずっと放ったらかしだったとか」
「あー、だからダニエルってちょっと変なのかな」
ダニエルの心に、鈍い音が響いた。
――“変”って何だ。
――“チャラい”って、何だ。
父を馬鹿にした。父を軽んじた。
あんなにも真面目に働いて、家にも帰らず、事件に没頭している父を。
それでも――それでも。
ダニエルが夜中に水を飲みに起きたとき、父がまだ警察署にいると知ると、それだけで胸が高鳴った。
父は、あの事件をまだ“追ってくれている”。
つまり、“ぼくのこと”を。
でも、あの事件を忘れて、また“ぼく”をみてくれなくなったら?
いやだ、そんなのいやだ
ダニエルはずっと公園のベンチに座り考え込んでいた。
公園のベンチに座っていたダニエルに、男が声をかけたのは午後六時を回ったころだった。
「退屈そうだな、坊や。……なあ、楽になれる方法、知ってるか?」
男はニコニコと笑っていたが、瞳は笑っていなかった。
ダニエルは、ふとその言葉に心を揺さぶられた。
あのとき、あいつを――。
自分が何をしたのか、忘れてしまいたかった。
「ほら、飲んでみ? すぐ楽になる」
男の声は、壊れかけたオルゴールみたいだった。にこやかだけど、調子が狂ってる。
プラスチックの小さなボトルが押しつけられる。甘ったるい、けどどこか薬品のような匂い。
ダニエルは、喉に焼けるような液体を感じたあと、地面が傾いたような錯覚に襲われた。
——ふわふわして、何も考えられない。
気がつくと、知らない部屋だった。古くて、湿ったカーテン。
男は笑っていた。笑っていたけど、目は笑ってなかった。
シャツのボタンがずれていた。自分の服も、ズレていた。
「大人しくしててえらかったな」
頭を撫でるその手が、冷たくて、異様に乾いていた。
目の端が熱くなる。吐きそうになる。でも、身体が動かなかった。
その後すぐに、ダニエルは部屋から追い出された
見覚えのない周囲の街並みに狼狽える元気などなく、大きい道を月が出ている方向へと歩いた
時刻はすでに日付を跨いだ頃、ダニエルはようやく家に着いた。
音を立てないように家に入ると、リビングから灯りが溢れている
ダニエルはリビングへと向かう。
リビングのソファに父が眠っているのが見えた。
父親がジャケットも脱がずに横になっていた。仕事帰りのまま寝落ちしたのだろう。
ダニエルは、ふらふらと歩み寄る。
自分にされたことを、言葉にするのは怖かった。
でも、せめて触れたらわかってくれるかもしれないと、そう思った。
ソファの足元に膝をつく。
「おとう……さん……」
か細く呼ぶ声に応えず、父は眠ったままだ。
そっと顔を近づける。伸ばした手が、父のシャツに触れた、そのときだった。
「何してるッ!」
叫びと同時に、腕を振り払われた。
ダニエルは、床に転げる。頬を打ち、視界がぐらぐら揺れる。
父の顔が見下ろしていた。
怒っている? いや、違う。引いている。
「……お前、まさか……なに考えてるんだ……!」
声が震えていた。でも、怒りではない。
父の目が、“異物”を見る目だった。
「明日、お前を母親のところに送る。俺は、もう……無理だ」
ダニエルは、喉の奥で何かを吐き出しそうになった。
「違う……ちがうんだ……ねぇ、お父さん……僕……」
父はもう顔を背けていた。
その背中が、まるで、知らない人のように遠かった。
——その瞬間から、ダニエルの精神は壊れた。
⭐︎
どんなに絶望的な状況でも朝は来る
ダニエルは一睡も出来なかったが、重い体を動かして学校に行く準備をした。
父に会わないように、ダニエルは息を殺して家から飛び出す。
学校につき、教室は入るとーー
教室に入った瞬間、ダニエルは立ち止まった。
朝のざわめき。
笑い声。机を叩き合う音。
昨日と変わらない、穏やかで明るい空気。
でも、自分だけが壊れていた。
まるで、違う星に来てしまったようだった。
⸻
「ねえねえ、ダニエル〜今日の宿題やってきた?」
誰かが、何の悪意もなく声をかけてくる。
「……うん」
ぎこちなく笑って答えながら、心の奥底で考えていた。
(どうして、君たちは笑えるの?)
(どうして、僕だけこんな目にあったの?)
(どうして、誰も気づいてくれなかったの?)
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笑い声が痛かった。
クラスメイトの清潔な衣服の柔軟剤の香りが、気持ち悪かった。
水筒に貼られたシールや、ポップなデザインのカバーが、どうしようもなく羨ましかった。
みんなが、幸せそうに見えた。
みんなが、無傷に見えた。
⸻
「ねえ、僕と君たちの違いって、なに?」
ふと、隣の席の子に聞いた。
「え? なにそれ?」
きょとんとした表情。
ダニエルはにこりと笑って答える。
「……ううん、なんでもないや」
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(この世界は、不平等だ)
(幸せな人と、不幸な人がいる)
(でもそれって、不公平じゃない?)
(じゃあ、全部、終わらせよう)
(そしたら、平等になるかもしれない)
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給食の時間、みんなが席を外したすきに、ダニエルは自分の机の引き出しから、小さな包みを取り出す。
乾燥した葉。
茶色くて、丸まっていて、香ばしいような匂い。
一度も誰にも見せたことがない“お守り”。
(これは、僕の味方だった)
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ダニエルは、何のためらいもなくそれを砕いた。
こぼれないように、慎重に。
音を立てずに、静かに。
ひとつ、ふたつ。
教室に置かれた水筒に、それぞれ少しずつ混ぜていく。
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手が震えていなかったのが、自分でも不思議だった。
むしろ、心は澄んでいた。
静かで、穏やかで、優しさすらあった。
(みんなが、僕と同じになればいい)
(もう、ひとりぼっちじゃなくなる)
(痛みが、消える)
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そして最後に、自分の水筒にも、ほんの少しだけ混ぜた。
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「じゃあ、今日もがんばろうね!」
先生の明るい声が、教室に響いた。
子どもたちの笑顔が並んでいた。
でも、その瞬間、ダニエルの心には、何の色もなかった。
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「……平等って、きれいだね」




