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遺族を喰らう獣 前編

薄暗い空間に、椅子のきしむ音だけが鳴っていた。

 観客はわずか十数人。だが、その一人一人の存在は、上映される映像よりも重たかった。


 ――遺族。


 実在の事件で息子を亡くした女性、姉を失った青年、家族を“奪われた側”の人々。

 彼らが、映画『THE BEAST』の“試写”を前に静かに息を殺している。


 上映が始まった。

 オープニングの静かなピアノの旋律に、誰も声を出さない。


 やがて、はなが演じる少年・ダニエルが登場する。


 冒頭――朝のキッチン。

 父親は新聞を読みながらコーヒーを啜っている。

 ダニエルが何か話しかけても、父は一度も顔を上げない。


 (この世界に、自分の声は届かない)


 その表情に、息を呑む気配が広がる。

 彼女――はな、だとは分かっていても、そこに“ダニエル”が確かに存在していた。


 誰にも愛されなかった少年。

 誰にも必要とされなかった少年。

 その瞳に浮かぶのは、恨みではない。ただ――諦め。


 そして、事件当日の朝。


 父親の「遅れるなよ」の一言に小さく頷き、

 学校指定のリュックを背負って家を出た少年の背中が映る。


 次の瞬間、シーンは切り替わり――

 目の前に“被害者”が現れる。


 少年の手に、小さなナイフが握られている。

 それを振り上げるまでの“5秒間”が、長すぎるほどに長く感じられる。


 涙を流しながら――ダニエルはナイフを振り下ろす。

 泣いているのは“殺す側”だ。


 画面がフェードアウトし、静寂が戻る。


開演数分で、最初の殺人が行われたことに、遺族の1人は小さく悲鳴をあげて、怒りと悔しさで啜り泣く人もいた



(シーンが変わる)


空は、どこまでも鈍色だった。


 ダニエルの背中には、泥の跡と靴の型が何重にもついている。

 唇が切れ、血の味が広がる。


 「逃げろよ、ほら。昨日“告げ口”した罰だろ?」


 いじめっ子の少年がにやついた顔でダニエルを囲んでいる。

 一歩退こうとすれば、背後に回ったいじめっ子がリュックを引っ張り、倒れ込ませた。


 (殺される)


 本気で、そう思った。


 腕をすりむき、足が震える。校舎は遠い。誰も来ない。


 視界の端に、ガラクタが積まれた古びた倉庫が見えた。

 そこから、わずかに光が反射する――刃物。

 地面に落ちていた、古いナイフだった。


 (使っちゃだめだ、絶対……でも)


 彼は手を伸ばした。


 「脅すだけ」「これを見せれば逃げられる」

 そう思った。

 ナイフを握る手は震えていた。


「で、あれだろ?おまえの親父、刑事のくせに全然家に帰ってこねぇって有名じゃん?」


 クスクスと笑う。


「知ってるよ。あいつ、昔不祥事起こして左遷されかけたって。

 マジ笑うわ。“正義”語ってるくせに、家庭はボロボロってか?」


「てか、おまえの母ちゃん、別の男と逃げたってほんと?

 “正義の味方”の家庭って、そんなもんなんだ~?」


 ──ダニエルの中で、音もなく何かが砕けた。


 身体が熱くなった。

 手のひらに握られたナイフが、汗でぬるつく。

 目の奥が焼けるように痛む。

 耳の奥で、何かが爆ぜる。


 「言うな……っ」


 かすれた声だった。けれど、彼らは笑いをやめない。


 「刑事のクセして息子がナイフ持ってるとか、世も末だよな~!

 血が争えないってやつ?」


 「──言うなぁぁぁっ!!」


 叫びが裂けるように響いた。

 涙と嗚咽が、怒りと一緒に爆発した。


 「お父さんの悪口言うなッ!!

 僕の、僕の大好きな──唯一の家族を、勝手にバカにするなあああ!!」


 目の前が真っ白になった。

 いじめっこの少年が、嘲るように鼻を鳴らして、襲いかかってきた。


 その瞬間、ダニエルは防ぐように腕を振り抜いた。

 何かが当たる手応え。

 息を呑む音。

 倒れ込む影。


 あたりに、沈黙が落ちた。


 カッ、と乾いた音。

 ナイフの刃が、いじめっ子の少年の腕に浅く当たった。


 「……おい、テメェ……!」


 少年が目を見開き、怒りと痛みで顔を歪める。

 その顔が、“人間”じゃなくなったように見えた。


 「殺してやる……マジで……殺してやるからな!!」


 追い詰められたのは、ダニエルだった。


 (ああ、もう終わったんだ)


 (僕は、終わったんだ)


 次の瞬間。


 ――悲鳴と、血飛沫。

 誰の声かも分からない。気づけば、ダニエルの手には、血のついたナイフがあった。



「……お父さんに、迷惑かけちゃだめだ……」


 小さな声で呟きながら、ダニエルは手元を見た。


 血まみれのナイフと、シャツ。息苦しさと涙で目が霞む。

 足元の落ち葉を、手当たり次第にかき集めて、地面に残った血や足跡の上にばらまいた。


 しゃがみ込んで、何度も葉を押しつける。


(これで見えない……たぶん)


 立ち上がると、ふらつく足で近くの川に向かった。

 手に持ったナイフを、高く振り上げて――


「……お願い、流れて」


 川に投げた。波紋が広がって、やがて静かになった。


 その後、着ていたシャツを脱いで、自分だけの“秘密基地”へ。

 壊れたトラックの中に忍び込んで、シャツを丸め、座席の奥に押し込んだ。


(きっと、誰も見つけない……見つからない)


 見上げた空は、灰色だった。


 


 ◆


 


 それから数時間後。

 少年の遺体が発見されたという一報が、警察に入った。


 現場に急行した刑事の一人が、思わず息を呑む。


「……子ども、か……」


 そして、その遺体の顔を見た瞬間。

 隣にいた同僚が名を呼ぶ。


「ブライアン。おまえ……?」


 男――ダニエルの父・ブライアン刑事は、ほんの数秒、沈黙した。

 遺体の顔を、服装を、靴を、じっと見ていた。


「……知らない子です」


 それだけを言って、彼は後ろを向いた。

 その胸中で、まさか“自分の息子”が関わっているなど、想像すらしていなかった。


 


 皮肉にも、その事件の初動捜査を担ったのは――

 被害者の父でも、加害者の父でもなく、加害者自身の父親だった。





⭐︎

深夜。


 時計の針は、とっくに午前二時を回っていた。


 ダニエルは、薄暗い階段の陰に座っていた。電気をつけず、毛布に包まりながら、階下のリビングを見下ろしている。


 そこに、父がいた。


 刑事のブライアン・アンダーソンは、ノートパソコンの前で事件資料を何度も繰り返し見返していた。スクリーンの光に照らされるその顔は険しく、時おりペンで何かを走り書きし、また資料をめくる。


 机の横には、紙コップのコーヒーが何本も転がっていた。


(ずっと……寝てない)


 ダニエルの喉が鳴った。息を潜めるように口を手で覆う。


 胸がドクドクと鳴っていた。


 父が――お父さんが、こんな時間まで、自分の学校で起きた“あの事件”を追いかけている。


 現場で見せたプロフェッショナルな顔。帰宅後も、風呂にも入らず、一言もしゃべらずに資料に没頭する姿。その背中からは、強い執念がにじみ出ていた。


(……探してる。僕を)


 そう思った瞬間、ダニエルの中で何かが爆ぜた。


 ――興奮。


 ――誇らしさ。


 ――そして、救いのような感情。


(ぼくを、見てくれてる……!)


 ずっと無関心だった父親が。仕事にしか興味のなかった人が。


 今、あの人の世界には“僕”がいる。


 学校で、あの場所で、自分の存在が“お父さんの人生”に入り込んだ。


 それが、たとえどんな形であっても――。


(悪いことしたけど……でも……)


 お父さんが、僕のことを追ってくれてる。


 初めてだ。こんなに、心が熱くなるのは。


 ダニエルは毛布の中で小さく笑った。


 目が冴えて、眠れそうになかった。





⭐︎




 下校のチャイムが鳴ったあとも、ダニエルの耳には、あの声がこびりついていた。


 「あいつ、なんか様子おかしくね?」


 「目が死んでんじゃん」


 笑い声。ざわめき。背後に刺さる目線。


 誰も、真相なんて知らない。


 けれど、何かを感じている。空気は、薄く、粘ついて、まとわりつくように彼の背中に張り付いていた。


 ──いじめっ子の顔が、また脳裏に焼き付いた。


 突き飛ばした。腕が動いた。ナイフがぶつかって。赤く染まっていく制服。


 「……うるさい」


 独り言のように呟いた声は、かすれていて、自分でも聞き取れなかった。


 あの夜から、ダニエルの中で何かがひび割れていた。


 罪悪感? ある。でも、もうよくわからない。


 むしろ、安心だった。安堵だった。


 “あれで、終わった”と思った。


 けれど、そうじゃなかった。


 脳の奥で、何かが疼いていた。



 その日、ダニエルは学校からの帰り道を、わざと遠回りした。


 人気のない裏道。枯れ草が積もり、金網フェンスが風に揺れて軋んでいる。


 そこに、捨てられたようなガーデニング用の木箱があった。朽ちた木には苔が生え、地面には黒ずんだ落ち葉が積もっていた。


 何気なく覗き込んだその時。


 ひときわ鮮やかな紫色の葉が目に入った。


 小さな花が咲いていた。


 見たことのない、不気味な美しさだった。


 地面すれすれに咲くその花の名を、ダニエルは知らなかったが、脳裏にあった“ある知識”が呼び起こされた。


 ——毒草。


 学校の図書室でたまたま見た本に、似た花が載っていた。


 毒をもつ植物。摂取すると、心拍が乱れ、呼吸が止まる。少量でも危険なものがある。


 手が、勝手に伸びた。


 そっと葉を摘み取る。柔らかいのに、どこか冷たくて、吸い込まれそうな質感だった。


 「綺麗だな」


 ぽつりと、呟いた。


 罪の味がする。そんな気がした。



 帰宅後、ダニエルはネットを開き、調べた。


 名前は「ベラドンナ」。


 毒草の中でも特に強力な種類であり、中世では毒殺に使われていたという。


 読めば読むほど、その花が“力” に思えた。


 自分を、守ってくれるかもしれない。


 もしまた――誰かが父を笑ったら?


 もしまた――あの顔で、自分を見下ろしてきたら?


 今度は、最初から武器を持っておく。


 もう、あんな風に脅されるのは嫌だった。


 もう、怖い思いをするのは嫌だった。


 今度は、自分が最初から強者としてそこに立つ。



 机の引き出しの奥、ノートの下に、小さな密封袋を隠す。


 その中には、すでに乾かされ、砕かれたベラドンナの葉が、砂のようになって収められていた。


 ダニエルは、それを見つめながら、何度も繰り返した。


 「ぼくは悪くない」


 「ぼくはただ……守ってるだけなんだ」


 そう唱えるように、言葉を呟き続けた。


 それが、祈りであるかのように。




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