グノシエンヌ幻想
──、また、雨が降っている。
そんな時に流れるサティの〈グノシエンヌ〉。
何故かいつも、濡れる校舎に響いていた。
僕は何かを憶い出そうとする。でも、記憶の箱には鍵が掛かっていて、蓋はぴたりと閉められている。過去は無言で、暗闇に佇んでいる。
「ねえ、ミドリフチ君、聞いてる?」
はっと我にかえる。教室の黒板を背にし、教卓に両手をついて、栗原スズノが僕の眼を覗き込む。まるで先生のようだ。
「みんな、もう、帰っちゃったよ」
スズノは左耳の後ろに髪を流しながら、心配そうな顔をした。
「……、あのさ、放課後になると音楽室から聴こえてくる、ピアノの旋律って」
「ああ、あれ。エリック・サティの〈グノシエンヌ〉だよ。たしか、サティが生前作った3つのグノシエンヌの、一番初めの曲」
「いや、それは興味ないんだけど、誰が弾いてるのかな? ずいぶん下手くそだと思って」
「そっちかい」スズノは大袈裟に肩を落として口をへの字にした。「あれ、化学のミズカミ先生だよ。ぜんぜん上達しないよね。でも、好きな人に聴かせたいらしくて、ずっと練習してる、というのがもっぱらの噂」
本当のところはよく知らない、と言ってスズノは帰り支度を始めた。
その時、図書委員の小牧フタバが教室に入ってきて、同じ委員の僕に何かを言った。
「え?」声が小さすぎて聞こえない。
しかし、隣にいたスズノが大きな声で、「これから図書委員の集まりがあるんだってさ!」と代弁してくれたので、言いたいことが理解できた。二人の性格は対照的だ。
フタバが抱える本を僕が代わりに持ってやると、スズノはなぜかふてくされた顔をして、ぷい、と教室を出て行ってしまった。
その間も雨は降り続き、ミズカミ先生が弾く〈グノシエンヌ〉は校舎に反響していた。
──、やはり憶い出せない。
学校からの帰り道、西武線の踏切が上がるのを待っていた。夕方の電車は下りと上りが交互にやって来て、踏切は〈開かずの扉〉となる。雨に濡れた赤ランプが点滅するのを眺めていた。
「あれ? ミドリフチ君じゃない」
すっかり私服に着替えていたスズノは、付けていたイヤホンを左耳だけ外した。彼女は幼馴染みで、うちの近所に住んでいた。
踏切は、まだ開かない。
少し化粧をしたのかな、唇がいつもより紅い。
「栗原は、音楽、いつもなに聴いてるの?」
「あ、これ?」イヤホンの片方を持って、スズノは僕の右の耳孔にイヤーピースを入れた。聞き慣れない言葉が飛び込んでくる。
「イタリア……、語?」
僕は驚いて彼女に訊いた。
スズノは頷いて、踏切の向こうを見ながら言った。
「私ね、高校卒業したら、イタリアに留学するの。美術の勉強をしに」
美術部で熱心に活動していたスズノらしい、きっぱりとした台詞だった。何故、美大じゃダメなのか、何故、イタリアなのか、いろいろと疑問に思ったが、僕は質問することをやめた。
「そうか、頑張れよ。俺はもうすぐ普通にセンター試験を受けて、普通の大学に入って、普通の人生を送る」
「それも、いいじゃない」
スズノはスマートフォンを取り出し、音楽アプリを起動させた。そしてまた、サティの〈グノシエンヌ〉が右の耳に流れ込む。
その時だった。スズノが遠くの空を見上げて嬉しそうな顔をした。
「ミドリフチ君、見て、虹」
雨はいつの間にか上がっていたのだ。踏切が開いても、二人はすぐに線路を渡らず、じっと虹の架かる空を見つめ続けた。
「私も、あんな幻想的な絵を描きたい」
──、幻想。そうだ、憶い出した。
世界は幻想に満ち溢れている。現実も美術も音楽も本の世界も、すべて繋がっているんだ。
──、グノシエンヌ幻想。
それは、未知の世界からの贈り物なのかもしれない。【了】