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ワンレップ、ワンステップ。

「さて。新入部員も現れたことだ。まずは、何から始めるべきかな。まあ、さしあたっては器具の使い方からでも――」


「いや、津田沼。やり方から入るのは良くないと思うぜ。ここにある器具全部の説明なんかしてたら、日が暮れちまうだろ。まずは筋トレの基礎知識から入るべきじゃないのか」


「馬鹿だな、お前。いやほんとに。それこそ基礎知識を一から説明するには、膨大な時間がかかるだろう。習うより慣れろ、だ。下手に知識から入るよりか、ひとまず使い方だけでも試しておくべきだ」


「いいや?」秋葉原はあくまで穏やかな口調を乱さないままに、しかしはっきりと苛立ちの念を交えて反論した。「そういう覚え方ってのは1番危険なんだよ。下手にやり方だけ知って、フォームがなっていないままそれに慣れてしまうと、怪我のリスクにつながる」


 雲行きが怪しい。


 マッチョの喧嘩が始まると、どうなってしまうのだろう。とても流血沙汰で済むとは思えない。

 人が死ぬ。


「まあ待てよ2人とも。喧嘩は良くないって。俺もこの数日間、きちんと筋トレについては予習を重ねてきたんだぜ」


 こーゆー事態に備えてな!


「おお、そうなのか? ……意外と真面目な奴じゃないか。見直したぞ。それじゃあ基本的な知識だとか、フォームなんかについてはある程度分かってる感じか?」


「あたぼうよ」


 やはり俺のやり方は間違っていなかったらしい。分かるかな、石塚くん? イケメンは手際までイケメンというわけだ。


「まず、基本的なセットの組み方は10レップ3セット。10回ギリギリできるくらいの重さで、インターバルを挟んで3セット行う」


「うん」


「まあだいたいそんな感じだな」


「そんで、毎日やらない。筋肉が大きくなるためには休養期間が48時間必要だから、1日おきにやる」


「それについては諸説ある」


「まあ間違ってはいないだろ」


「……んで、部活の筋トレとかでよくある、低負荷でいっぱいやるやつは全く効果がない。腕立て伏せとか」


「「それは違う」」


 なるほど俺の仕入れた知識は完璧……あれっ?


 いきなり否定された。しかも声を揃えて。


「なんでだよ。ネットでは間違えたやり方だって見たぜ」


「確かに筋肥大の方法としては効率的ではない。しかし、そうした持久力トレーニングを全面否定する風潮については誇大表現がなされている場合が多い」


「停滞期を打破する方法としても、しばしば有効性が認められる場合もあるしね。まあ諸説あるとしか」


 ふーん。


 なんか諸説ありすぎてよくわかんねーな。


「まあしかし、現時点で川崎が行うべきは、筋肥大のトレーニングだからな。それ以外については、体の基礎が出来上がってからでも問題ない」


「だな。まあ筋肥大トレーニングなら、ウェイトの方が効率的だし……津田沼、お前に任せた方がいいみたいだな。僕には専門外だ」


「おうよ――そんじゃ川崎。お前もそれなりに知識を蓄えてきたようだし、早速やってくか」


 津田沼と秋葉原は2人がかりで、バーベルに付けられた大量のプレートを外していく。全て外し終え、シャフトだけが残った。


「まず覚えるべきは、ビッグ3という種目だ」


 ビッグ3――それは、ウェイトトレーニングにおいて最も基礎とされる、3つの種目である。


 胸を鍛える『ベンチプレス』、脚を鍛える『スクワット』、背中を鍛える『デッドリフト』の3つで構成されるそれはトレーニーからの人気も高く、初心者から筋トレ廃人まで幅広い層で行われている。


 何故この三種目が基礎とされるのか――? それは、人体で最も大きな骨格筋とされる大胸筋、大腿四頭筋、大臀筋をメインターゲットとして鍛えられるからだ。


 筋トレにおいて、大きな筋肉を鍛えることは非常に重要である。


 大きな筋肉というのは、それだけ多くの運動エネルギーを生み出すことができる。

 ことスポーツなどにおいてもこれらの筋肉が生み出す爆発的なパワー、スピードが要となる。それゆえビッグ3はアスリート達の間にも広く浸透しているのだ。

 さらに、成長ホルモンの分泌にも大きな影響を促すことから、小さい筋肉を鍛えるよりも遥かに効率よくマッチョを目指すことが可能とも言われている。


 またビッグ3のように、2つ以上の関節が動員するトレーニングは『コンパウンドトレーニング』と呼ばれるが、そのようなトレーニングは動作を補助するために小さな筋肉も数多く動員する。ビッグ3を行うことにより、実質ほぼ全身の筋肉を刺激することが可能なのだ。


 まさしくビッグな三種目。


 これだけ行っていれば間違いのない、王道を征くワークアウト。トレーニングの中のトレーニングである。


「まずはベンチプレスからだ。本来ならスクワットから行った方がいいんだが、先だってバーベルの感覚というものに慣れてもらう」


「オーケイ。最初は、何キロぐらいがいいんだ? 50キロぐらい?」


 すると、マッチョどもは顔を見合わせ、困惑した表情を浮かべた。あれ? 俺変なこと言っちゃいましたかね?


「いや、試しだしな……2人がかりで補助につけば問題ないだろう。やってみるか」


「おいおい、大丈夫か?」


 正直なところ、この2人の反応は俺をあまりに舐めているのではないかと思われた。


 ベンチプレスの平均は、成人男性でおよそ40キロほどと言われる。

 もちろん、筋力なんてものは個人差が激しい。津田沼のような人外じみたゴリマッチョはともかくとして、世の成人男性は意欲的にベンチプレスを行う人ばかりではない。日常的に筋トレを行わない人間も多分に存在するわけだ。

 こんなことを言うのもなんだが、俺は割と運動ができるほうであった。そう考えると、世の平均を若干上回る50キロくらいは、なんとか一回程度挙げられるのではないだろうか。いや、一回挙がるのなら二、三回と挙がってもおかしくはない。


 フラットベンチに寝そべり、バーベルの下へ体を滑り込ませる。心なしか(というか明らかに)背面が湿っていた事について激しくげんなりとしつつも、俺はしっかりと眼前の標的を見据えた。


「いいか、まずはバーを握れ。間隔については、概ね肩幅よりも広い程度だ。バーに目印があるだろ? 俺は大体そこに人差し指を合わせるくらいを目安にしてる」


 ザラザラと滑り止め加工がされたグリップの位置に、一点だけツルツルとしたラインが入れられていた。なるほど、これで左右対称にバランスよく持つことができるらしい。津田沼の指示通り、早速バーを握りこむ。


 生まれついて初めてバーベルを握った感想。それは、ただひたすらに、冷たいということ。

 凍りつくような感覚が神経を通り抜け、頭頂葉に皮膚感覚として入力される。硬く、ゴツゴツとした肌触りは一点の優しさも持ち合わせず、ただひたすらに肉体を苛め抜く道具として造られたのだということをありありと感じさせた。まさしく鉄塊。鋼鉄そのものであった。


「うし。――――いくぜぇ」


 ――渾身の力を込めて、俺は鋼鉄を持ち上げた。




 持ち上げた。




 持ち上げ……。




 持ち……。




 んん?


「…………~~~~ッッッッ!!???」


「ああー、こりゃ駄目っぽいな。重量落とすか」


「ま、待てって! あとちょいなんだって」


「ミリも上がってないじゃないか」


 おかしい。こんなはずはない。


 あくまでナメてかかっていた訳ではないということを、ひとつ忠告させてもらおう。

 俺が全身全霊をかけたそのワンレップは、鋼鉄のバーベルを微動だにさせなかった。さながら、バーベルがラックにへばりついているかのごとき手応えである。溶接されてるんじゃないのか? しかしそれほどまでに、重い。

 津田沼と秋葉原は、慣れた手つきでシャフトからプレートを外し、小さなプレートに付け替えた。いや小さい。はるかに軽量化を果たしたバーベルには、いっそ微笑ましいとさえ言える控えめなプレートが取り付けられていた。


「30キロだ」


 30キログラム。

 重さにして、米俵1つ分。2リットルペットボトル15本分。小学生1人分に相当する重量は、大の高校生が持ち上げるというにはあまりに情けないように思われた。


「20キロも落とすのか? 一回だけでいいから40キロも試させてくれよ」


「いやー……無理だな。30キロを試してみて、行けそうだったら35キロもやってみようか」


 40キロは不可能だときた。

 前述した通り、世の男性がプレスできる平均重量、40キロ。それを下回る30キロをして挙上出来なければ、さすがに恥ずかしい。恥ずかしさのあまりバーベルを首に落として死ぬだろう。


「……分かったよ。なら何としても、1レップと言わず2レップでも3レップでも、ぶち上げてやるぜ」


「まあ見たところ30キロは挙がるとおもうぜ。女子でも挙がる人は普通に挙がるしな」


 女子でもて!

 それほどまでに俺は貧弱だったと?!



 さて、心の準備は整い、息も整い、頭上のモンスターに立ち向かう心構えはバッチリだ。

 バーをあらためて握り直し、冷たさを噛み締めながら、腕に力を込める。すると、ふわり、とラックからバーベルが浮かび上がった。


 挙がる! 先程の暴力的な重さに比較すると、圧倒的に軽い。

 しかし、そう思われたのもつかの間。真っ直ぐと腕を伸ばし胸の上に挙上されたバーベルが、揺れる。右に、左に、激しくグラつく。


「落ち着いて、まずはバランスをとれ」


 バランスをとれって言われても――これ、非常に難しい。バーベルを上げ下げするだけの単純な種目かと思いきや、存外にバランス感覚が求められるらしかった。なんとか暴れ馬を抑え、ピタリと静止させる。


「よし、ゆっくりと下ろせ――――」


 強烈な負荷。

 それは、腕を曲げた瞬間襲いかかってきた。さながら万力のように挟み潰そうとする鋼鉄のモンスターは、しかし確実にゆっくりと、制動のかかった速度で胸まで落とされた。


「よし! 良いぞ、挙げろッ」


 持てる力、全てを注ぎ込む。必死で横へ逃れようとするアイアンゴーレムを、俺の両手は捕らえて離さなかった。ゆっくりとだが、正確な挙上――――!


「いいぞ! オーケーだ。ラックにかけろ!」


 初なるワンレップは果たされた。

 すっかり抵抗を忘れたモンスターはラックに横たわり、静かな鉄の塊に姿を戻している。


「ふう、なんとか……ってところだな」


「いいや、フォームとしては悪くなかったぜ。まあ欲をいえば、もう少し肩甲骨の引きが大切かな。そういう細かいフォームについてはおいおい教えていこう。重量についてはまだまだだが、神経系が発達するにつれてもっと挙がるようになるはずさ」


「これで本当に、トレーニーの仲間入りだな、川崎」


 人生初の、ベンチプレス。

 疲労感もなかなかに凄まじいが、それ以上に、達成感が俺の中を突き抜けた。これが、これこそが本当にはじめの一歩である。


 同時に、途方も無い道のりが眼前に開けるようであった。30キロで、これだけの重さである。対する津田沼は10倍以上の重量をぶち挙げるのであるから、まさしく天と地の差を思い知らされた。


 重力への反逆。


 それがいかに偉大なる行為であることか、俺は後に何度も思い知らされることとなる――。

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