マッチョの聖域。
さて、田中率いるボクシング部との確執についてはひとまず落ち着いたところではある。
しかしながら、クラス内における俺の評判は相変わらず奮わない様子であった。
「(川崎君なあ……そう、例の3年と。体育館裏で上裸になって……)」
ひそひそ。
「(あのやたらとデカイ3年いるじゃん? そいつらのいるとこ、あの怪しい部活に入ったって……)」
ひそひそひそ。
「(川崎君ってけっこーやべえやつなのな。顔はいいのに、なんかちょっと……)」
学校を休みたいのはやまやまであったが、入学早々にそんな事をしていたら不登校ルートまっしぐらであろう。だいいち、親に何と説明したものか。
隠キャはなんでそこまでして学校に来るの? 頑張るねェ!w なんて思っていた頃が懐かしい。第三者と当事者とでは見る世界にマリアナ海溝よりも深い隔たりがあるのだと気付かされたのは、他でもない自分自身が隠キャの地位にまで成り下がったからである。悲しいかな。
しかし、高校生活から全ての希望が失われたわけではなかった。
1つは、かろうじてクラスにも仲良くしてくれる人間がいることだ。
中学からの腐れ縁の、石塚。件の事件においては散々俺を裏切ってくれるという薄情さというか、クズっぷりを見せつけられたものの、中学来の友情というものはそう簡単に崩れるほど安いものではない。ファミチキを2つ奢ってくれたので許した。
「そんなわけでさー。俺は昨日バド部の体験入部に行ってきた訳よ」
「ほーん?」
「もう、まんまとファックだったわ。いや、ヤッたって意味じゃなくてな? 最悪だよ。心先輩どころか、可愛い女子なんて1人もおらんかったわ。全滅」
「うせやろ?」
「ほんとほんと。まあ実際に心先輩は入部してるらしいんだよ。でも幽霊部員な? 楽って言ってたのは、自由に休めるからって意味で言ってたっぽいわ。見学してみたら、ガチ勢の―巣窟w てか体験入部のくせに、俺も練習参加させられて、もう汗まみれよ。ほれ見やれや、全身筋肉痛」
「おんやぁー……って知らねーよ。わかんねーよ筋肉痛なのかどうか」
なるほど。馬鹿というのは恐れを知らないゆえに、時として非常に心強い味方となるものだ。俺の評判も大して気にすることはなく、以前と変わらず接してくれるというのは本当にありがたい。心先輩には騙されてるし。ざまあ。
「てか川崎、お前の方こそどうなんよ?」
「何が?」
「いや、例のマッチョ部よ」
「ああー……それなあ。まだ行ってないんだよな」
「え、マジで?」
俺が入部を決めたあの日から、数日が経過していた。無論、行かないつもりはないし、仮入部届けはとっくに提出してある。
「あらー怖気づいちゃった?w」
「んなわけねーよ。いつでも良いって言われてたからさ。それに……」
「それに?」
「やっぱ知識ゼロでいくってのも、何かと迷惑かけそうだろ? 俺なりに勉強して、ある程度知識をつけてから行きたいってのもあるんだよな……って」
「えっ真面目ちゃんかよ。きめえー……」
ドン引きされた。いやいや、石塚にそんな事を言われる筋合いは無いのだが。巨乳の先輩に掴まされた偽情報をまんまと信じるような輩に、俺の努力を嘲笑する資格など断じてない。
「てか川崎。そういう情報こそ、そのマッチョから教えてもらえばええやん? それこそ先輩だって、筋トレの仕方を教えたくてうずうずしてるに違いないと思うんですがどうですかね?」
「いーんだよ俺のやり方なんだよ」
「知識だけ先に詰め込んでもねえー。続かないぞ?w」
さてはこいつ、経験者だな?
挫折した経験をお持ちだな?
まあ馬鹿との会話はさておいてもよろしい。つまるところ、もう1つの希望というのがその筋トレ部とやらである。
部長の津田沼は仮入部届けを渡す際、来るのは気が向いた時で構わないと言ってきた。まあ言われなくともそうするくらいの気楽さで挑もうとは思っていたのだが、やはりやると決めたからには、ある程度筋トレというものに対して真摯な心構えで取り組まねばなるまい。
ここ数日間、俺は俺なりのやり方(主にネット)を駆使して、筋トレに関するありとあらゆる情報を集めていた。
まあ分かったような分からないようなだいたいそんな感じのふわふわした知識しか集まらなかったが、取り敢えずひとつだけ確実なことがわかった。
あの2人は、並みのボディビルやフィジークのレベルをはるかに凌駕する、化け物だ。
そんな人間離れしたマッチョから素質がある、なんて言われた日にはなるほど、俺にもたしかに筋トレの才能があるのかもしれない、などと期待を抱いてしまうのは致し方あるまい。
そろそろ筋トレに対する認識もかたまってきたことである。頃合いだ。
HRも終わり、俺はクラスのヤンキーグループと行動を共にすることなく、足早に筋トレ部の部室へとむかった。
まだ入ったことはないが、場所については把握してある。確か、体育館のとなりの建物の中にあると聞いた。
しかしいざ来てみると、ここに筋トレ部の部室があるのか? と疑問に思うほど、道場じみた造りの建物だった。というか、外観は道場そのものといった風である。
引き戸を開けて中へ入る。なるほど。これは立派な柔道場である。しかし練習に勤しむ柔道部員は1人も見当たらず、閑散とした雰囲気が立ち込めていた。あれ、場所間違えた? もしや俺も石塚同様、偽情報に踊らされたピエロに過ぎなかったのか。
という疑念はすぐさまぶっ飛んだ。道場の奥にある扉の向こうから、この世のものとは思えない雄叫びが聞こえて来たからである。
「ラストォ」
「ッオ”オアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!!」
えっ。
なにこれこわい。
すぐさま柔道場を飛び出して、速やかな帰宅を検討されたいところであった。
しかし、まるでマッチョがひりだしたかのような図太い雄叫びは聞き間違うこともなく津田沼のものであり、なるほどマッチョの雄叫びに他ならない。嫌々ながらも奥の扉へ向かい、ドアを開くとそこにはゴールドジムが広がっていた。
いやゴールドジムでは無いのだが、部室には存外に立派なトレーニング設備が整えられていた。
頑強なパワーラック。プレスベンチ。数種類のトレーニングマシン。チンニングバー。錆のないバーベルシャフト、ダンベル。概ね整理して置かれた各種プレート。握力のニギニギするやつとか、他なんかよくわからないやつまで。それは学校に備えられたトレーニングルームとしてはなかなかに豪華。想像していた5倍くらいは良かった。
そしてなによりもこの空間に似つかわしい、マッチョ。アンドマッチョ。むさ苦しい空間をさらにむさ苦しくすべく、加湿器のように湿気を振りまいているのは、汗だくの津田沼。ベンチに座り込み、バーベルシャフトに大量のプレートが装着されているところを見ると、相当な重量でベンチプレスをしていたことが伺える。さっきの雄叫びはその際に発せられたものとみた。
「お、おう。来たぜ」
「……ッハアッ、遅かったな、ッハー、川崎ふう」
「来ないかと心配しちゃったぜ」
息も絶え絶えの津田沼に対し、涼しげな声で迎えてくれたのは秋葉原。ベンチプレスの補助をしていたらしい。
「……なんか、いきなりスゲーな。そのバーベル、なんキロ?」
「250」
「……はっ?」
秋葉原がさらりと言うので、一瞬耳を疑ってしまった。250グラム? まさか、そんなはずもあるまい。巨大なプレートがフルカスタムされたバーベルは確かに、250キログラムの質量を肌で感じさせるほどに威圧感を放っていた。そりゃあまあ、金属製のシャフトがたわむ訳である。
「……本当にスゲーんだな、あんたら。ベンチプレスなんて、100キロを越えれば相当なマッチョだって調べたぜ?」
「まあ、100キロを超えるだけでも相当な努力が必要だぜ。僕からしても、コイツのパワーは怪物レベルだしな。認めたくはないが、こいつのベンチMAXは300キロを超える」
なん…………300!?
それは生物的に、そもそも可能なのか?
「ふーっ……。俺だって、まだまださ」
「そいつァ嫌味だね」
津田沼はスポーツドリンクをぐびぐびと飲み干し、タオルで大雑把に汗を拭った。
俺は用意しておいたジャージに着替えた。学校指定の、芋っぽい例のジャージである。
さて、準備は整った。やる気は万端である。
さあ、早速筋トレスタートと洒落込もう。