1rep目3/3—そしてそれは伝説の始まり。
翌日。教室に入るや否や、すぐさま異様な雰囲気を察せられた。
まるで入学式のような、そわそわとした雰囲気。あの浮き足立った空気に逆戻りしていたのだ。クラス総員が隠キャと化している。
なによりおかしいのは、誰一人として俺と目を合わせないこと。おかしい。中学時代であれば、あまりの存在感ゆえか、俺が教室に入った瞬間クラス中の女子が振り向いたというのに。
隣の席の山崎に「おっす!」と挨拶すると「お、おう……」と浮かない返事を返してきた。あれれ?
「あ、川崎」
石塚がおずおずと声をかけてくる。こいつ、昨日は散々俺を裏切っておきながら、よく声をかけてこられるもんだw
「大丈夫なわけねーだろwww マッチョには部活に勧誘されるし、カラオケには変な奴しかいなかったしさー」
「川崎い……そいつらだけどさ」
「おいっ石塚……」
クラスメイトに制止され、石塚ははっとしたふうに「ごめん」とだけ呟き、自分の席へ戻った。どういうことだ? ひょっとしてひょっとすると、俺は避けられているらしかった。
まさかとは思うが。
例の3年の差し金じゃ「おい川崎ィーーーー!」教室の入り口から俺を呼ぶデカイ声。びっくりしてそちらを振り向くと、記憶に新しい例の田中はんの顔があった。
「川崎精飛愛ーー!!!!」
教室中がしんと静まる。目を伏せたまま、誰も顔を上げない。なるほど、悪い予感は的中したようだ。
「なにか用っすか」
「おう、川崎君。昨日はどうもなー。さっそくやけど体育館裏行こうや。ベタだけど」
「いや、これから授業っすよ……今行ったら遅れちゃいますって……」
「授業とかサボれや。真面目かよ」
どうやら拒否権など与えられていないらしい。田中の背後から続々と現れるボクシング部のメンツ。この場は、田中の言葉に従うほかなかった。
ボクシング部にガッチリと腕をホールドされ、なかば強制的に歩かされる。どうにか途中で教師と出くわさないものかと心から願ったのだが、流石は底辺校、教師のやる気も底辺である。巡回している教師など一人もいなかった。
「うっし。ここらでええか」
体育館裏についたあたりで、ちょうど始業のチャイムが鳴る。そうそうに授業をサボってしまった危機感などたいした問題ではない。
俺は果たして、生きて教室に帰ることができるんだろうか?
「早速で悪いなあ。川崎くん、金貸してくんね?」
「随分とベタベタじゃないっすか。体育館裏に呼び出してみたり、金銭を要求したり」
「おっ強気やねえ。さては昨日のアレで小遣いが根こそぎ吹っ飛んで、なかばヤケクソと化してるところかな?」
「そんなとこっすよ」
まさしく、今の俺にはヤンキーに恵んでやる金などなく、それどころか今日の昼飯代すら危ういところだった。
「でもなあ。タダで帰すってわけにはいかないで。お前の態度といい顔面といい、俺は今最高にキレてる」
「田中はん、コイツどうしちゃいますか?」
「そうやなァ……」
田中はニタリと、下品な笑みを浮かべた。しかし眼差しは依然として、冷たく俺を睨みつけている。
「川崎、脱げ。さしあたって今日は撮影会や。お前を立派な芸術作品に仕上げたる」
ゲイ術作品?
俺は肛門がヒュンってなった。
「ちょ、ちょ、ちょ待ってください! まだ心の準備が————」
「おらッ‼︎ 川崎ぃ脱げえ!」
げし、とボクシング部の前蹴りが太ももに入った。シンプルに痛い。ボクシング部が蹴りってそれいいんですか?
「痛……ッッ」
「さっさとせえ川崎ィ。俺はチンタラしたやつが大嫌いなんや」
「川崎くん頑張れwww」
「川崎くん男優デビューやあw おめでとう!」
なかなかいいところに蹴りが入ったらしく、脚に力が入らない。ガクガクと震える脚でなんとか立ち続ける。ばったり倒れたほうが楽だったのかもしれないけど。しかし、わずかに残されたチンケなプライドはそれを良しとせず、よろめく体に鞭を打った。
ブレザーのボタンに手をかける。1つづつボタンを外す。ブレザーを脱ぎ捨て、ワイシャツのネクタイを緩めた。
「惨めやなあ、川崎」
惨めだった。
どうしてこんなことになっているのだろうか。本来ならば今頃、退屈な授業を受けて、放課後クラスメイトと遊びに行ったりして、そんな普通な日々が過ぎるはずだったんじゃないのか? 女子とボウリングしたり、石塚の馬鹿に飯を奢らせたりしてたはずじゃないのか? バドミントン部に入って、心先輩のおっぱいの揺れる様を見学しているはずじゃなかっただろうか?
楽しい高校生活の未来はどこへいった?
そんなものはもうない。
あれ、俺今なにしてたんだっけ。
なんで体育館裏にいるんだっけ? 田中とかボクシング部って誰だっけ? 昨日は楽しくカラオケして帰ったんじゃなかったっけ。
……やばい、現実逃避をしてる場合じゃないんだって。
「貧相な、体やなあ」
すっかり服を脱ぎ捨てて上裸になった俺。そんな俺をみて、田中が発した第一声はそれだった。
細い腕。うっすらと浮いたあばら。薄すぎず厚すぎず、極めて標準的な皮下脂肪。白い肌。なるほど、これは、今まで自分が認識していた以上に、貧弱そのものだった。
対する田中の肉体は、アスリートと見紛うばかりの立派な体躯であった。
鮮やかに割れた腹筋は一パックごとにボリュームを帯び、その境目がくっきりと浮かび上がっている。
しかし真なる存在感を放つのは、腹筋の上に鎮座する偉大な大胸筋であった。6つもある腹筋に比べて、たったの2つ。しかし数などまるで問題にはならない。あれほど大きく発達した腹筋すら慎ましやかに思えるほど、圧倒的で破壊的なボリュームを持った大胸筋こそが、まさに雄たる象徴であると言わんばかりである。巨大を超えて、雄大そのものだった。
というか冷静に考えてみると、田中も制服を脱ぎ捨てて上裸になっていた。
どうしてお前まで脱いだ。
「俺が大好きなことの1つはなあ……川崎。面がいいからってイキがってるクソガキに対して、首から下の現実を教えてやることや。服の下に隠された真実。巷では細マッチョだなんだ持て囃されているが、実際のところ、お前のそれは細マッチョやない。ただのガリガリや」
「ぐっ……!」
「結局はなあ、みんなお前を面だけで判断してるんや。服を脱いだらさぞがっかりすることやと思うわ。首から下がこんなに貧相じゃあ、彼女も欲求不満になるだろうよ……なあ川崎。真の男とは、真にイケメン足り得るには、強さこそ不可欠。そうは思わんか?」
田中の顔を見ると素直にうんとは言えないが、しかし田中の肉体美を見せつけられては一理あると言わざるを得ない。同性の自分から見ても、その筋肉は格好いいとしか表現できなかったからだ。
そしてはっきりと思い知らされた。自分は、親から与えられた顔の良さだけでイキっていたクソガキに過ぎないのだ、と。
「……さあ。要求には従った。あとは煮るなり焼くなり好きにしろよ……」
「ああん? なに言ってるんや。まだ足りんやろ」
「……えっ?」
「下も脱げ」
なん……だと?
「田中はん、そりゃまずいっすよ! 下まで脱いじまったら、芸術作品が18禁になりますわ!」
「芸術作品なんて脱いでナンボのところやろ。ミロのヴィーナスには年齢制限も、モザイクも必要あらへん」
そういう問題じゃねーだろ!
「さあ、川崎ィ。男見せろや」
「泣くな、川崎くんw 応援してるぞー!w」
「はよせえや川崎ィ!」
もはや、ここまでらしい。
俺の心は既に、全てを諦める用意が完了していた。
ゆっくりとベルトに手をかけ、そして——
空気が歪んだ。
いや、表現に正確さを追求するならば『歪められた』と言うべきだろうか。
ブラックホールは、余りに巨大な質量ゆえ自身が重力によって押しつぶされた天体である。このことについて存じ上げているなろう読者も多いだろう。
重力というものは大きさを増すにつれ、空間を歪め、光すら捻じ曲げる。果てには光すら脱出不可能になる為、ブラックホールは不可視の天体として宇宙空間に紛れているのだ。
しかし、光を歪めるという特質上、ブラックホールは間接的にその存在を顕す。レンズのように光を捻じ曲げることで、地球に届く天体の光を増幅させることがあるのだ。この現象は重力レンズと呼ばれ、1936年のアインシュタインの論文により世間の脚光を浴びた。
巨大すぎる質量は、空間を歪める。
しかしそれが人体のサイズで起ころうなどとは、俺はとても信じられなかった。現に今も信じてはいない。しかし俺は、この目で目の当たりにしてしまったのだ。校舎裏に突如として現れた2人の巨人が、ぐにゃりと空気を歪ませる様を。
「確かに、貧弱な体だ」
声の主を見なくとも、その容貌をありありと思い浮かべることができただろう。それほどまでに、重く図太い声はその持ち主の有様を反映していた。声帯まで筋肉で出来ているのかと、疑うほどだった。
「しかし、その裏側に隠れた骨格は非常にしっかりとしている。太く、しなやかで、幼少期の食育が大変よかったものと推察される。骨格は筋トレにおいて重要な要素だ。長い大腿骨は大腿四頭筋を、長い鎖骨は大胸筋、広背筋をより多く蓄えることができる」
「なッ…………」
田中はただただ、驚愕した。俺は呆然とした。外しかけのベルトのバックルが手から滑り落ち、垂れ下がった。
「何故てめーらが来たッ、筋トレ部ッッ‼︎‼︎‼︎」
その一瞬は、俺のあらゆる価値観を書き換えた。それは一生涯にわたって変わることのない価値観となるだろう。
あれほど雄大だった田中の胸筋は小さく萎み、その下では控えめな腹筋が恥ずかしげになりを潜めている。アスリートか、ともすればフィジーカーとも思われた筋肉は、なんてことはない、ただの細マッチョだ。
対するは、災害クラスというか、戦略兵器レベルというか、要すればゴジラの襲来であった。はるかな地平にそびえるヒマラヤ山脈どころではない。その地表には地平など存在しなかった。全てがエベレスト。破壊的に隆起したマッスルは深く刻まれたカットをより際立たせていた。全身がキレていた。
どうして。
どうしてお前らも上裸なんだよ!
「何故? ……愚問だな。彼はウチの部員だ。部員が襲われているというのに、駆けつけない先輩などいまい」
入部してねーよッッッッ!
「津田沼ァ……あんた、馬鹿やで。それに、こんな貧相な奴のためにそこまでするなんざァらしくもないわ。川崎1人のために、不文律を破るつもりか?」
「(不文律……?)」
「(……名楼高校には、強大な力を持って校内を牛耳る影の二大勢力があるんや。それがまさに、ボクシング部と、筋トレ部。しかしお互い強力な力を持ちすぎたゆえ、それぞれに干渉し合わないという不文律が生まれたんや)」
小声で解説してくれたのは、ボクシング部のヤンキーだった。優しい奴なんだかヤンキーなんだかよくわからん。優しいヤンキーなのか。
「我々がボクシング部に介入しないのは、お前らの力が校内の治安維持に一役買っているからだ。しかし、お前らが自らもって不祥事を起こそうと言うのなら、それを止めないわけにはいかない」
「そうかい……」
田中の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「そいつは、願っても無い事態や。一度くらいはあんたらと全力でぶつかってみたい。そう、常々思っとったんやな……おいっお前ら!」
田中の一声に、ボクシング部総員が呼応する。まさか、こいつら……!?
「5対1や。もとより、タイマンでお前らバケモンに勝てるとは思ってない。せやけど、数はこちらの方が上なんや」
「津田沼……」
巨人の双頭、秋葉原が津田沼を向く。しかし、津田沼はそれを制して、
「俺1人で、充分だ」
そんな馬鹿な。あの人数を、たった1人で相手にすると言うのか?
確かに津田沼の体格は凄まじい。そんな荒技も可能と思わせるほどの説得力がある。
しかし、田中とて相当鍛え抜かれた体を備えており、おそらくはボクシングの技術も一級だろう。そして田中同様に、日々鍛錬を怠っていないであろうボクシング部員の面々。いかに超人ハルクといえども、アベンジャーズ全員を相手に回して勝てるとは思えない。
「くくっ、随分と舐めてかかってるやないか……ええで、後悔しても知らんわ——ッッ」
刹那、猛然と閃いた田中のステップが、津田沼との間合いを一瞬にして詰めた。
疾い。
同時に、田中のステップに合わせてボクシング部員が二手に分かれる。
津田沼の右から、左から——そして前方から迫り来る攻撃。もはや完璧なるコンビネーション。ボクシングとは、タイマンの競技ではなかったのか。
一瞬のうちにゼロ距離まで迫った田中。左足を踏み込むと同時に、完璧なタイミングでジャブが繰り出され————
全体重を乗せた渾身のジャブは、津田沼のみぞおちに深くえぐり込まれた。
……かのように思われた。
「なんッ————??!」
津田沼は一歩、前に踏み出していた。それはおそらく田中のステップと同タイミングだっただろう。
目測を誤ったジャブは完全に伸び切らず、津田沼の腹部に充分なインパクトを伝えることができなかった。
いや、だとしても恐ろしいほどの威力を伴っていたはずだ。にも関わらず、微塵もダメージが入っていないところをみると、あの核シェルターのような腹直筋に全ての衝撃が吸収されてしまったのであろう。
「悪い癖だな、田中。ジャブ程度じゃ俺は倒れんよ」
攻守、交代。
——月並みな表現だが、その光景は建築現場のクレーンを彷彿とさせた。
田中の左腕を鷲掴みにする、巨大な右手。あろうことか津田沼は、そのまま右手を高く振り上げた。
人体というのは存外重いものである。一般的な成人男性でも60〜70キロはあり、田中ほどの恵体ともあれば80キロはあっただろう。
現代における表現として適切であるかどうか今ひとつ微妙なところではあるが、米俵なんかは1つ30キロほどの重量がある。持ったことのある人ならお分かりだろうが、1つ抱えるだけでもやっとこさのことと感じるはずだ。
あるいは、米俵一つの重量を表すのに、2リットルペットボトル15本と言い換えてもよい。つまり、田中1人を持ち上げることは米俵2〜3個、もしくは2リットルペットボトル40本を持ち上げるのに匹敵するのだ。
ここまで説明すれば、人間1人を片手で吊るし上げる腕力がいかに人智を超えているかお分かりいただけたであろう。
それも、抱え上げるのではない。両手を使うのでもない。片手で、まっすぐと田中を釣り上げているのだ。その姿を表現するには、重機の名前を用いなければならぬほどに、津田沼は人間をやめていた。
「俺のショルダープレスのMAXは、200キロだ。チートを使えばお前程度の重量、片手でフロントレイズするにも造作はない」
「んな、世界レベル、やんけ……」
——戦意の、喪失。
こと戦闘においては、致命傷以上に決定打となりえる一撃である。
吊るし上げられた田中はもちろんのこと、ボクシング部の誰もが、津田沼に勝利するというビジョンを失っていた。
しばしの時間が流れ、津田沼はごく丁寧に、労わるように田中を降ろした。
その様は、高い高いした息子を降ろしてやる父親の如く——いや、老人を優しくベッドに横たえてやる孫娘の如く、穏やかなものであった。
「……おい、お前ら」
静かな声。田中の口から発せられた静かな声からは、まったく闘争心が失われていた。
「負けだ。引き上げるぞ……」
静かなる勝利。穏やかなる敗北。
俺を巡る二大勢力の衝突は、極めて紳士的なる一撃で幕を閉じた。
「さて、邪魔者は片付いたな」
津田沼は事もなげに、さらりと言い放った。5人のボクシング部を相手に戦った後とは到底思わせない口ぶりである。
「どうして俺が、あいつらに襲われてると分かったんだ?」
「いや、シンプルに尾けてただけさ。本当はもっと早く登場する予定だったが、いい加減制服のサイズが小さくなってきたもんで、脱ぐのに手間取ってしまった」
「申し訳ないな、川崎君。こいつ、馬鹿だから」
そう言って、秋葉原は津田沼に軽く毒づいてみせた。ははっ、そんなこと言って、あんたもちゃっかり上裸じゃねーか。
なんというか、なんだろう。ふと空を見上げてみた。すっきりと雲一つなく晴れ渡り、春の陽気が風とともに体育館裏を吹き抜ける。木漏れ日がちらちらと顔をくすぐって、なんだか眩しい。
楽しい高校生活の未来はどこかへ行ってしまった。でも、俺の中に芽生えたその価値観は、選択肢は一つではないのだと、確かに告げている。そんな、そんな気がしていた。
「津田沼さん、秋葉原さん」
「なんだ?」
「俺を、筋トレ部に入れてくれないか」
きっと、人生には気付かずに見過ごしてしまう分岐点というのが数多く存在するんだろう。
あるいは、一生出会う事のない価値観や、思想。生き方ってやつがそこら中に転がってる。
そのどれが正解なのかなんて知ったことじゃあない。きっと、大切なのは出会う事。それに気がつく事。そして気がつかせてくれたのは、他でもないこのマッチョ共。
感謝するにはまだちと早いが。きっと、新しい何かが始まる。新しい世界が待っている。確かな予感が、俺を包んでいた————
「もちろんさ。頼まれなくたって、強制入部させてやるぜ」
「よろしく頼むぜ、川崎君」
「ああ。こちらこそ——————!」
そしてそれはきっと、伝説の始まりである。
つまるところ、筋肉とはパワーであります。
読者諸兄におかれましても、その事実については十分にお分かり頂けたことだろうと思います。ただ、筋肉について素晴らしいと感じるだけでは物足りない! そう思った読者様もいらっしゃることでしょう。
この小説を読んでいただくにあたり、画面の向こうの皆様にも並行してワークアウトを実施していただくことを熱く推奨いたします。
そうすることで、より深い筋肉への理解と、感動を得てもらうことができるのではないかと、私は心から信じております。
そう、伝説とは画面の向こう側だけで起こるものにあらず。あなた自身が伝説を創ってゆくのです。
〜本日のワークアウト〜
•腕立て伏せ×限界数
•腹筋×限界数
•スクワット×限界数
では、よいバルクアップを。