平和な世界は、二度と戻らないかもしれない
それでも、ついでに勇気を振り絞ってその場で麗を抱き上げ、自分の膝の上に横抱きにして乗せてあげた。張り倒されたら笑ってごまかすつもりで。
「まあ!」
張り倒されることはなかったものの、麗の頬はいよいよ赤くなった。多分、自分はさらに真っ赤になっているだろう。
……九郎は茹で上がった頭で、そう思った。
「麗は覚えています」
膝の上に横向きに座った状態で、麗は囁くように述べた。
「なにを?」
み、耳元で囁かれると、吐息を感じていろいろ困る。
「九郎さまが、麗のコンサートや舞台に来てくださった時のこと、全て。一年前はまださほど人気もなかったのに、デパートの催し物会場にまで、麗を見に来てくださいましたね?」
「あれ、覚えてたのかっ」
さすがに感激して、九郎は呟いた。
もう遥か昔のような気がするが、あれからまだ、一年しか経っていないのだ。
「あの時、会場にお客様は四人しかいませんでしたわ。なのに、どうして忘れるでしょうか」
麗はくすっと可愛らしく微笑んだ。
「とはいえ、会場があの頃とは比べようもなく巨大化した時でも、九郎さまがいらした時には、麗は九郎さましか見ていませんでした」
「うわぁ……俺の気のせいじゃなかったのか」
ライブ会場や某ドームコンサートなどへ足を運んだ時、ヤケに霧夜麗の視線が飛んでくる気がして、九郎はすっかり、己の自意識過剰を疑っていたのだ。
感謝の気持ちが思わず表れたのか、九郎の腕に力が入った。
横抱きにした麗のウエストは有り得ないほどか細く、それでいて手に伝わる感触はヤバいほど心地よい。いつまでも抱いていたいほどだった。
だいたい、膝の上に乗ったお尻の感触がとんでもない。
いつまで冷静でいられるか、全く自信がなかった。
「俺、今誰かが『全部嘘でしたぁああああ』とか札持って横から出て来られたら、がっかりして死にそうだな」
緊張をごまかすためにも、九郎は何気ない口調で呟く。
「嘘でも幻想でもありません。九郎さまは、元の世界で確かに一度は、世界を統一されたのです。必要な修練も試練も、そして戦いの痛みも、御身は既に経験済み……必要なことは、元のご自分を思い出すことのみですわ」
気持よさそうに目を閉じ、麗が囁いてくれた。
まあ、そう聞くと確かに九郎も心強いが……問題は、いつ思い出すかだろう。
麗だって、十歳になるまで転生前の記憶を思い出さなかったと聞く。下手すると九郎の場合は、今後死ぬまで記憶が戻らないかもしれないのだ。
(少し前なら、それでも問題ないと言えたんだが)
九郎は辛うじてため息をつくのを堪えた。
ふと見渡せば、公園のそばを足早に通り過ぎる通行人達の表情が、例外なく厳しく、そして強張っているように見えた。おそらく、同時多発テロの話が広まっているからだろう。
今後、自分がかつて知っていた平和な世界は、二度と戻らないかもしれない。
九郎はふと、そんな予感に捕らわれた。