アイドルの私室を覗く
ほんの十分前には思いもよらぬことが、今や現実になっていた。
密かにファンだった霧夜麗と、いきなり顔見知りになったのもそうだが、その彼女がなんと隣に住んでいたのだから、とんでもない。
しかも、なぜか土下座されて靴にキスされたのだから、これはもう有り得ないことの十乗分くらいは起こっている気がする。
当然、九郎としては事情の説明を要求したいところだったが、麗はまず、自分の部屋に九郎を誘ってくれた。
「ご説明なら、麗の部屋で……」
――ということらしい。
知らない人の家にホイホイついていってはいけません! という決まり文句は、もちろん九郎だって幼少のみぎりより両親から聞いている。
しかし、なにしろ相手は二つも年下の少女だし、テレビでもお馴染みの超人気アイドルだし、九郎がこっそり応援している子でもある。
断るなどという選択肢は有り得ず、気付いたら部屋に招かれていた。
構造上は自分のところと同じ3LDKだが、中へ入った途端にほんのりと甘い香りが漂い、もうその時点で九郎はだいぶ参っていた。
ドレスアップした隣の彼女から同じ香りがするのだから、つまり今漂う香りは、霧夜麗の香りそのものということだ。
(これは……宝くじが当たったどころじゃないよな?)
おまけに、この家には今、誰もいないらしい……まさか一人暮らしなのだろうか?
「どうぞ……こちらでお待ちください。今、紅茶を淹れてきますね」
リビングに案内され、ソファーを勧められた九郎は、慌てて手を振った。
「いや、お構いなく。それより、さっきのは――」
「すぐですから、どうか少々お待ちを」
とろけそうな笑顔で、麗がそっと遮る。
全然関係ないが、銀髪というのは、そばで見ると非常に見目麗しく……そして、有り得ない髪の色だと、九郎は思い知った。
テレビ情報では、ウィッグか、あるいは北欧の血が交じっているからだとまことしやかに言われているが……そもそもこの子は、逆に日本人の血が混じってない気がする。
目も真っ青だし。
「あ、忘れるところでした。……できましたら、隣の部屋は見ないでくださいまし」
嘘みたいな丁寧な言い方で、彼女は微笑んだ。
正直、テレビでいつも見る時の明るい話し方ではないし、どうも様子がおかしい。
「そちらは、麗の私室なのです……恥ずかしいですから」
「わ、わかったよ」
素直に九郎が頷くと、またしてもこちらの魂が抜けそうな笑みを広げ、麗はようやくリビングを出て行った。
偶然だろうが、身を翻す時に短いスカートが舞い、危うくパンスト越しの下着が見えそうになった。九郎は、咎められてもいないのに慌てて俯き、赤面する始末である。
二つも年下の女の子に、完全に翻弄されている。
……最初は素直に座っていたが、大画面テレビとか薄い水色の絨毯や白い家具などの調度品に見飽きると、九郎は隣の部屋がヤケに気になり始めた。
見てはいけないと言われると余計に見たくなるのは、当然である。
しかも、そこがファンである女の子の私室ともなれば、見るなと言う方が酷だろう。
キッチンの方から麗が歩き回る音が聞こえるので、すぐにはこちらへ来ないはず……そう思った途端、九郎はたまらず立ち上がり、私室の前まで歩み寄っていた。
よくよく考えてみれば、「できましたら――」と彼女は先に告げたはず。
その言い方だと、「我慢できない場合は、構わないのよ?」という解釈が成り立つはずだ。
……反対する声はどこからも聞こえず、九郎は緊張しきってドアノブを握り、そっと回した。最後の瞬間にまたしてもためらったが、結局は好奇心が勝利した。
ドアを開けて、素早く中を覗き込んでみる。
九郎は……しばらくまじまじと中を覗いて固まった挙げ句、絶句した。知らず知らずのうちに、生唾を飲み込んでしまう。
「……嘘だろ?」
独白した声は、派手に震えていた。