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光のもとでⅠ 第八章 自己との対峙  作者: 葉野りるは
本編
20/55

20話

 唯兄が用意してくれたお風呂で、私はいつものように音楽を聴きながら湯船に浸かっていた。

 腕を沈めては浮かべ、浮力を感じながら考えることはひとつ。

 どうしたら両親を仕事場へ戻すことができるだろうか――。

 ふたりとも心配症だからそう簡単にはいかない。栞さんがいない今となっては余計に難しいはず。

 でも、いないものは仕方ない。それでもどうにかして現場へ戻ってもらう方法を探さなくてはいけない。

 自宅から指示を出すことができるとはいえ、やっぱり目で見て確認をしなくてはいけないものもあるだろう。お父さんもお母さんも、仕事を途中で放り出せるような人たちではない。でも、私を放っておける人たちでもない……。

「どうしたらいいのかな……」

 よく響く浴室に小さな声が反響する。

 どうしたらいいのかなんて、本当はわかっている。耐え切れなくなる前に病院に入る――ただ、それだけ……。

 でも、高校に通いだした今、入院だけは避けたかった。

 避けたい、というよりは怖いのだ。一度入ってしまったら、いつ退院できるともしれない場所に入ることが。あの白い部屋に閉じ込められるのが怖い。

 そのほかにも怖いものはある。ペインクリニックの治療が怖い……。

 痛みから解放されるのなら、楽になれるのならなんだってする。その気持ちに嘘はないけれど、対症療法すらが痛みを伴うなんて詐欺だと思う。

 けれど、この身体はどこまで持つだろう……。

 自分の身体に目をやると、

「もう、落ちるお肉すらない気がするよね……」

 言葉はどこまでも空虚に響いた――。


 お風呂から上がると、私と入れ替わりにお母さんがお風呂に入った。

 私の長風呂は母譲りといっても過言ではなく、お母さんも負けず劣らずの長風呂。きっと間違いなく一時間は出てこない。そんなことにほっとする私はひどい娘かもしれない。

 自室に戻ると、お父さんと兄ふたりが揃っていた。

「……三人揃ってどうしたの?」

 思わずドアの入り口で尋ねる。と、「翠葉、おいで」とお父さんの大きな手に手招きをされた。

 部屋に入るとお父さんが座っていたソファに腰掛ける。

「翠葉はどうしたい?」

 その言葉に今後のことを訊かれているのだと察する。

「私は……私はここにいたい」

「そうか……」

 やっぱりな、というニュアンスの声。

「父さんは明日には現場に戻らなくちゃいけない。始めからそのつもりで帰ってきてる。碧はしばらく現場の指示を自宅から出せる状況を整えてから帰ってきた」

 淡々と今ある状況を教えてくれた。

「うちもそうだったけどさ、やっぱり親って子どもが体調悪いと側にいたいって思うものなんだよ。向後さんが言ってたとおり。それが自然の摂理」

 と、私と目を合わせて口にしたのは唯兄。

「……でも、私はお母さんには仕事に戻ってもらいたいな」

 私のために何かを犠牲にしてはほしくなかった。

「翠葉、ここにいても仕事はできる状態なんだぞ?」

 蒼兄の優しくて大きな手が頭に乗る。その手は私からタオルを取り上げると、まだ乾いていない髪の毛をタオルドライし始めた。

「蒼兄もわかっているでしょう? お母さんは自分の目で見て空間を肌で感じてインテリアを確認したい人だよ。いくらここから指示を出せても本当の確認はその場に立たないとわからない。画像がメールで送られてきても、その場に立った感覚でそれを見ることはできないでしょう」

「その点はりっちゃんが確認できるんじゃないかな?」

 口を挟んだのはお父さんだった。

「お父さん、感性が似ていても、それはお母さんじゃないでしょう? それに、人任せにするのは何よりもお母さんらしくない」

「……翠葉は手厳しいなぁ」

 お父さんは頭をソファの背もたれにくてっと置く。

「リィ、リィはどうして入院しないの?」

 唯兄の問いかけはもっともなものだった。

「病院が――病院が嫌いなの」

「でも、リィが入院すれば全部片付く問題じゃないの?」

 その言葉に何も返すことができない。口を真一文字に引き結ぶと、

「唯くん、翠葉は入院したらいつ退院できるのかがわからないから怖いんだよ。それに、入院して待っているのはつらい治療なんだ。しかも、それで治る治療ならともかく、症状を一時しのぎで緩和させるだけのもので……。だから、怖いんだ」

 すべてを理解してくれていたお父さんの言葉に涙が零れる。お父さんはそんな私を優しく引き寄せてくれた。

 お父さんのぬくもりは久しぶり……。

「そっか。根本治療じゃないんだ……」

「父さん、なんとか母さんを連れて帰ってよ。翠葉のことは俺らが見てるし、どうにかするから。今はたぶん、母さんがここにいるだけで翠葉の気持ちに負担がかかる」

「……そうだなぁ。でも、碧も言いだしたら聞かないんだよなぁ……。りっちゃんになんとかしてもらえないか相談するかぁ? それか、静に現場の責任者がその場にいないとは何事だって突っ込んでもらうとか? でも、静も碧にはごく甘だしなぁ……」

 途方に暮れているお父さんが少々かわいそうになってくる。でも、お母さんは今ここにいるべき人じゃじゃない。

 親の責任や義務。社会への責任や義務。それらを秤にかけたいとは思わないしかけるつもりもない。でも、大きなプロジェクトの一部として動いている人なのだから、それだけの力量があって社会貢献ができるのだから、こんなところにいたらだめ。お母さんにはずっと私の憧れでいてほしい。私の、自慢のお母さんでいてほしい。だから、職場に戻ってほしい――。

 きっと親の心子知らず、子どもの心親知らず、とはこういうことを言うんだろうな。

 立場が違うから思うものが異なる。でもね、きっと同じことなの。

 今、誰がここにいても私はその人を頼りきることはできないし、誰にも助けを求めることはできない。誰も、私を助けることなんてできないんだよ――。




 翌朝、湊先生が家に来た。リビングで両親と挨拶を済ませると、私の部屋へ入ってくる。

「あら、かわいい天蓋なんてつけちゃって」

 と、天井から吊るされている生地を見上げる。

「母のお土産なんです」

「天蓋が似合う子なんてそうそういないわよ?」

 そんなふうに言われても、どんな反応をしていいのかわからなくて少し困る。でも、平坦な白い天井が見えないのはいい……。

 白い天井はどうしても病室の天井を彷彿とさせるから。目が覚めたとき、ベージュの天蓋が目に入るだけで、自宅にいることを認識できる。

 先生は、「調子はどう?」なんて訊いた割に、「まぁいいわけないんだろうけど」と自分で答えを出してしまう。

「その後、痛みの範囲は広がってる?」

 声のトーンを落として訊かれた。

「いえ、痛みの範囲は広がっていません。でも、胸と背中以外の場所が痛むことが多くなってきてはいます」

 鎖骨や肩、腕や手首、腰までもが常時痛くなり始めている。そして、痛みが移動していくことに恐怖を覚えていた。

「そう、ご飯は?」

「……実は、お箸を持つことができなくて……。ステンレスのフォークやスプーンも痛いんです」

「……もっと早くに言いなさい」

 湊先生はバッグの中からプラスチックのケースを取り出した。

 半透明のケースに入っていたのはプラスチックでできたフォークとスプーン。ほかにもプラスチックのマグカップを三つ渡された。

 カップを手に取ると、びっくりするほどに軽かった。最近では、ガラス製のグラスも陶器のマグカップも、重くて時に落としそうになっていたから。

 大好きで愛用していたクリスタルのグラスは重くて重くて、差し出されても躊躇してしまうほどだった。そんな私を見てお母さんは怪訝な顔をしていたけれど、意味まではわからなかったみたい。

 この時点で、私はまだお母さんにもお父さんにも、ほかの誰にも現在の病状を言えてはいなかった。

「……ありがとうございます」

 俯いたままお礼を言うと、

「礼なら若槻に言いなさい」

「え……?」

「もしかしたらそうなのかも、って若槻から連絡があったのよ」

 そう、なの……?

 唯兄はいつ気づいたのだろう。

「手を見せて」

 湊先生は私の右手を取ると爪のチェックを始めた。

「栄養状態も良くなければ水分補給も足りてない。点滴するわよ」

 湊先生は手提げ袋から点滴のセットを取り出して用意を始めた。消毒をしながら、

「こっちに戻ってきて少しは気分的に楽になったの?」

 その質問に、私は何も答えることができなかった。

「……だったらマンションにいれば良かったものを」

 言いながら、的確に血管に針を刺す。

「先生……栞さんは元気になった?」

「このあと様子を見にいってくる。電話の受け答えを聞いている分にはだいぶ良くなったみたいだけど」

 先生の表情がふわりと優しいものになり、それが嘘じゃないと確信する。

「良かった……」

「良かったって……あんた、人のことよりもまずは自分のことでしょう?」

「……そうは言われても、好きで痛くなってるわけじゃないです」

 こんなの、八つ当たりだってわかってる。でも、薬が効きづらくなってきている今、不安な思いを自分の中で殺すのも難しくなってきていた。

「ま、それはそうよね……。今日は点滴二本入れるから六時間ちょっとかかるわよ。ひとまず栞のところへ行ってくるわ」

「先生っ」

「ん?」

 部屋を出よう立ち上がった先生に懇願する。

「あの、お願いが――」

「……何よ」

「両親を現場に戻したいんです。力になってもらえませんか……? 父は、今日には戻るつもりで帰ってきてるんですけど、母は――」

「……あぁ、そういうことね」

 先生はどこか面倒臭そうに窓の外へ視線をやる。

「もともと碧さんは心配症でしょ……? 今までこっちに戻ってきてなかったのが不思議なくらいよ」

「……え?」

「あんたの脈や血圧。それが変動するたびに私に確認の連絡がきてた。もっとも、翠葉に電話して問い質すなんてしてたらあんたがまいっちゃうと思って、私のほうに連絡をするようにもともと釘を刺していたんだけど」

 ……そう、だったの?

「子どもの心配をしない親はいないでしょう? 時に、例外って輩もいるけれど。少しくらいは側にいてもらったら?」

「でも――仕事に影響が出たり迷惑をかけるのはどうしても避けたいです」

 先生は少し考えてから、「それもそうね」と口にした。

「一応、考えてはみる。でも、最終的に判断をするのは碧さんよ。本当なら差し出がましい真似はしたくないわね」

 そう言って湊先生は部屋を出ていった。

「一筋縄じゃいかないかな……」

 例年ならまだしも、今年は困る――側にいられたら私が困るの。

 今年はこの痛みにどこまで耐えられるのかがわからない。

 自分に余裕がなくなってお父さんとお母さんにひどいことを言いたくない。傷つけるようなことは言いたくない。

 だから、私の側にはいないでほしい――。

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