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光のもとでⅠ 第八章 自己との対峙  作者: 葉野りるは
本編
10/55

10話

 この日の食事会は楓先生がいなくて、静さんは終わる間際に顔を出した。

 自分が慣れている人たちばかりなのに、どうしてかその空気に馴染みきれない私は、カウンターの中で須藤さんと唯兄とお料理の話をすることで気を紛らわせていた。

 須藤さんの白いコックコートはお医者様の白衣に通ずるものがあり、無条件に安心してしまう。

 そんな私は結構単純なのだと思う。

 時折、司先輩からの視線を感じ、先輩もお料理の話に混ざりたいのかな、と思ったけれど、視線が合えばすぐ手元の本に目を落とすのだから、やっぱり体調を気遣われいてるだけだったのかもしれない。

「翠葉お嬢様は本当にパンがお好きなんですね」

「……え?」

「そうだね、ここ最近パンしか食べてないじゃん」

 唯兄にそう言われてはっとした。

「あ、の……そんなこともないです、ご飯も好きです」

 ただ、お箸やスプーンを手に持ちたくないだけ、とは言えなくて言葉を濁す形になってしまう。

「では、明日はリゾットかお雑炊もお作りいたしましょうか」

「あ、あのっ――」

 困った……。

「なんでしょう?」というような視線が返され、苦し紛れに「おにぎり」と答えた。

「おにぎり?」

 唯兄が復唱して首を傾げる。

「はい……あの、梅のおにぎりが食べたい、です……」

 おにぎりなら手で食べられる。

「梅のおにぎりがお好きなのですか? 鮭やおかか、昆布はいかがでしょう?」

「あ、えと……なんでも好きです」

 でも、須藤さんの手を見て想像してしまう。その大きな手が握るおにぎりとはどのくらいの大きさだろうか、と。

 じっとその手を見ていると、

「どうかなさいましたか?」

 再度不思議そうな表情で顔を覗き込まれもじもじしていると、

「須藤さんの手だとどのくらいの大きさのおにぎりが作られるのか……」

 今までの会話にはいなかった人の声が加わった。びっくりして声の主に視線を向けると、司先輩がカウンター向こうからこちらを見下ろしていた。

「違うか?」

 訊かれて、縦に首を振る。

「どうやら当たりのようですね。大丈夫ですよ。小さいものをご希望でしたら小さめに握りますから」

 須藤さんは初めて会った日のように優しく笑いかけてくれる。

「でも、須藤さんの言うとおり。梅よりは鮭やおかかのほうがいいと思う」

 依然見下ろされたまま、司先輩に言われた。

「どうして……?」

 カウンターの中から見上げると、

「今の翠の胃の状態を考えたらそうなる。鎮痛剤の使いすぎであまりいい状態じゃないだろ。それなら酸が強い梅干よりも鮭やおかかのほうがいい。昆布は消化に時間がかかるから鮭かおかかがベスト」

「さすが、司様ですね」

「当たり前でしょー? 何年私の弟やってると思ってんのよ」

 突如、酔っ払い気味の湊先生乱入。司先輩は湊先生を見るなりグラスを取り上げる。

「須藤さん、これ、下げてください」

 どうやら湊先生と静さん、蒼兄は海斗くんを肴にしてお酒を飲んでいたらしい。

「静さんがついていながらどうしてこんなになるまで飲ますかな……」

 司先輩が零すと、

「面白いからに決まっているだろう?」

 司先輩の背後から現れた静さんが笑って答えた。 

「静さんなんてだああああい嫌いっ」

 ……これはこれは、いつもの湊先生からは想像もできない状態だ。

「湊ちゃんって面白いよね~? お酒飲むと幼児化」

 いじられ尽くしたであろう海斗くんが、げんなりした様子でこちらを見ていた。

「姉さん、帰るよ」

 司先輩が湊先生を支えると、

「それはこっちで預かろう。こんなのを連れ帰ったら、司は勉強させてもらえないだろ?」

 と、静さんが湊先生を抱えなおす。

「私は上に湊を運ぶから、ここは適当にお開きにしろよ」

 その言葉に、須藤さんが最後のオーダーを取り始める。

「皆様はコーヒー、翠葉お嬢様はハーブティーでよろしいでしょうか?」

「須藤さん、私はお風呂に入るのでいいです」


 洗面所の引き出しに入っているエッセンシャルオイルの小瓶を並べ、チョイスに悩む。

 お風呂から上がったら少し勉強するし……。

「ローズマリーかな」

 ローズマリーにレモングラス。それから、ゼラニウム……。

 今回の生理痛が少しでも軽く済みますように、と願いをこめて自分が苦手とするゼラニウムを手に取った。

 お風呂から上がると須藤さんが帰るところだった。

 海斗くんと司先輩は少し前に帰ったという。

「お嬢様は長風呂なのですねぇ……」

 まじまじと見下ろされ、私は苦笑いを返す。

「須藤さん、セクハラ~。オーナーにちくっちゃおうっ!」

「若槻っ」

 須藤さんは唯兄を怒鳴りつつ、こちらを気にして「そんなつもりは全くなかったのですが」と頭を下げる。

「わ、あのっ、全然気にしていないのでっ。私、夏でも汗をかくことが少ないので、お風呂のときにしっかり汗をかくように半身浴してるんです」

「はぁ、そうでしたか……。私がこんなに長い時間お風呂に入っていたら、きっと中で死んでます……」

「俺も……」

 そんな軽い談笑をしてから須藤さんを見送り、私は自室で勉強を始めた。


 足元にはタオルケットをかけて、ベッドに背を預ける姿勢。しかも、ローテーブルをギリギリ自分の上体の部分まで持ってきているので、ベッドとローテーブルの間は三十センチもない。けれど、今日発見した一番楽な姿勢なのだ。

 その状態で勉強を始めてどのくらい経った頃だろうか――コツン、と額に衝撃を感じて顔を上げると、目の前にふたりの兄がいた。

「翠葉、なんて状態で勉強してるんだ?」

「リィ、実は狭いとこ大好き?」

「あ……えと、好きかも……」

 さっきもカウンターの隅で落ち着いてしまったし、今も十二分に狭いスペースに身を置いている。

「とはいえ、もう十二時だよ」

 言いながら、唯兄は透明のカップを差し出した。

 ほんのりと黄味がかった緑色の液体は香りがカモミール。

「お茶飲んだら寝な?」

 蒼兄に言われてコクリと頷く。

 カップが三つあることから一緒に飲もう、ということだろう。トレイにはクッキーも乗っていた。

「ウォーカーズのクッキー……」

「リィがお風呂に入ってるとき、秋斗さんから荷物が届いたんだ。その中に入ってた」

 秋斗さん――こんなふうにクッキーの差し入れをしてくれるのは二回目だった。

 秋斗さんは今、どこにいるのだろう……。

 そんな感情を抱えながら、十分ほど三人で過ごし、三人揃って洗面所で歯磨きをしては鏡に映る自分たちを見て笑った。

「おやすみなさい」の挨拶を交わして部屋に戻ると、そのままベッドに転がりタオルケットに包まって照明を落とした。


 テスト中だというのに、私はまた関係ないことを考えている。

 もう少ししたら秋斗さんが帰ってくるかもしれない。

 少し前は傷が治るまでは帰ってきてほしくないと思っていた。傷を知られるのが怖くて。傷つけてしまうんじゃないかと思って。

 でも、本当は違うのかもしれない。ただ、怖いから、なのかもしれない。

 秋斗さんを怖いと思っているから――だから傷のせいにして、傷つけちゃうかもしれない、と帰ってこられると困ると理由をこじつけていたのかもしれない。

 本当は――ただ、自分が秋斗さんに会うことが怖くて、同じ空間にいるのが怖くて、どう接したらいいのかわからなくて何も話せなくなってしまうのが怖くて、帰ってきてほしくないと思っていたのかもしれない。

 いなければ気になるのに、いたら困るなんて……。まるで正反対の思いに戸惑う。

 でも、やっぱり秋斗さんのことを考えるとほかが疎かになってしまう気がする。秋斗さんのことだけでいっぱいいっぱいになってしまう。

 私がなんのためにここにいるのかといえば、恋愛をするためではなく、学校に通うためだ。極力身体に負担をかけないため。

 でも、そこに秋斗さんが加わるだけで気持ちのバランスが取れなくて体調にも影響が出てしまうみたい。

 秋斗さんが悪いわけではなく、すべてを許容できない自分のせい。精神的に未熟――それ以外の何ものでもない。

 少しの出来事でぐらぐらと揺れてしまう。きっとほかの人にはそよ風くらいにしか感じないようなことでも、私にはとっては強風で――嵐みたいにゴォゴォ音を立てて風が吹く。

 ――秋斗さん、やっぱり無理です……。

 今度こそ呆れられてしまうだろう。二度あることは三度あると言うし、三度目の正直という言葉もあるけれど、この件に限っては三度目はないと思う。

 私は、秋斗さんの恋人でいることはできない。自分が保てなくなってしまうから。

 次に会えるのはいつかわからないけれど、その日にきちんと伝えよう。ちゃんと、自分の言葉で伝えよう。

 その日は泣いてもいいことにしよう。その日だけは大泣きしてもいいことにしよう――。

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