7、そしてそれは深刻なハンザイエロー
仕事の時間――バーに立つほんの数秒前まで、パイホゥはいつも憂鬱で仕方ない様子だ。無駄に深呼吸したり水を飲んでみたりな。
着替えるから、とカキノハを部屋から追い出してはみたもののパイホゥは目が泳いでいる。
おれは屋根裏部屋の窓から、カーテンの陰に隠れながらチラリと階下を眺める。レンガ造りの目抜き通りは夕陽を浴びてさながら黄金の街道――そこから長い影がポツポツ姿を見せ始める。グレート・マジシャンを見に来るために。
「もうダメだ。ぼくは今日こそ大失敗する!」
やれやれ、およそファンの人間にゃ見せられない姿だ。おれはウンザリしながらいつものネガティブを否定する。
「昨日やれたんだ、今日やれない道理はないだろうがよ」
「でも今日は昨日より寒いし、手が悴んでる。さっき水を飲もうとしてコップを落としたんだ。指がうまく動いてないんだよ」
お前、うっかりコップを落とすことなんて日常茶飯事だろうが。
なんて言ったってしょうがない。こうなっちまうと、がんばれとかお前ならできるとか、そういう言葉さえもう通じないんだ。
できるのは一つだけ。
おれは飛んでパイホゥのアタマの上にとまると、気休めに平心魔法をかけて伝える。
「眼鏡をかけろよ、バーマントゥ」
パイホゥは言われた通りにする。素直は美徳だな。
「バーマントゥは世界一のグレート・マジシャン。言え」
「ぼくは世界一のグレート・マジシャン」
「才能が体中に漲っている。里から出てきた鈍臭い使えないパイホゥじゃないだろ。どこから来た?」
「東の果てにある手品の国から来た」
「お前はそこの?」
「由緒正しい手品貴族の血筋だ。そこでは生まれた時から手品を学ぶ。ぼく――いやオレはその手品学校でも最年少にしてトップの成績で卒業した」
「だからできる」
「オレはできる。ふふ、今日は観客を骨抜きにしてやろう。世界には魔法があるんだって思わせてやる」
毎度毎度こういうやりとりをして、ようやくパイホゥは舞台に立つことができるんだ。
やれやれ、こんなに手際の悪いグレート・マジシャンがいるもんか。
★★★★★
「教えて師匠! 今日思ったんですけど、手品する前にちょっとブツブツ呟いてたけど、あれってなんかそういう演出? チチンプイプイ的な? アブダカダブラとか? 鼻の脂をちょいとつけて、ってやつ?」
バーのウエイトレスとしてデビューしたカキノハは早速うるせえうるせえ。早朝、仕事終わりのハイテンションが屋根裏部屋をクルクル巡る。おれは窓枠にとまって一時避難する。
バーマントゥもうんざり顔でネクタイを緩める。今日一日、こんな調子だったんだ。
「君ねえ、自分で言ったこともう忘れたのか? 『芸は盗むもの』なんだろ」
「ホラ、盗むのってやっぱりドロボーだし死ぬほど悪いことだから。師匠、教えてくれないんですか」
「……教えたとして。君には絶対にできないよ」
「そんな言い方しなくても、あ! 私が師匠よりグレートになっちゃうのが怖いんだ」
「なるほどなるほどぉ……このグレートなアホさは確かに死ぬほど恐怖だな」
ホーホーホー。オールバックにキメたバーマントゥさんよ、だて眼鏡の下に本心が出てるぜ。
「何で呪文なんか唱える必要があるんですか」
「おお、まだガキで野暮チンのカキノハ。君みたいに手品のタネだとか真実ばかりを追い求めると娯楽を見失う。ウチに来るのは騙されたがってる観客の方が多いんだぜ。彼らは魔法なんて本当は無いって知ってる。でもただひととき、魔法があるって思わせてほしいのさ。呪文って魔法ぽいだろ。大事なのは『それっぽさ』さ」
カキノハは急に静かになっておとなしくなっちまった。おれはこの顔を知ってる。何かじっと考えていて心ここに在らずって顔。以前のパイホゥと同じ顔。
沈黙にそっと針で穴を開けるように、パイホゥは慎重に言葉を続けた。
「……もしかして、魔法は嫌いなのかい?」
「魔法なんて、面白くないもの。わたし思うの。手品の、タネも仕掛けもあるところが好きなんだって。頑張ったら誰にだって――わたしにだってできるかもしれない、そんな気がするから」
ホントのところ、誰にだってできることなんて無いんだけどな。水を飲んだり呼吸するのだってできない奴はできない。
「師匠にとって手品って何かしら」
「……むろん、人生を賭けるに値する、大好きなものだよ」
ウソが板についてるぜ、バーマントゥさんよ。
「師匠はどうやって手品を教わったんですか」
「それは……父親にだよ。手品を使う一族だったからね」
「へえ……実の父親に教えてもらえるなんて、死ぬほど良いですね」
話すうちに、カキノハの声は小さくなって尻すぼんでいった。パイホゥの顔を見たんだろう。父親の話をする時はいまだにそうだ――無表情を装っているが顔が強張る。
「あの何か私、失礼なこと……」
「やっぱりママさんに言って部屋を分けよう。本当の兄妹じゃないんだ、お互いに知られたくないことだってあるだろう」
カキノハは珍しく素直に階下へ降りていった。痩せっぽちの体に見合うような、足音はためらいがちの控えめになっていた。
それを聞いていたパイホゥは突然ドアを開け、カキノハの背中に声をかける。
「来週から、手品を教える! 一度で覚えなければ、窓から放り出すからな!」
振り返ったカキノハはキョトンとしていたけどな。すぐにいつもの調子に戻った。
「……はいッ!」
やっぱりパイホゥは、根がお人好しなんだよな。
「何見てんだよキームン」
別に。
「まあいいさ、ちょっと知りたいことがあるんだ。変身魔法のやり方と――それと」
それと?
「あの赤毛手品師の居場所。遠くに行ってなけりゃいいけど」
おれはこのバカがやろうとしていることにピンときたんだが、止めやしなかった。
ちょうど窓の外から朝陽が登ってきていて、それを浴びたパイホゥの白いシャツがあんまり綺麗なハンザイエローに染まっていたから。
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