2、ここじゃないどこかへ
魔術師の赤ん坊は普通、歩くより先に風魔法で飛ぶことを覚える。でもパイホゥは五歳を過ぎても地べたを走り回ってた。
先に空を飛べるようになった年下の阿呆コカや鼻たれイエルバに「果物をとってきてやったぞ!」と、森でとってきた桃を空からえんえんぶつけられて、「ありがとう」って言って笑って食ってた。仕返しに行こうとするおれの羽を引っ張って「わざわざ桃をくれたのになんでケンカするの」と止めるくらいのバカだ。
「放せ、バカにされてんだぞ!」
「きっと手元が狂っただけだよ」
「何発もお前のアタマにぶつかるようにか? ハッ。大した偶然だな」
「僕だったら桃を渡そうとして何度も落とすとか、そういうことはよくあるからさ」
ホー! ホー! ホー!
おれにはちょっとよくわかんないんだよな。どうしてここまで他人を信じられるのか。たぶん五歳まで愛情いっぱいに育てられたから、なのかもしれなかった。
それでも客観的にいじめられてるのには変わりない。そんな我が子を心配して、両親は魔法を厳しく教え込んだけれど、うまくいかない。
ほんと言うとさ、最初の頃のパイホゥは一人の時やおれと二人きりの時はまともに飛べていたんだ。でも他の誰かがいる時はてんで駄目だった。
「どうして飛べないんだ!」
父親に怒鳴られると体がこわばって、パイホゥはどうして自分が飛べないのか深く考えこんじまうんだ。言い訳さえ思いつかない。あげく母親は泣き出すしで、そのうち本当に飛べなくなっちまった。
今思うに、パイホゥは心にカギが掛かっちゃってたんだな。
そういうことってあるだろ?
「自分は自転車に乗れる」ってさ、少しでも思えないといつまでも自転車に乗れないのと一緒さ。あんまりからかわれたり怒られたりしたせいで、パイホゥは自分を信じることができなくなっちまった。
こりゃあ良くない。里にいてパイホゥに良いことなんてこれっぽっちもなかったのさ。
クン・ヤンは全てが魔術師のためにできてるんだ。樹上図書館には高く飛べなけりゃ行けない。大神秘の祭壇がある森の入口には幻惑結界が張られてるから、解除できなきゃ祭りにも出られない。
これまで生まれてきた魔法不能者たち――「使えない奴ら」って呼ばれてる――は次第に透明になって消えちまった。魔術師の里では魔法がある程度使えないと青い霧に巻かれて次第に姿が見えなくなって、名前も顔も忘れられちまうのさ。
そいつらはどうしたのかって? わからないね。何しろ見えないし誰も覚えてないんだからな。霧になったんだって言われてる。
……ま、それだけさ。
そんな日々が続くにつれ、だんだんパイホゥの性格もいじけてみるみる口数も減り、あの形の悪い足なんぞも霧に紛れて見えなくなってきてさ、十歳を迎える頃にはいつも一人ぼっちで何をするのもつまらなそうだった。つまらない奴はこの世のどんな遊びをしたってつまらないもんだ。だってそいつ自身がつまんないんだもんな。
ただしおれだけが気づいた。
パイホゥは人間の世界の話をする時だけは楽しそうだった。出会った頃の無邪気なクソガキの顔になった。
クン・ヤンと人間の世界は古いしきたりで行き来してはいけないことになっている。それどころかクン・ヤンで人間の話をするってのは――そうさな、貴族様のおダンスパーティーでくそったれ乞食どもの話をするようなもんだ。
人間は魔術師を憎んでいるから、もし魔術師だってバレたらハリツケのうえ火あぶりにされるとか、石に括られて川に沈められるとか、クン・ヤンの学校ではそう習うんだ。
昔そんなことが本当にあったから人間を好きな奴なんか里のどこにもいないし、好きだなんて冗談でも言えない雰囲気なんだな。阿呆のコカなんかは親から「悪い子は人間に連れていかれるよ」って、よく脅されてたくらいだ。クン・ヤンは人間から離れることで成り立った場所だしな。
だがパイホゥは小川に流れ着く雑誌の切れ端や人間の作ったガラクタをこっそり集めていた。
鼻歌まじりに。
里じゃない人間界に、どうしようもなく憧れていた。
ある日パイホゥはベッドに寝そべって、拾った空き缶のパッケージを眺めながら呟く。
「なあ、キームン。どうしてこんなにきれいな本や難しい機械を作れるのに、人間は悪いんだろう? いや、どうしてもぼくは人間がそんなに悪いとは思えないんだ。実は素晴らしい人たちで、むしろ魔術師たちの方がおかしいんじゃないかな……うん、きっとそうなんだよ」
そりゃあ実際の人間を知らないからそう言えるのさ。
……そう答えるのは簡単だ。でもおれだって人間に会ったことはなかったし、何ていうか、居場所のないガキがやっと夢中になったもんを壊すのは、悪いだろ?
おれがどう答えたものか迷っていると更に質問が来た。
「ところでさ、君は魔法が好きかい。この里が好きかい」
「いや、嫌いだね。お前さんほどじゃないが」
おれたちは大いに笑った。
その晩は月明かりの下、霧が濃く青く濃く青く里を包みこんでいて、クチバシの先っちょさえ見えなかった。好都合。それはまるで霧がおれたちの家出を手伝ってくれているようだった。
川沿いを上っていくと、突然数十人になったパイホゥが慌てて転ぶ。おれの視界一面を、転んだパイホゥ達が埋め尽くす。
「何、何だコレ! キームンがいっぱいいる!」
パイホゥ達がキョロキョロと見回す。
「落ち着けって。湖に飼われてる、蛤の出す蜃気楼だ。目標は近いってことだぜ」
おれの翼をちょいと動かして、風魔法で吹き飛ばしてやると簡単に視界は元に戻った。
続いて門番をしていた見張りの目を盗み、おれたちは月の浮かんだ湖へそっと入っていく。
ぬるい。
息を止めて深く潜る。底には無数の星が見えてくる。
にわかに天地が反転し、おれたちは光の方へ――つまり人間の世界へ浮上していった。
「やれやれ、この歳にして人間界に行くとは思わなかったな」
「キームン?」
「なんだ」
「悪いね」
へへ、と笑うパイホゥは結局両親の眠る家――自分の育った家を振り返りもしなかった。さよなら一つ言いやしない。
いい覚悟だ。
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