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ヴェスペルの娘達  作者: さくしゃ
第六色 『情景 子供達の、夢と踊り』 ~flamereaction~
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刹那

 暗闇に、こちらに手を伸ばした少年の姿が掻き消える。

茫然と眼を見開いた、その表情。


「―――っ!」


 リーゼは言葉にならない言葉で叫んだ。自由のきいた左の手で、右腕を掴み、掌についた血液を何もない空間に向かって投げつける。


 ―――間に合え。せめて、あの子だけでも。


 その瞬間、にゅるんと何かに足元をすくわれた。

急な斜面を滑り落ちる。違う。滑り落ちたのではなくて、何かに持ち上げられている。

滑った体勢から身を起こすと、同じように足元を掬われたらしいエルモが、長々と伸びてこちらを見上げていた。


 なに、これ。

リーゼはまじまじと自分の掌を見つめた。偶々そこにあった対価。右腕から流れる鮮血を使った想鎖術であったはずなのに。


「こんなもの、あたしは読んでないよ……?」


淡い光に包まれたその空間は、外側と一切遮断されていている。

光の量は丁度、しゃがみこんだ二人の全身を照らし出すほど。故に


――――ぼどぼどぼどっ!


「リーゼさん!」

「…………大丈夫、大した量じゃないよ」

開いたままの傷口が抑えを失い、大量の血液が膝頭を伝い落ちる。

どろ、と赤いその色からエルモが目を背けた。

「怖がらせてるよね、ごめん」

 血まみれのシャツを引っ張って傷口を見えないようにした。


 「リーゼさん、大、大丈夫ですか」

あまりに怯えた決死のその表情。

「ん、まあ腱が切れたとかじゃないみたいだし、動かなくなることはないでしょ」

半分冗談のようにグ、パー、と手を広げて見せると、その手を握り締められた。両手で握った拳を包み、まるで縋るような体勢。

「何、どうしたの?動かしにくいよ?」

苦笑してその頭に触れる。

「治療しますから、そのままちゃんと、手握ってて下さい」

少年は、一歩も引かない瞳をしていた。見れば、片方の手がリーゼから離れ、地面にあふれた鮮血をなぞっている。

「生命の苹果の樹だって、これで治せたんだから、リーゼさんだって」

頑なにいい張る少年はリーゼの片方の手をぎゅっと握ったまま、瞼を閉じた。

掌を通して、少年の脈がトクトクと波打っているのを感じる。


『この想い、鎖となりて貴方の元まで届きますように

 母なる、父なる貴方、この身体とこの心を作りし、真の御方よ』


リーゼも知っている。治癒を目的とする想鎖術でよくつかわれる、始まりの請願。

けれど、幾ら言葉を唱えても光は起きなかった。


 想鎖術の始まりの光が……起きない?


 「想鎖術が、使えなくなってる?」


 声が震えていた。必要以上に込められた力に、自分の方がしゃんとしなければ、と強く意識を促される。

「今のキミの状態じゃ無理だよ」

コツ、と額を弾く。

「全然集中もしていないし、想鎖する対象のイメージだって全然練れてない。この状況で落ちつこうっていのが、まず無理なんだよ」

努めて明るく言い放ち、光の壁へと目を向ける。エルモはまだ解せない表情でこちらを睨んでいたが、やはり外が気になるのかリーゼの隣について空を見上げている。


 「だけど、これ……一体どういうことなんだろう」

光の壁の外側は、ガラスに薄めたインクを垂らした後のように一切の色彩を失っていた。

俄かに世界が真夜中になってしまったみたい。

陽の光が無くなったことで、あたりの気温が急に下がってくる。ぴたりと張り付いてくる少年の体温が有難かった。


「太陽も、月も、星も、全部見えなくなっています……!」

エルモが、不安げに声を張り上げる。

そう、本来夜になったならば出てくるはずの星も月も、姿がないのだ。地上の手前の空に、分厚い布を置いてしまったようだ。


 今度は足元に目を投じる。まず目につくのは、リーゼが先程零した血液。二人の膝のあたりに溜まっているということは、この空間は少なくとも水分を透過しない。

そして、その下には薄ぼんやりとした光によって照らし出されるなだらかな緑の丘陵が。

足の下を、風がくぐりぬけて行くのが、下ばえの揺れ加減からわかる。


 「これ、浮いてますよね……シャボン玉みたいに」

エルモがそうっと手を伸ばして、壁に触れた。

痛みもなく、衝撃もない。けれど、圧迫感があって立ち上がることはできない。

試しに目の前の壁に指を押し込むと、ある一点で跳ねかえってくる。


 「内側に閉じ込められた?」


 けれど、どうして何で。


 だって、リーゼが想鎖したのは、互いを見失わない為のただの光だ。

けれど、これは光ではない。何かちゃんとした意思で以って作られた二人を閉じ込める為の空間だ。

「とりあえず、空気が足りなくなるとか、そういう心配はしなくていいみたいだね」

ふう、吐息を吐き出して壁にもたれかかった。


 「一応聞いておくよ?これを作ったの、キミじゃないね?」


 エルモはさも当然、という風に大きく頷いた。ということは……リーゼは胸に手を当てた。

そこに、自分と違うもう一つの鼓動があることを知っている。

けれど、前よりそれをこわいと思うことはなくなった。


 「ねえ、あんたでしょ!ちょっと、どうにかしなさいよ!」


 自分でなく、エルモでないなら、こんなものを作り出せるのは一人しかいない。

自分に想鎖されたもう一つの人格。


 人類最高の、想鎖術師。アウローラ・ルル・エスカトーレ。


 「何考えてるんだか知らないけれど、あんたの思い通りになんかあたしはならないからね!さあ、元に戻せ!」

こうして、彼女に呼び掛けるのは思えば初めてのこと。

しかも、自分が意識を保った状態だ。もう一つの人格であるアローが答えることはないと思ったが


 ―――愛しい子。勇ましい子。残念だけどそれはなりません。既に契約はなされているのですから。


 それは、これまで聞いてきた叔母の声とは違う声だった。もっと空気を震わせ、鼓膜を直接に揺らす声。慈しむと同時に、峻厳たるその声。


 「だったらその契約を破棄しなさいよね!だいたい契約って、何よそれ!」


 ―――今に、貴方にもわかる日がくるでしょう。少年に……今この瞬間にそれが訪れたのと同じように。それまでは


 岩に沁みいるように、淑やかなその声は突然に掻き消えた。

そして、とって変わるように少し慌てた響きが重なる。


 ―――貴方ならきっと大丈夫。そのための手引きをしてあげる。助けてあげる。心を強く持つのよ。貴方なら大丈夫。だって、貴方は―――


 「あーもう!」リーゼはぐしゃぐしゃっと髪を掻きまわした。「とことん使えないわね!あの女!」

大切な所をぼかすのは、昔からあの叔母の得意とするところだ。


 こっちがひいこら正解に辿り着いた時には、もうそこで高みの見物を決め込んでいるのだ。とにかく、一刻も早く、こんな悪趣味で、露悪的な悪戯は即刻辞めさせ―――


 「うわあっ!」


 隣でエルモが叫んだ。思考が中断される。何?と同じく足元へ視線を転じると、うつ伏せに倒れたエルモが両膝をつけた体勢で下を覗き込んでいる。


 「あの、こ、れ!」

先程まで一本一本見分けることの出来た下ばえが、今はもう緑の塊にしか見えない。家々の灯す光も、空の月も星もないから正確な高さはわからない。けれど確実に

「高度が上昇して……移動している?」

よくよく眼をこらさねばわからぬほど。けれどゆっくりと光の壁は移動していた。

「キミが言った通り、糸の切れた風船みたいなものね。これ」

血が足りないのか、それとも既に驚き疲れただけか、月並みな言葉しか出てこない。

いつの間にか二人は相当の距離を移動していた。

それも、一歩もあるかないまま。

先程まで生命の苹果の木の根元にいたはずなのに、もう、きっと町の近くだ。


 エルモの顔のすぐ傍を時々家の壁が流れていく。少しずつ高度も上がっているようだ。

すっと、掌の真下にあったはずの風見鶏が後ろへ流れて行った。

何処かへ、引き寄せられているのはわかっている。でも、何処へ。


 ―――いい、これが精一杯。あとはあなたがどうにか


 声が、一瞬聞こえてそしてすぐに聞こえなくなった。何かに押しつぶされるような切羽詰まった声で。

「あ、あそこ……なんでしょう?壁?」

エルモが指で示す。きょとんとした顔が、こちらをじっと見つめている。

不安なのだろう。

微笑み返しても顔は、こちらを向いたまま。


 大丈夫だよ、ちゃんと前を見て。


 といつもの習慣で頭の向きを直そうとし、次の瞬間、その手が滑り落ちた。

少年がまだ、こちらを見ていることが僥倖としか思えてならない。

あれは、壁なんかじゃない。

こみ上げるような吐き気を堪え、無事な左手を強く握った。

「駄目だ、弟子……キミは見るんじゃない」

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