熱中症
両手で挽いていた白いロープが急に軽くなった。ついに、患部の切り取りに成功したのだ。あとは、自分に出来ることを。自分の力を信じて。
幸い、思ったほどの体力の消耗もない、集中も十分。
労働で体内から生じたのとは、また別の熱が、全身を重たく浸食していく。柄にもなく、緊張しているのだろう。
気合を入れる意味も込めて、夏の熱く湿った空気を胸いっぱい吸い込み、深呼吸し
―――え、何これ
その途端、全身に力が入らなくなった。
咄嗟に目の前の表皮に両手を突き出して、体を支える。
頭の芯ばかりがぐらぐらと煮えたぎったように熱い。
音を立てて血潮が下がっていく。
指先が凍えたように冷たい。さらに強張って動かない。
ねえ、何で。ちゃんと、ちゃんと動いてよ。
せめて声を出そうと動かした唇から、零れる吐息が熱い。
先程までうるさいほどに鳴り響いていた潮騒も、セミの声も、水の奥で聞くように朧げで。
…………そっか、熱中症。
不思議と頭の奥で、明瞭な判断を下す自分が居る。
真夏の昼間、屋内にも入らず、休憩もせず、外で立ち続けの作業だった。
それも、殆ど水分も取らないままに。
如何に想鎖術師といえども、自然の摂理には勝てなかった。
そんな時に、たった十七歳のちっぽけな小娘であることを痛感させられる。
………何で、こんな時に。寄りにも寄って、これからって時に。
さっきまで欲しくて堪らなかった空気が、容赦なく喉を、鼻孔を焼き急速に体力を消耗させていく。呼吸がままならなくなってくる。
…………弟子、大丈夫かな。
そんなことを考えた瞬間、熱中症よりも更に熱い衝撃が肩を襲った。今度こそ立っていられずに、仰向けに脚立から落ちる。
衝撃は、まず左の肩に。次いで、背中と腰に。
ぬるりとした感覚が、頬を濡らして行った。
「リーゼさん!」
飛び込んでくる、弟子の姿。こちらを覗き込んだ拍子に、パタパタと汗の粒が頬に散らばった。
そうだよね、キミも暑かったよね。気がつかなくて、ごめんね。
汗ばんだ掌が額に押し付けられる。
その僅かな水分さえ、額の熱があっという間に干してしまう。
頬に降り注いだ汗も同様に、既に蒸発していた。
もう片方の掌も額に添え、そのまま少年が、無言で立ち上がろうとする。
それを、指先でそっと捕まえた。
「……何処行くの?」
「何処って、何か冷たいものを持って、すぐ」
「あたしのことは………いいから。早く生命の苹果の樹。急がないと、間に合わなくなる」
張り付いたように動かない舌を必死に動かして、指示を飛ばす。
剥き出しにしてしまった患部から、次の枝に被害が移る。更に言えば、問題の表皮の後始末だって、まだだ。
「だからこそ、早くリーゼさんが元気に!」
「…………キミが、やるんだよ」
え、と少年は掴まれていた腕を、思わず解いた。
「キミが、あたしの代わりに、……あの生命の苹果の樹を、想鎖するんだ」
ままならぬ腕を持ち上げて、宝石の乗った手首を、少年の掌に落とす。
「それに、とっておきの対価が今ならあるから」
何を、と呟きかけて、少年が押し黙る。
命の苹果の樹と同じ苹果が持つ赤い色。
それを象徴するもの。
今し方、リーゼから失われている、生命そのものの赤い色。
一度乾いてしまえば、それはどす黒く色を変えてしまうから、流れているそのものを使わないと。
瑠璃の瞳が焦点を失い、体はぐらりと後ろに傾ぎ
「倒れるな!しっかりしなさい!」
気を失いかけた少年を叱咤する。
「あんたがやんなきゃ、誰も出来ないんだよ!」
血が苦手なことは、気付いている。
服を濡らした赤いジュースにでさえ、過剰に反応して昏倒しかけるほどに。
……酷いことを言っているのはわかっている。
でも。
「大丈夫、あたしが教えたこと、ちゃんと守ってくれれば」
ふう、と言葉一つと引き換えに意識が一歩、後ろへ下がる。駄目、まだこの子には伝えなくてはならないことがあるのに。
その刹那、霞がかった意識の奥が急速に回転を始めた。
これはあたしの考え?それともアロー?
生命の苹果の樹の不調……駄目になった苹果達。どっちが先だったのだろう。
そして、二年前のリーゼが作った生命の苹果の樹を讃えた想譜面。
そっか、間違った想譜面で生命の苹果の樹を讃えたから、分身である苹果に真っ先に影響が出たんだ。
生命の苹果の樹の不調を知っていたから、あの子はあの想譜面を使ったのかな?
それとも、単に苹果を讃える内容だから、使ったのかな。
でも、間違った譜面だったから、正しい影響を与えられなかった、そんなところ?
急速に沈みかける思考が、待ったをかける。
そうじゃない。
生命の苹果の樹が不調だったから、生命の苹果の樹を讃える想譜面で、苹果がおかしくなってしまったんだ。
やっぱり原因は、この樹にある。
何故なら、お祝いの席には相応しくないけれど、あの想譜面は素晴らしい出来栄えだったんだから。
ポケットからくしゃくしゃの想譜面を引き出し、硬い少年の胸に当てる。
まるで、生命の苹果の樹に祝福されて生まれてきたように、色の名前を理解する少年。
最後の祝福のように今、目の前に難題が降りかかる。
「これを元にして、新しい想譜面を組みなさい。今度こそ全ての祝福に、相応しいような」
影の中にリーゼが託した光の物語。
それを、光を表に、小さく影を滲ませて。
「大丈夫、キミならできるよ」
少年の掌に載せた手首を、そっと引っ張って手を重ね合わせる。
「キミはあたしの弟子だから。あたしが、ここでちゃんと見てるから」
泣きだしそうな目でこちらを見つめていた少年が、こくりと頷いた。
そしてやはり泣き出しそうな目で、こちらの怪我に触れる。
鈍い痛みに一度呻く。少年がはっとしたように手を止めるが、また触れてくる。
大丈夫だ。この子は大丈夫。うまくやれる。
紅い色を片手の掌に塗りつけ、それをそっと生命の苹果の樹へ通しつける。
思えばこれは、少年が初めて一人でする想鎖術。
頼んだわよ。
最後にそう呟いて、リーゼは静かに目を閉じた。




