さいしょのまほう
『この想い、鎖となりてあなたの元へ届きますように。
楽園で犯される最初の罪、溢れる血潮のその色と』
あ、とエルモは吐息だけで感嘆を紡ぐ。
目の前で、ぽう、と光が灯る。
それは、苹果を乗せた、リーゼの両掌へと次第に集まって。
なおも変わらず、彼女は言葉を紡ぐ。
『約束の地に溢るる蜜をその白き裸身に受けて。
例え禁忌と知っても、私はあなたを知りたかった』
いよいよもって、彼女の声は情感豊かになっていく。
心なしか頬が上気し、歌と共に吐き出される吐息が艶やかに香る。
『あなたの肌の香を。あなたの唇の甘さを。私は、覚えていたかった!』
とうとう最後には、投げつけるように。リーゼは歌の終わりを紡ぎきる。
ざんばらと髪が乱れ、手の中の光が堪えきれなくなったように、収束、破裂する。
朝の光と、掌で破裂した光。二つの光に照らされるリーゼは、神々しいほどの迫力を持っている。
「さあ、どうぞ。召し上がれ」
振り向いた彼女は、既に今朝から何度も見ている笑顔の彼女だった。
頂きます、と答えてエルモは苹果に齧りつく。
「おいしい!」
先程食べた苹果も十分甘くて美味しかった。けれど。
―――けれど、これは。
「びっくりするくらい、おいしくなっているでしょ?」
悪戯が見つかった子どものように肩をすくませて、リーゼは笑う。
「はい。とても、でも………一体どうやって?」
他の何とも違う。他の何とも比べられない。何かと比喩することも及ばない、苹果だけの、味。それが、極限まで高められていて。
「これがね、『想鎖術』なの」
自身も籠の中から苹果を取り出して齧りつきながら、彼女が教えてくれる。
「どんなものにだって、価値はある。そのもの自身も、気がつかないくらい微々たることもあるけれど……どんなものにだって、価値はあるの。それに、丁重に気づいて貰う」
それは人々に賞賛される美術品の価値が天井知らずに上がっていくことと似ている。褒められれば、褒められただけ、物の価値は上がるのだ。
「だから、相手を正しく捉えて褒める。そうして、力を引き出すの」
物に隠された物語を想像し、それを幾つも連ねて連想する。
時には連想が連想を呼び、巨大な価値を得ることもある。
故に、想いを鎖でつなぐ術―――『想鎖術』と呼ばれるのだ。
そのために必要なのは、連想を呼ぶための幅広い知識。色や歴史と言ったそのものを知る為の観察力。ほんの少しの悪戯心と、語彙力。
一見すると魔法のような『想鎖術』だがその本質はデータの解析と幾万の組み合わせを飽きることなく繰り返す地味な作業。
つまりは、純粋な学問や科学に近い。
エルモの名前の由来となった聖典をリーゼが知っていたのも、術式を構成する為の「物語」に組み込むことがあるからだ。
「なのに、ちょっとやってみせるとむこうの大陸の人達は『魔法だっ!』『悪魔の術だっ!』ってすぐに騒ぐから嫌。こっちでは初等部からの必修科目だって言うのに」
ぷりぷりしながら言う少女だが、その向こうの大陸の影響の強いエルモにしてみれば、やはり魔法にしか見えない。
「まあ、向こうの大陸だとどうしても研究が遅れてしまう所為もあるんだけれどね」
「それは、どうして?」
次から次へと、疑問が頭を満たして、うまく言葉にならない。
「だってほら、向こうの大陸からだと、生命の苹果の樹が見えないでしょ?」
ひょい、と人差し指が上を示す。
「え…………?て、あれ、が?」
仰向けになり過ぎて、声が嗄れた。
そこにあったのは、緑色に苔むしたような、凹凸のある大地だ。
切り立った巌のようなそれは雲の遙か上まで伸びていて、雲の間際に僅かに紫色の植物を茂らせている。
「ここだと近過ぎて、ちょっと見えにくいね。お使いついでに、表通りへ出ようか?」
ああ、とリーゼは頷き、未だぽかんと口を開いているエルモの手を取って、緩やかな丘を下る。下って行くうちに、エルモはとんでもないことに気がついた。
「ひょっとして、これ………全部?」
二人が駆け抜けた丘の下には、小さな町があった。さらに奥には、何故か似つかわしくない近代的な建築物群。
崖のような樹へと張り付くように立っていて……それらを一望できるこの丘もまた、崖へと緩やかにつながっていて。
「そう、あたしが住んでいるのは生命の苹果の樹の根っこの上なのさ」
カルヴァドスの村は、巨大な樹の根に包まれるようにして存在していた。




