政略結婚で妹の後見と名を奪われたので、姉の私は立会人名簿の署名を開きました。分家は詫びを寄越すことになります
「クラリスの返事は、まだです」
姉として私がそう申し上げると、グレゴール様は妹ではなく、私の姓を見た。食卓の端に置かれた後見替えの願書を、太い指が二度叩いた。
「返事は家がする。ローデン家が決めたことだ」
クラリスの箸が止まった。匙皿へ落ちかけた豆を箸先で挟んだまま、顔を上げない。
「縁組をなさるのはクラリスです。後見を替えるにしても、本人にお尋ねください」
「嫁いだ姉はもう他家の人間」
グレゴール様は、私の前にあった椅子の背へ手を置いた。そのまま給仕へ顎を振り、食卓から一脚だけ下げさせた。
「アデライド、これはローデン家の話だ。セヴラン家へ嫁いだ者に、口を挟む資格はない。退席してもらおう」
椅子の脚が床を擦った。六人分の食器が並ぶ卓で、空いた場所だけが広くなった。
「後見は私が引き継ぐ。縁組先にも、家として承諾すると伝えてある。クラリスに不足はさせん」
グレゴール様は願書を引き寄せ、分家の者が署名した箇所を上にした。最後の連署欄には、まだ紙の白さが残っていた。
クラリスの袖口は、去年仕立てさせた薄青の布だった。卓上の筆には、春に私が選んだ白樺の軸が使われている。
「クラリス。異存はないな」
「私は——」
「家の決定だ。先方にも待っていただいている」
挟まれていた豆が皿へ戻った。クラリスは箸を揃えようとして、片方だけを取り落とした。
グレゴール様の後ろでは、随行の青年が記録を取っていた。ノア・ヘイルという名は、分家から届く受領書で何度か見ている。
ノアさんは書きかけの行から筆を離した。紙の上へ落ちた墨が、一文字の端を丸く太らせた。
「では、ご本人の返事を伺いたい」
グレゴール様の指が、願書を叩くのをやめた。
「ヘイル。おまえは記録を取ればよい」
「記録するために伺っています。クラリス様は、まだお答えになっていません」
「家が答えたと言っている」
先ほどまでの声は食卓の幅に収まっていた。今の声は、閉じた扉の向こうまで届いた。
ノアさんは筆を置いた。頭は下げたが、クラリスから目を外さなかった。
「もうよい。下がれ」
「承知しました」
彼は記録紙を閉じた。クラリスの返事がない行には、何も書き足さなかった。
私は椅子のなくなった場所から鞄を持ち上げた。留め金を確かめると、中で小さな金具が鳴った。
鞄には、クラリスの仕度の覚えを入れてある。衣服を届けた日、靴を直した日、筆や紙を補った日を、五年前から記したものだった。
「姉上」
クラリスの声に、グレゴール様が先に答えた。
「アデライドは帰る。おまえも余計なことを考える必要はない」
クラリスは膝の上で手を重ねた。右の中指には、筆胼胝が薄く残っている。
三日前に届いた短い手紙にも、その指の跡があった。書かれていたのは二行だけだった。
——姉上。私の新しい家が、私の知らないところで決まりそうです。
二行目の末尾には、句点がなかった。
「お言葉どおり、退席いたします」
私はずれた箸を拾い、クラリスの皿の脇へ揃えた。青い袖口の縫い目にほつれはなく、白樺の筆にも欠けはない。
「その願書は、明日お出しになりますか」
「すでに整っている。朝一番に提出させる」
「承知いたしました」
グレゴール様は願書の連署欄を手で隠した。私はその手にも、願書にも触れなかった。
食堂を出る前に一度だけ振り返ると、クラリスは箸を持ち直していた。けれど皿の上のものは、ひとつも減っていなかった。
* * *
翌朝、役所の受付卓には、後見替えの願書が届いていた。グレゴール様の封蝋は割られ、取次役のオルガが一枚ずつ内容を確かめているところだった。
「立会人名簿を拝見いたします」
私が名乗ると、オルガは願書の名と私の顔を順に見た。問い返さず、奥の棚から厚い名簿を抱えてきた。
「五年前の頁ですね」
「はい」
名簿の綴じ紐は、棚から下ろした拍子に少し緩んでいた。私は椅子へ掛ける前に、紐の端を揃えた。
輪を作り、片方をくぐらせ、引く。結び目が背の中央へ戻るまで、指先で形を直した。
「いつも直してくださいますね」
「頁を傷めますから」
オルガはそれ以上尋ねなかった。名簿の端を私へ向け、両手を離した。
私は綴じ紐をほどき、五年前の頁を開いた。閉じるためではない。
両親を葬った翌日の日付が、頁の上にある。立会人の欄には、まだローデン姓だった私の署名が残っていた。
その下に記されたクラリスの名は、当時の細い文字だった。後見に関わる変更がある場合の連署欄だけが、五年分の白さを保っている。
私は頁を卓上に開いたまま、手を離した。
オルガは私の署名と願書を見比べた。次に、願書の末尾を人差し指で押さえた。
「連署がありません」
「家の当主の署名はございます」
願書を届けに来た分家の使いが、封筒を抱え直した。オルガの指は空欄から動かなかった。
「立会人の連署がありません」
「アデライド様は、すでに他家へ嫁いでおられます。現当主が後見を引き継ぐのですから、支障はないはずです」
「立会は、署名した者の名で残ります」
オルガは名簿の一頁だけを示した。声も、指の置き方も変わらない。
「変更の願書には、立会人の連署が必要です。お持ち帰りください」
願書が封筒の上へ返された。使いの手はすぐには出ず、紙の角だけが封筒から滑り落ちた。
「アデライド様」
使いは私を見た。私は開いた頁の横に座ったまま、鞄の留め金を閉じた。
「連署をいただけますか」
「クラリスは、後見を替えてほしいと申しましたか」
「当主がお決めになったことです」
「では、クラリスの返事をお持ちください」
使いは願書を取り上げた。オルガへ一礼し、名簿の頁を見ないように封筒を重ねた。
その背が扉の向こうへ消えてから、オルガが私へ向き直った。
「この頁を照合に用います。よろしいですか」
「お願いいたします」
「以後、クラリス・ローデン様に関する変更は、この署名の連署なしには受け付けません。取り下げる場合も、同じです」
「はい」
五年前の署名を公に使えば、実家の食卓へ曖昧に戻る道はなくなる。私の椅子が戻されることもない。
私は名簿を閉じなかった。開いた頁の横で、仕度の覚えを取り出した。
「こちらは提出する書面ではありません」
「承知しました」
「クラリスが自分で返事をするまでに、必要なものだけ確かめます」
オルガは名簿の向きを直した。私の署名が、受付側から読める向きになった。
昼を過ぎる前に、分家から使いが戻った。手には先ほどと同じ願書があり、封筒だけが新しくなっていた。
「当主がお会いになるそうです」
「クラリスもご一緒ですか」
「いいえ」
「では、本日は帰ります」
使いが押し黙る横で、オルガは願書を受け取らなかった。空の連署欄を一度指し、受付卓の手前へ押し戻した。
私は開いた頁に紙片を挟んだ。今度は綴じ紐を結ばず、名簿をオルガへ預けた。
* * *
翌日、願書の後見人候補の名が変わった。グレゴール様自身ではなく、分家の年長者が記されていた。
提出日も書き直されている。末尾の連署欄だけは、昨日と同じく空いていた。
「後見を担う者を替えた。これなら問題はない」
グレゴール様は自ら受付へ来ていた。役所の入口では私に目礼もせず、オルガへ願書を差し出した。
オルガは一行目から読み、最後の欄まで指を滑らせた。立会人名簿の五年前の頁を開き、二つの紙を並べる。
「連署がありません」
「後見人は別人だ。昨日の願書とは違う」
「クラリス・ローデン様の後見を変更する願書です」
「家の者が引き受けると言っている。立会人は他家へ嫁いだ女だぞ」
オルガは名簿の署名を確かめた。次に空欄を指し、願書をグレゴール様へ返した。
「連署をいただいてから、改めてお持ちください」
グレゴール様は受け取らず、願書を卓上に残した。紙の端がオルガの袖に触れたが、彼女は受付の内側へ引かなかった。
「役所が家の決定を妨げるのか」
「必要な欄が空いています」
「形式の話をしているのではない」
「私は記載を確かめています」
願書は、グレゴール様の側に置かれたままだった。やがて彼の指が紙の端をつまみ、中央へ一本の折れ目を作った。
私が椅子から立つと、グレゴール様の声が追ってきた。
「アデライド。クラリスのためだ。いつまで意地を張るつもりだ」
私は鞄から仕度の覚えを出した。提出はせず、自分の手元で最初の頁を開いた。
「新しい後見人のもとで暮らすなら、クラリスの衣装はどなたが整えますか」
「その程度は女中がする」
「冬外套は」
「屋敷にあるものを使えばよい」
「寸法はご存じですか」
グレゴール様は願書の折れ目へ爪を入れた。紙が低く鳴り、折り目だけが深くなった。
「筆記具と紙は、どちらへ運ばれましたか」
「必要なら買わせる」
「縁組先へ持たせる品は、もう整っているのでしょうか」
「家の手配に口を出すな」
覚えには、クラリスへ届けたものだけが並んでいる。分家から受け取った品を記す欄は作っていないが、五年間、書き添えるものはなかった。
「昨日、クラリスは去年仕立てた袖を着ていました。卓上にあった筆は、春に送ったものです」
「だから何だ。今後は家が用意する」
「昨日まで、何を用意なさいましたか」
グレゴール様は願書を二つに折った。私ではなくオルガのほうを見たが、オルガは次の受付書類を揃えていた。
「私を責めても手続きは進まんぞ」
「クラリスの返事があれば、私にお知らせください」
「家の者が守ると言っている」
「クラリスは、誰に守ってほしいと申しましたか」
願書はさらに半分に折られた。グレゴール様は答えを置かず、その紙を上着の内側へ押し込んだ。
それから三度、封筒が役所へ運ばれた。封筒は替わっても、持ち帰るたび同じ場所の折れ目が深くなった。
オルガは毎回、同じ欄へ指を置いた。私は名簿の開かれた頁に触れず、クラリスから届くものだけを待った。
四日目の夕方、短い手紙が届いた。封は切られておらず、表にはクラリスの字で、私の嫁ぎ先の姓が書かれていた。
——姉上。私の衣装箱を開けた人は、誰もありません。
その下に、もう一行あった。
——ノアさんだけが、私の返事を待っています。
今度は、二行とも句点で閉じられていた。
私は便箋を仕度の覚えに挟んだ。返事には、翌日の時刻と役所の受付卓だけを書いた。
翌朝、クラリスは一人で来た。薄青の袖の上に古い外套を羽織り、白樺の筆を布に包んで持っていた。
「後見を替えたいとお考えですか」
私が尋ねると、クラリスは首を横に振った。オルガは名簿を開かず、私たちの間へ白紙を一枚置いた。
「縁組は」
「会ったこともありません」
「断ると、ご自分で伝えられますか」
クラリスの指が、包みの結び目をほどいた。白樺の筆を取り出し、白紙の上に置く。
「書きます。私の名前で」
「はい」
「姉上は、何と書けばよいか決めませんか」
「決めません」
クラリスは筆を持った。最初の一文字で穂先が少し震えたが、紙からは離さなかった。
縁組を受けないこと。後見替えを望まないこと。今後、自分に関する願書には自分の返事を添えること。
三つを書き終え、クラリスは自分の名を記した。私はその紙に署名せず、オルガも受け取らなかった。
「こちらは、クラリス様からグレゴール・ローデン様へお渡しになるお手紙ですね」
オルガが言うと、クラリスは自分で紙を折った。
「はい。私から渡します」
役所の外では、ノアさんが待っていた。分家の使いとしてではなく、帽子を両手で持ち、石段の下に一人で立っていた。
クラリスが扉から出ると、彼は私へ頭を下げる前に、妹へ向き直った。
「お返事は、ご自分でなさいましたか」
「はい」
「では、今日はそれだけ伺います」
ノアさんは道を空けた。クラリスは折った手紙を胸元へ収め、その隣を通った。
二人の間には、肩ひとつ分の隙間があった。その隙間を埋める者は、どちらにもいなかった。
* * *
七日後、グレゴール様がセヴラン家を訪ねてきた。先触れには、私個人への面会を願うと記されていた。
客間へ入った彼は、後見替えの願書を両手で持っていた。役所でついた折れ目は伸ばされていたが、紙の中央に白い筋が残っている。
「アデライド・セヴラン様」
食卓では呼び捨てにした口が、嫁ぎ先の敬称を選んだ。私は向かいの椅子を示し、茶には手をつけなかった。
「本日は、どのようなご用件でしょう」
「クラリスの後見について、改めてお話ししたい」
「クラリスは同席いたしません」
「承知している。まずは、あなたの連署をいただきたい」
グレゴール様は願書を卓上へ置いた。私の側へ押し出した指が、紙の中央で止まった。
「クラリスは、後見替えを望んでおりません」
「若い娘の判断だけで家のことは決められない。分家としても、あのままにはしておけんのだ」
「何が、あのままなのでしょう」
「縁組を断れば、先方への説明も要る。後見の件まで白紙になれば、分家の面目に関わる。家中の者にも示しがつかん」
願書を押す指へ、もう一本が加わった。けれど紙は、卓の中央を越えなかった。
「クラリスのためだ。後見人が定まらなければ、暮らしの差配もできない」
「今まで、どなたが差配なさいましたか」
「それを責められても仕方がない。今後は改める」
言葉の間にも、願書は私の前へ来なかった。グレゴール様の両手が、紙を手放さない。
「分家には、分家の事情がある。私にも守らねばならぬ者がいる。子らにまで影響が出ることは、あなたも望まないだろう」
「お子様方の扶養は、グレゴール様のお役目です」
「無関係だとは言っていない。だからこそ、家の形を整えねばならん」
「分家の後始末も、グレゴール様のお役目です。クラリスの後見と引き換えにはいたしません」
彼の指が願書の上から離れた。紙には爪の形だけが残った。
「では、どうすれば連署する」
「私がお尋ねしているのではありません」
「何を」
「クラリスが、誰を選ぶかです」
「選ばせれば、家がまとまらん」
「まとまらない家を、クラリスに背負わせるおつもりですか」
グレゴール様は茶器へ手を伸ばし、触れる前に引いた。願書の角を揃え直し、椅子から立った。
「アデライド・セヴラン様」
先ほどより、声が低くなっていた。
「どうか、このとおりだ。クラリスのために、連署をお願いしたい」
願書を持ったまま、グレゴール様の頭が下がった。紙の白い折れ筋が、私の正面へ向いた。
私はその顔が上がるまで待った。願書にも、卓上の筆にも手を伸ばさなかった。
「家は、書きません。書くのは人の手です」
グレゴール様の口が一度開き、閉じた。
「私が連署するのは、クラリスが自分で選び、自分の手で返事をしたときだけです。グレゴール様がお選びになった後見人のためには書きません」
「ならば、あれが選んだ者なら承認するのか」
「クラリスが選んだ者について、クラリスから求められれば」
「家へ戻らないと言ってもか」
「戻る場所も、クラリスが決めます」
グレゴール様は願書を卓上から取り上げた。折れ筋に沿って紙が曲がったが、伸ばし直さなかった。
「分家の名は、どうなる」
私は呼び鈴を一度鳴らした。扉の外で、退出を案内する足音が近づいた。
「お持ち帰りになるものを、お忘れなく」
グレゴール様は願書を抱えた。頭はもう下げなかったが、私の名を呼び捨てに戻すこともなかった。
扉が閉じたあと、卓上には手つかずの茶が二つ残った。私は自分の杯だけを下げさせ、空いた場所へクラリスの短い手紙を置いた。
* * *
ノアさんがクラリスを訪ねたのは、それからひと月後だった。役所の受付が閉じる刻に合わせ、私とオルガも同じ部屋にいた。
ノアさんは分家の願書も、誰かの紹介状も持っていなかった。手にしていたのは、自分の名だけを書いた一枚の紙だった。
「クラリス様に、お尋ねしたいことがあります」
彼は私ではなく、クラリスの前に立った。クラリスも椅子から立ち、白樺の筆を卓上へ置いた。
「はい」
「私と暮らしていただけますか」
ノアさんはそこで言葉を切った。クラリスの顔から答えを拾おうとはせず、両手を体の脇へ下ろして待った。
「分家の屋敷を出れば、今までと同じ暮らしはお約束できません。住む場所も、二人で探すことになります」
「ノアさんが決めた場所へ、私が行くのですか」
「いいえ」
ノアさんは首を横に振った。
「あなたが見て、断れる場所を探します。私の隣も、同じです」
クラリスの指が筆軸を転がした。白樺の軸は卓上を半周し、ノアさんの紙の手前で止まった。
「私には、置きたい机があります」
「運びます」
「窓辺に置きたいのです。人に開けられずに手紙を書けるところへ」
「窓のある部屋を探します」
「衣装箱も、自分で開けます」
「鍵はあなたがお持ちください」
クラリスは私を見た。私は膝の上で重ねた手をほどき、卓から離した。
「私は、ノアさんと暮らします」
白樺の筆は、クラリスの指の下で止まっていた。
「私が見て、私が選んだ部屋へ行きます。分家には戻りません。姉上のお家にも、守られるためには参りません」
ノアさんは一礼した。今度は分家の命令を受けたときより、ゆっくりと頭を上げた。
「では、もう一度伺います。私と暮らしていただけますか」
「はい。私が、そうします」
クラリスはノアさんの紙に、自分の希望と名を書いた。
オルガが立会人名簿を卓上へ運んだ。五年前の頁を開き、クラリスの名と私の署名を順に確かめる。
新しい願書には、グレゴール様の選んだ後見人の名はなかった。クラリスの希望とノアさんの名が、それぞれ本人の筆跡で記されている。
「連署欄はこちらです」
オルガは空欄を指した。五年間守られていた白さが、私の手の前にある。
私はクラリスへ向いた。
「この方と、この場所を選びますか」
「はい。私が選びました」
「あとで違うと思ったときは」
「私が、違うと言います」
クラリスは白樺の筆を取り上げた。軸を布で一度拭き、私のほうへ差し出す。
「姉上。書いてください」
求められたのは、それが初めてだった。
私は筆を受け取り、五年前の署名の隣に新しい日付を置いた。続けて願書の連署欄へ、今の姓で名を書く。
アデライド・セヴラン。
最後の一画を払うと、オルガが願書を受け取った。受領の印が、私の署名ではなく、クラリスの返事の横へ押された。
「受け付けました」
オルガはそれだけを告げた。グレゴール様の願書を戻したときと同じ声だった。
私は筆をクラリスへ返した。続いて立会人名簿を妹の前へ滑らせ、五年前の頁から手を離す。
「これは、あなたの名がある頁です」
クラリスは名簿を受け取った。綴じ紐の結び目を指で確かめ、私がしてきたように中央へ直した。
「姉上が持たなくてよいのですか」
「もう、私が閉じる頁ではありません」
クラリスは名簿をオルガへ返した。オルガが棚へ運ぶ間、ノアさんは妹の荷に触れず、隣で待っていた。
役所を出ると、風がクラリスの薄青の袖を揺らした。ほつれていなかった縫い目には、一か月のうちに自分で直した跡が増えている。
石段の下で、道は二つに分かれていた。一方は分家の屋敷へ、もう一方は二人が部屋を探す通りへ続いている。
「姉上」
クラリスが私へ筆を見せた。白樺の軸には、私が選んだ頃にはなかった細かな墨染みがついている。
「手紙を書きます」
「封をしたものを送ってください」
「はい」
ノアさんが先に歩き出すことはなかった。クラリスが右の道へ一歩下りてから、その半歩後ろへ続いた。
嫁いだ姉はもう他家の人間。
ならば、他家の手でローデン家の綻びを塞ぐことも、妹を私の家へ移して守り続けることもない。分家の折れた願書も、残された務めも、グレゴール様の手元にある。
クラリスは石段を下りきる前に、一度だけ振り返った。私は鞄の留め金へ手をかけ、何も入っていないことを確かめた。
「行ってらっしゃい、クラリス」
「行ってまいります、姉上」
妹は自分で選んだ道へ向き直った。私は結ぶもののなくなった両手を下ろし、その背が角を曲がるまで、開いたままにしていた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




