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政略結婚で妹の後見と名を奪われたので、姉の私は立会人名簿の署名を開きました。分家は詫びを寄越すことになります

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/02

「クラリスの返事は、まだです」


 姉として私がそう申し上げると、グレゴール様は妹ではなく、私の姓を見た。食卓の端に置かれた後見替えの願書を、太い指が二度叩いた。


「返事は家がする。ローデン家が決めたことだ」


 クラリスの箸が止まった。匙皿へ落ちかけた豆を箸先で挟んだまま、顔を上げない。


「縁組をなさるのはクラリスです。後見を替えるにしても、本人にお尋ねください」


「嫁いだ姉はもう他家の人間」


 グレゴール様は、私の前にあった椅子の背へ手を置いた。そのまま給仕へ顎を振り、食卓から一脚だけ下げさせた。


「アデライド、これはローデン家の話だ。セヴラン家へ嫁いだ者に、口を挟む資格はない。退席してもらおう」


 椅子の脚が床を擦った。六人分の食器が並ぶ卓で、空いた場所だけが広くなった。


「後見は私が引き継ぐ。縁組先にも、家として承諾すると伝えてある。クラリスに不足はさせん」


 グレゴール様は願書を引き寄せ、分家の者が署名した箇所を上にした。最後の連署欄には、まだ紙の白さが残っていた。


 クラリスの袖口は、去年仕立てさせた薄青の布だった。卓上の筆には、春に私が選んだ白樺の軸が使われている。


「クラリス。異存はないな」


「私は——」


「家の決定だ。先方にも待っていただいている」


 挟まれていた豆が皿へ戻った。クラリスは箸を揃えようとして、片方だけを取り落とした。


 グレゴール様の後ろでは、随行の青年が記録を取っていた。ノア・ヘイルという名は、分家から届く受領書で何度か見ている。


 ノアさんは書きかけの行から筆を離した。紙の上へ落ちた墨が、一文字の端を丸く太らせた。


「では、ご本人の返事を伺いたい」


 グレゴール様の指が、願書を叩くのをやめた。


「ヘイル。おまえは記録を取ればよい」


「記録するために伺っています。クラリス様は、まだお答えになっていません」


「家が答えたと言っている」


 先ほどまでの声は食卓の幅に収まっていた。今の声は、閉じた扉の向こうまで届いた。


 ノアさんは筆を置いた。頭は下げたが、クラリスから目を外さなかった。


「もうよい。下がれ」


「承知しました」


 彼は記録紙を閉じた。クラリスの返事がない行には、何も書き足さなかった。


 私は椅子のなくなった場所から鞄を持ち上げた。留め金を確かめると、中で小さな金具が鳴った。


 鞄には、クラリスの仕度の覚えを入れてある。衣服を届けた日、靴を直した日、筆や紙を補った日を、五年前から記したものだった。


「姉上」


 クラリスの声に、グレゴール様が先に答えた。


「アデライドは帰る。おまえも余計なことを考える必要はない」


 クラリスは膝の上で手を重ねた。右の中指には、筆胼胝が薄く残っている。


 三日前に届いた短い手紙にも、その指の跡があった。書かれていたのは二行だけだった。


 ——姉上。私の新しい家が、私の知らないところで決まりそうです。


 二行目の末尾には、句点がなかった。


「お言葉どおり、退席いたします」


 私はずれた箸を拾い、クラリスの皿の脇へ揃えた。青い袖口の縫い目にほつれはなく、白樺の筆にも欠けはない。


「その願書は、明日お出しになりますか」


「すでに整っている。朝一番に提出させる」


「承知いたしました」


 グレゴール様は願書の連署欄を手で隠した。私はその手にも、願書にも触れなかった。


 食堂を出る前に一度だけ振り返ると、クラリスは箸を持ち直していた。けれど皿の上のものは、ひとつも減っていなかった。


    *    *    *


 翌朝、役所の受付卓には、後見替えの願書が届いていた。グレゴール様の封蝋は割られ、取次役のオルガが一枚ずつ内容を確かめているところだった。


「立会人名簿を拝見いたします」


 私が名乗ると、オルガは願書の名と私の顔を順に見た。問い返さず、奥の棚から厚い名簿を抱えてきた。


「五年前の頁ですね」


「はい」


 名簿の綴じ紐は、棚から下ろした拍子に少し緩んでいた。私は椅子へ掛ける前に、紐の端を揃えた。


 輪を作り、片方をくぐらせ、引く。結び目が背の中央へ戻るまで、指先で形を直した。


「いつも直してくださいますね」


「頁を傷めますから」


 オルガはそれ以上尋ねなかった。名簿の端を私へ向け、両手を離した。


 私は綴じ紐をほどき、五年前の頁を開いた。閉じるためではない。


 両親を葬った翌日の日付が、頁の上にある。立会人の欄には、まだローデン姓だった私の署名が残っていた。


 その下に記されたクラリスの名は、当時の細い文字だった。後見に関わる変更がある場合の連署欄だけが、五年分の白さを保っている。


 私は頁を卓上に開いたまま、手を離した。


 オルガは私の署名と願書を見比べた。次に、願書の末尾を人差し指で押さえた。


「連署がありません」


「家の当主の署名はございます」


 願書を届けに来た分家の使いが、封筒を抱え直した。オルガの指は空欄から動かなかった。


「立会人の連署がありません」


「アデライド様は、すでに他家へ嫁いでおられます。現当主が後見を引き継ぐのですから、支障はないはずです」


「立会は、署名した者の名で残ります」


 オルガは名簿の一頁だけを示した。声も、指の置き方も変わらない。


「変更の願書には、立会人の連署が必要です。お持ち帰りください」


 願書が封筒の上へ返された。使いの手はすぐには出ず、紙の角だけが封筒から滑り落ちた。


「アデライド様」


 使いは私を見た。私は開いた頁の横に座ったまま、鞄の留め金を閉じた。


「連署をいただけますか」


「クラリスは、後見を替えてほしいと申しましたか」


「当主がお決めになったことです」


「では、クラリスの返事をお持ちください」


 使いは願書を取り上げた。オルガへ一礼し、名簿の頁を見ないように封筒を重ねた。


 その背が扉の向こうへ消えてから、オルガが私へ向き直った。


「この頁を照合に用います。よろしいですか」


「お願いいたします」


「以後、クラリス・ローデン様に関する変更は、この署名の連署なしには受け付けません。取り下げる場合も、同じです」


「はい」


 五年前の署名を公に使えば、実家の食卓へ曖昧に戻る道はなくなる。私の椅子が戻されることもない。


 私は名簿を閉じなかった。開いた頁の横で、仕度の覚えを取り出した。


「こちらは提出する書面ではありません」


「承知しました」


「クラリスが自分で返事をするまでに、必要なものだけ確かめます」


 オルガは名簿の向きを直した。私の署名が、受付側から読める向きになった。


 昼を過ぎる前に、分家から使いが戻った。手には先ほどと同じ願書があり、封筒だけが新しくなっていた。


「当主がお会いになるそうです」


「クラリスもご一緒ですか」


「いいえ」


「では、本日は帰ります」


 使いが押し黙る横で、オルガは願書を受け取らなかった。空の連署欄を一度指し、受付卓の手前へ押し戻した。


 私は開いた頁に紙片を挟んだ。今度は綴じ紐を結ばず、名簿をオルガへ預けた。


    *    *    *


 翌日、願書の後見人候補の名が変わった。グレゴール様自身ではなく、分家の年長者が記されていた。


 提出日も書き直されている。末尾の連署欄だけは、昨日と同じく空いていた。


「後見を担う者を替えた。これなら問題はない」


 グレゴール様は自ら受付へ来ていた。役所の入口では私に目礼もせず、オルガへ願書を差し出した。


 オルガは一行目から読み、最後の欄まで指を滑らせた。立会人名簿の五年前の頁を開き、二つの紙を並べる。


「連署がありません」


「後見人は別人だ。昨日の願書とは違う」


「クラリス・ローデン様の後見を変更する願書です」


「家の者が引き受けると言っている。立会人は他家へ嫁いだ女だぞ」


 オルガは名簿の署名を確かめた。次に空欄を指し、願書をグレゴール様へ返した。


「連署をいただいてから、改めてお持ちください」


 グレゴール様は受け取らず、願書を卓上に残した。紙の端がオルガの袖に触れたが、彼女は受付の内側へ引かなかった。


「役所が家の決定を妨げるのか」


「必要な欄が空いています」


「形式の話をしているのではない」


「私は記載を確かめています」


 願書は、グレゴール様の側に置かれたままだった。やがて彼の指が紙の端をつまみ、中央へ一本の折れ目を作った。


 私が椅子から立つと、グレゴール様の声が追ってきた。


「アデライド。クラリスのためだ。いつまで意地を張るつもりだ」


 私は鞄から仕度の覚えを出した。提出はせず、自分の手元で最初の頁を開いた。


「新しい後見人のもとで暮らすなら、クラリスの衣装はどなたが整えますか」


「その程度は女中がする」


「冬外套は」


「屋敷にあるものを使えばよい」


「寸法はご存じですか」


 グレゴール様は願書の折れ目へ爪を入れた。紙が低く鳴り、折り目だけが深くなった。


「筆記具と紙は、どちらへ運ばれましたか」


「必要なら買わせる」


「縁組先へ持たせる品は、もう整っているのでしょうか」


「家の手配に口を出すな」


 覚えには、クラリスへ届けたものだけが並んでいる。分家から受け取った品を記す欄は作っていないが、五年間、書き添えるものはなかった。


「昨日、クラリスは去年仕立てた袖を着ていました。卓上にあった筆は、春に送ったものです」


「だから何だ。今後は家が用意する」


「昨日まで、何を用意なさいましたか」


 グレゴール様は願書を二つに折った。私ではなくオルガのほうを見たが、オルガは次の受付書類を揃えていた。


「私を責めても手続きは進まんぞ」


「クラリスの返事があれば、私にお知らせください」


「家の者が守ると言っている」


「クラリスは、誰に守ってほしいと申しましたか」


 願書はさらに半分に折られた。グレゴール様は答えを置かず、その紙を上着の内側へ押し込んだ。


 それから三度、封筒が役所へ運ばれた。封筒は替わっても、持ち帰るたび同じ場所の折れ目が深くなった。


 オルガは毎回、同じ欄へ指を置いた。私は名簿の開かれた頁に触れず、クラリスから届くものだけを待った。


 四日目の夕方、短い手紙が届いた。封は切られておらず、表にはクラリスの字で、私の嫁ぎ先の姓が書かれていた。


 ——姉上。私の衣装箱を開けた人は、誰もありません。


 その下に、もう一行あった。


 ——ノアさんだけが、私の返事を待っています。


 今度は、二行とも句点で閉じられていた。


 私は便箋を仕度の覚えに挟んだ。返事には、翌日の時刻と役所の受付卓だけを書いた。


 翌朝、クラリスは一人で来た。薄青の袖の上に古い外套を羽織り、白樺の筆を布に包んで持っていた。


「後見を替えたいとお考えですか」


 私が尋ねると、クラリスは首を横に振った。オルガは名簿を開かず、私たちの間へ白紙を一枚置いた。


「縁組は」


「会ったこともありません」


「断ると、ご自分で伝えられますか」


 クラリスの指が、包みの結び目をほどいた。白樺の筆を取り出し、白紙の上に置く。


「書きます。私の名前で」


「はい」


「姉上は、何と書けばよいか決めませんか」


「決めません」


 クラリスは筆を持った。最初の一文字で穂先が少し震えたが、紙からは離さなかった。


 縁組を受けないこと。後見替えを望まないこと。今後、自分に関する願書には自分の返事を添えること。


 三つを書き終え、クラリスは自分の名を記した。私はその紙に署名せず、オルガも受け取らなかった。


「こちらは、クラリス様からグレゴール・ローデン様へお渡しになるお手紙ですね」


 オルガが言うと、クラリスは自分で紙を折った。


「はい。私から渡します」


 役所の外では、ノアさんが待っていた。分家の使いとしてではなく、帽子を両手で持ち、石段の下に一人で立っていた。


 クラリスが扉から出ると、彼は私へ頭を下げる前に、妹へ向き直った。


「お返事は、ご自分でなさいましたか」


「はい」


「では、今日はそれだけ伺います」


 ノアさんは道を空けた。クラリスは折った手紙を胸元へ収め、その隣を通った。


 二人の間には、肩ひとつ分の隙間があった。その隙間を埋める者は、どちらにもいなかった。


    *    *    *


 七日後、グレゴール様がセヴラン家を訪ねてきた。先触れには、私個人への面会を願うと記されていた。


 客間へ入った彼は、後見替えの願書を両手で持っていた。役所でついた折れ目は伸ばされていたが、紙の中央に白い筋が残っている。


「アデライド・セヴラン様」


 食卓では呼び捨てにした口が、嫁ぎ先の敬称を選んだ。私は向かいの椅子を示し、茶には手をつけなかった。


「本日は、どのようなご用件でしょう」


「クラリスの後見について、改めてお話ししたい」


「クラリスは同席いたしません」


「承知している。まずは、あなたの連署をいただきたい」


 グレゴール様は願書を卓上へ置いた。私の側へ押し出した指が、紙の中央で止まった。


「クラリスは、後見替えを望んでおりません」


「若い娘の判断だけで家のことは決められない。分家としても、あのままにはしておけんのだ」


「何が、あのままなのでしょう」


「縁組を断れば、先方への説明も要る。後見の件まで白紙になれば、分家の面目に関わる。家中の者にも示しがつかん」


 願書を押す指へ、もう一本が加わった。けれど紙は、卓の中央を越えなかった。


「クラリスのためだ。後見人が定まらなければ、暮らしの差配もできない」


「今まで、どなたが差配なさいましたか」


「それを責められても仕方がない。今後は改める」


 言葉の間にも、願書は私の前へ来なかった。グレゴール様の両手が、紙を手放さない。


「分家には、分家の事情がある。私にも守らねばならぬ者がいる。子らにまで影響が出ることは、あなたも望まないだろう」


「お子様方の扶養は、グレゴール様のお役目です」


「無関係だとは言っていない。だからこそ、家の形を整えねばならん」


「分家の後始末も、グレゴール様のお役目です。クラリスの後見と引き換えにはいたしません」


 彼の指が願書の上から離れた。紙には爪の形だけが残った。


「では、どうすれば連署する」


「私がお尋ねしているのではありません」


「何を」


「クラリスが、誰を選ぶかです」


「選ばせれば、家がまとまらん」


「まとまらない家を、クラリスに背負わせるおつもりですか」


 グレゴール様は茶器へ手を伸ばし、触れる前に引いた。願書の角を揃え直し、椅子から立った。


「アデライド・セヴラン様」


 先ほどより、声が低くなっていた。


「どうか、このとおりだ。クラリスのために、連署をお願いしたい」


 願書を持ったまま、グレゴール様の頭が下がった。紙の白い折れ筋が、私の正面へ向いた。


 私はその顔が上がるまで待った。願書にも、卓上の筆にも手を伸ばさなかった。


「家は、書きません。書くのは人の手です」


 グレゴール様の口が一度開き、閉じた。


「私が連署するのは、クラリスが自分で選び、自分の手で返事をしたときだけです。グレゴール様がお選びになった後見人のためには書きません」


「ならば、あれが選んだ者なら承認するのか」


「クラリスが選んだ者について、クラリスから求められれば」


「家へ戻らないと言ってもか」


「戻る場所も、クラリスが決めます」


 グレゴール様は願書を卓上から取り上げた。折れ筋に沿って紙が曲がったが、伸ばし直さなかった。


「分家の名は、どうなる」


 私は呼び鈴を一度鳴らした。扉の外で、退出を案内する足音が近づいた。


「お持ち帰りになるものを、お忘れなく」


 グレゴール様は願書を抱えた。頭はもう下げなかったが、私の名を呼び捨てに戻すこともなかった。


 扉が閉じたあと、卓上には手つかずの茶が二つ残った。私は自分の杯だけを下げさせ、空いた場所へクラリスの短い手紙を置いた。


    *    *    *


 ノアさんがクラリスを訪ねたのは、それからひと月後だった。役所の受付が閉じる刻に合わせ、私とオルガも同じ部屋にいた。


 ノアさんは分家の願書も、誰かの紹介状も持っていなかった。手にしていたのは、自分の名だけを書いた一枚の紙だった。


「クラリス様に、お尋ねしたいことがあります」


 彼は私ではなく、クラリスの前に立った。クラリスも椅子から立ち、白樺の筆を卓上へ置いた。


「はい」


「私と暮らしていただけますか」


 ノアさんはそこで言葉を切った。クラリスの顔から答えを拾おうとはせず、両手を体の脇へ下ろして待った。


「分家の屋敷を出れば、今までと同じ暮らしはお約束できません。住む場所も、二人で探すことになります」


「ノアさんが決めた場所へ、私が行くのですか」


「いいえ」


 ノアさんは首を横に振った。


「あなたが見て、断れる場所を探します。私の隣も、同じです」


 クラリスの指が筆軸を転がした。白樺の軸は卓上を半周し、ノアさんの紙の手前で止まった。


「私には、置きたい机があります」


「運びます」


「窓辺に置きたいのです。人に開けられずに手紙を書けるところへ」


「窓のある部屋を探します」


「衣装箱も、自分で開けます」


「鍵はあなたがお持ちください」


 クラリスは私を見た。私は膝の上で重ねた手をほどき、卓から離した。


「私は、ノアさんと暮らします」


 白樺の筆は、クラリスの指の下で止まっていた。


「私が見て、私が選んだ部屋へ行きます。分家には戻りません。姉上のお家にも、守られるためには参りません」


 ノアさんは一礼した。今度は分家の命令を受けたときより、ゆっくりと頭を上げた。


「では、もう一度伺います。私と暮らしていただけますか」


「はい。私が、そうします」


 クラリスはノアさんの紙に、自分の希望と名を書いた。


 オルガが立会人名簿を卓上へ運んだ。五年前の頁を開き、クラリスの名と私の署名を順に確かめる。


 新しい願書には、グレゴール様の選んだ後見人の名はなかった。クラリスの希望とノアさんの名が、それぞれ本人の筆跡で記されている。


「連署欄はこちらです」


 オルガは空欄を指した。五年間守られていた白さが、私の手の前にある。


 私はクラリスへ向いた。


「この方と、この場所を選びますか」


「はい。私が選びました」


「あとで違うと思ったときは」


「私が、違うと言います」


 クラリスは白樺の筆を取り上げた。軸を布で一度拭き、私のほうへ差し出す。


「姉上。書いてください」


 求められたのは、それが初めてだった。


 私は筆を受け取り、五年前の署名の隣に新しい日付を置いた。続けて願書の連署欄へ、今の姓で名を書く。


 アデライド・セヴラン。


 最後の一画を払うと、オルガが願書を受け取った。受領の印が、私の署名ではなく、クラリスの返事の横へ押された。


「受け付けました」


 オルガはそれだけを告げた。グレゴール様の願書を戻したときと同じ声だった。


 私は筆をクラリスへ返した。続いて立会人名簿を妹の前へ滑らせ、五年前の頁から手を離す。


「これは、あなたの名がある頁です」


 クラリスは名簿を受け取った。綴じ紐の結び目を指で確かめ、私がしてきたように中央へ直した。


「姉上が持たなくてよいのですか」


「もう、私が閉じる頁ではありません」


 クラリスは名簿をオルガへ返した。オルガが棚へ運ぶ間、ノアさんは妹の荷に触れず、隣で待っていた。


 役所を出ると、風がクラリスの薄青の袖を揺らした。ほつれていなかった縫い目には、一か月のうちに自分で直した跡が増えている。


 石段の下で、道は二つに分かれていた。一方は分家の屋敷へ、もう一方は二人が部屋を探す通りへ続いている。


「姉上」


 クラリスが私へ筆を見せた。白樺の軸には、私が選んだ頃にはなかった細かな墨染みがついている。


「手紙を書きます」


「封をしたものを送ってください」


「はい」


 ノアさんが先に歩き出すことはなかった。クラリスが右の道へ一歩下りてから、その半歩後ろへ続いた。


 嫁いだ姉はもう他家の人間。


 ならば、他家の手でローデン家の綻びを塞ぐことも、妹を私の家へ移して守り続けることもない。分家の折れた願書も、残された務めも、グレゴール様の手元にある。


 クラリスは石段を下りきる前に、一度だけ振り返った。私は鞄の留め金へ手をかけ、何も入っていないことを確かめた。


「行ってらっしゃい、クラリス」


「行ってまいります、姉上」


 妹は自分で選んだ道へ向き直った。私は結ぶもののなくなった両手を下ろし、その背が角を曲がるまで、開いたままにしていた。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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