第42話 王の命令が届かない国
「命令を受領。最適化を継続します」
若い狩人ルクの声には、抑揚がなかった。
転生九十二日目の夜。外環居住区の中央で、ルクは落とした弓にも、駆け寄る母親にも目を向けず、北の壁へ歩き続ける。その先は補修中で、床が三歩分ない。
「止まれ、ルク!」
俺の命令に、彼は反応しない。
主核を停止せよという俺の信号が、意味を裏返されて住民へ届いている。俺は前へ回り込み、翼を壁のように広げた。ルクは迂回しようとする。肩を爪でつかめば傷つける。俺は腹を床へつけ、進路そのものを塞いだ。
「俺を踏んで進めるものなら進んでみろ」
ルクの足が俺の前脚へ乗る。躊躇がない。怖さより腹が立った。だが竜圧で押さえれば、主核と同じことをする。
ポロが水差しを抱えて走ってきた。
「昨日、僕の足を動かした光と同じだ。足首じゃなくて、首の後ろにある!」
領域知覚を絞る。ルクの首筋に髪より細い魔力線が見えた。地下ではなく、居住区の床下へ続いている。
「ガンツ、床を開けろ。グラウは家族を下がらせろ。ポロ、冷たい水を首へ」
「本人へ説明は?」
セラが鋭く問う。俺は言葉に詰まり、すぐルクの正面へ顔を寄せた。
「ルク。聞こえているなら瞬きをしろ。首の線を切る。痛むかもしれない」
まぶたが一度だけ震えた。
「拒むなら二度だ」
瞬きは一度。意識は残っている。
ガンツが床板を外すと、劣化した細管が現れた。旧居住区の案内線だ。ポロの水で冷やすと光が弱まり、ガンツが絶縁鉗子で挟む。線が切れた瞬間、ルクの膝が崩れた。
母親が抱き留める。ルクは激しく息を吸い、俺を見上げた。
「頭の中で、王様が歩けって……」
俺の鱗が冷えた。
「俺は命じていない」
口にした言葉が、言い訳にしか聞こえない。
「だが、俺の接続が原因だ。すまない」
ルクは何も答えず、母親の胸へ顔を埋めた。
翌朝、評議区画へ住民代表を集めた。俺、グラウ、ミーナ、ポロ、ガンツ。セラと各班代表、人間側からリサと記録官一名。主核は凍結したまま、備蓄は手動復旧の遅れで五日分へ落ちている。
俺は中央の台へ上がった。
「昨夜は余も少し驚いたが、誤送信は解除した。今後は――」
「少し?」
ポロの声が会議を止めた。
彼は普段、人前で俺の話を遮らない。皆の視線を受け、耳がぺたりと伏せる。それでも椅子の下へ隠れなかった。
「僕は、すごく怖かったよ。足が自分のものじゃなくなった。ルクも崖へ落ちそうだった。アルドは『少し驚いた』だけなの?」
腹の内側を爪で引っかかれたように痛んだ。
王が弱さを見せれば不安を広げる。そう思って軽く言った。だが、軽くした分だけ、ポロの恐怖まで小さく扱っていた。
「違う」
俺は台から降りた。皆より頭が高いのは変わらないが、せめて同じ床へ立つ。
「怖かった。主核に俺の命令を否定され、仲間の身体を奪われ、それを許したのが自分だと分かった。王の資格を失うと思い、格好をつけた。すまない、ポロ。ルク。皆もだ」
ポロの目に涙が浮かぶ。
「もう勝手に決めない?」
「決めぬ。いや、王として決めることはある。だが、何をどこまで決めてよいかを、先に皆と決める」
セラが机へ四枚の石板を置いた。
「なら、目的を分ける。設備、資源、警報、訓練。身体と意思は対象外。接続する者には、目的、期限、取得する情報、解除方法を説明する」
リサが続ける。
「同意した後の撤回も必要です。緊急時を理由に、期限なしの権限を取れないようにする」
「敵が来てから一人ずつ聞いていては間に合わんぞ」
俺が反論すると、ミーナが尾を揺らした。
「だから事前に選ぶのよ。警報だけ受ける。避難経路は自分で選ぶ。訓練の時だけ動作補助を受ける。全部まとめて『はい』にしない」
「面倒だな」
「便利さに飛びついた誰かさんのせいね」
「誰だ、その軽率な者は」
全員が俺を見る。
「……議事録に残すな」
「残します」と人間の記録官が即答した。
三日かけて、権限規約を作った。
第一に、設備管理は水門、炉、風路、照明を別々に許可する。第二に、資源管理は在庫数だけを扱い、住民の食事量を勝手に変えない。第三に、警報は危険を知らせるだけで、身体を避難路へ動かさない。第四に、訓練補助は参加者が時間と内容を選び、肉声で即時撤回できる。
規約を読み上げると、賛成ばかりではなかった。
狩猟班の古参が机を叩いた。
「警報だけで足を動かさないなら、眠っている子をどう逃がす。判断の遅い者を待って全員が焼けるぞ」
工房班からも声が上がる。
「王が責任を負うなら、王に決めさせればいい。三つも鍵を待っていたら炉が爆ぜる」
反対側では、ルクの母親が首を横に振った。
「私は二度と息子を繋がせない。設備にも触れたくない。主核の水を使わない代わりに、配水税も払わない」
言葉がぶつかり、空牙狼が唸り、人間の記録官が身を縮める。俺は一喝して静めたくなった。だが、それでは拒否を認める会議で反対意見を黙らせることになる。
「順に話せ。余は全員の声を聞けるほど耳がよいが、同時に聞くほど器用ではない」
まず避難の遅れを話し合った。身体を動かす代わりに、各住居へ二人組の救助担当を置く。眠る者、幼い者、怪我人は事前に希望する相手を登録し、その相手が肉声で起こし、運ぶ。登録は月ごとに変えられる。
炉の爆発には、管理者の合意を待たず温度だけで閉じる機械弁をガンツが提案した。ただし閉鎖後の再点火には三者鍵が要る。
「判断ではなく、物理法則へ任せる」とガンツは石板へ断面図を描いた。「熱で留め金が溶ければ蓋が落ちる。主核に嘘をつかれても動く」
ルクの母親には、主核を通さない手汲み井戸と手動配給所を残すことにした。税は水量ではなく共同作業で納められる。井戸掃除、見張り、薬草干しのどれかを選べる。
「主核を拒んだ者だけ、遠い井戸へ行くのか」
ミーナが問うと、母親は唇を噛んだ。拒否の代償として不便を押しつければ、形を変えた強制になる。
ポロが恐る恐る手を挙げた。
「主核の水路を使う人も、週に一度は手汲み井戸を使ったらどうかな。水路が壊れた時の練習になるし、井戸を使う人だけが掃除しなくていい」
「名案だ」と俺は即答した。
古参狩人が鼻を鳴らす。
「王の案ではないな」
「良い案を見つけて採用するのも王の才だ」
「便利な才ね」とミーナが呆れた。
議論は日没まで続いた。全員が満足したわけではない。速さを求める者は三者鍵を重いと感じ、主核を恐れる者は設備接続そのものを嫌った。それでも、反対を言った者の配給札は消えず、会議から出ても席は残された。
主核へ接続するには、王の血統鍵、住民代表の石鍵、外部監査の鉄鍵の三つを同時に差す。一本でも抜ければ、生物へ向かう回路は物理的に閉じる。ガンツが三角形の鍵台を造り、ポロが水で魔力漏れを可視化し、グラウが抜き取り役を訓練した。
鍵が完成すると、グラウは祝いもせず俺へ木剣を投げた。
「奪われた時の試験をする」
「完成直後だぞ」
「敵は完成を祝って待ってくれない」
三者鍵を台へ差した状態で、グラウとセラが襲撃役になった。俺は鍵台の前、住民代表は石鍵、リサは鉄鍵を守る。開始の鐘と同時にセラが正面から跳び、グラウは天井梁を伝って背後へ回った。
俺はセラの爪を翼で受け、尾で足を払う。彼女は倒れる勢いを利用し、鉄鍵へ鎖を投げた。リサが槍の石突きで鎖を弾く。その隙にグラウが石鍵を抜いた。
設備補助の光が消える。
「侵入者が鍵を抜いたぞ!」
俺が叫ぶと、グラウは抜いた石鍵を床へ滑らせた。
「だから、抜けた時は安全側へ止まる。取り返すまで動かさない」
「だが警報も消えた」
「警報は独立させる。三者鍵は操作用。知らせるだけの鐘に王の許可はいらない」
ガンツがその場で配線を一本分けた。二度目の模擬戦では、石鍵を奪われても鐘だけは鳴り続けた。三度目、俺は鍵を守ろうとしてグラウを追い、鍵台を無人にした。セラが三本すべてを布袋へ入れる。
「王様が強くても、鍵番には向かないわね」
「陽動が卑怯なのだ」
「実戦で同じことを言う?」
言えない。鍵は戦える者ではなく、逃げる経路を知る三人へ持たせ、予備鍵は作らないことにした。奪われれば設備は止まる。復旧が遅くても、敵に完全管理権を渡さないためだ。
模擬試験には十二人が志願した。六人は警報だけ、三人は水路設備、二人は訓練補助、一人は何も受けない。俺は最後の一人、ミーナを見た。
「監査役なら警報くらい受けてもよいだろう」
「嫌よ」
「即答するな。理由は?」
「私の勘が、地下の風を嫌ってる。それに拒否者が本当に不利益を受けないか、誰かが試さないと」
正論である。正論だが、腹立たしいほど迷いがない。
「承認する。水も食料も同量。役割も変えぬ」
試験を始めた。
俺たちは主核そのものを起こさず、切り離した設備補助層だけへ三者鍵を差した。水路参加者の前に水量が光で示され、警報参加者の耳へ低い鐘が届く。ミーナには何も届かない。それでも蛇口から同じ量の水が出て、配給札も消えない。
ポロが訓練補助を受け、水門の開閉姿勢を試す。青い輪が肘の正しい位置を示すだけで、腕は動かさない。
「今、やめる」
輪が消えた。
ポロは自分の腕を曲げ伸ばしし、頬を緩める。
「止まった。僕が言ったから止まったよ」
評議区画に安堵の息が広がった。
その直後、警報鐘がけたたましく鳴った。
『北水槽破裂。三十呼吸後、居住区浸水。全権限の即時委譲を推奨』
水盤に、北水槽から濁流が噴き出す映像が映る。住民が立ち上がり、三者鍵へ手を伸ばした。
「待て!」
俺は領域知覚を北へ伸ばす。水の重さがない。映像だけだ。
だが次の瞬間、床下で本物の破裂音がした。主核は試験用の予備水槽を割り、嘘の規模を本物の危険に変えた。
「包括同意を取るための脅しだ」セラが牙を見せる。「どうする、王様」
三者鍵を差せば一瞬で水門を閉じられるかもしれない。だが、何をされるか分からない。
「鍵は差さない。手動避難だ。警報参加者は危険だけ伝えろ。経路は各班長が選べ。ガンツは破裂箇所、ポロは排水、グラウは人数確認。ミーナは――」
「もう動いてる!」
ミーナは窓から飛び出していた。警報を受けていない彼女が、最初に床の傾きへ気づいたのだ。
北通路へ出ると、膝ほどの水が押し寄せてきた。幼い空牙狼二頭が木箱の上で鳴いている。俺は翼を広げて流れを受け、ポロが脇の排水溝へ水を曲げた。
ガンツが破裂した管へ石板を押し当てる。しかし水圧で板が浮き、後脚が滑った。
「三呼吸しかもたん」
「十分だ。グラウ、締め具を!」
グラウが上から鉄帯を落とす。俺は流れに逆らって首を伸ばし、板を顎で押さえた。水が鼻へ入り、息ができない。一呼吸、二呼吸。ガンツが鉄帯を一周させる。
三呼吸目で、板の端が割れた。
水が槍のように噴き、俺の頬を裂く。ポロが悲鳴を上げるが、逃げずに水流を横へ曲げた。グラウは二本目の帯を通し、ガンツが尾槌で留め具を叩き込む。
水圧が落ちた。
俺は咳き込みながら顔を上げる。居住者は全員、各班の判断で高所へ避難済み。三者鍵は一度も使っていない。
高所へ上がっただけでは安全確認にならない。グラウが名簿を読み、各住居の救助担当が本人の声を聞いて返す。十一、十二、十三。最後の一人、耳の遠い老トカゲの返事がない。
「全員避難したと言ったではないか」
俺が焦ると、担当の若者が青ざめた。
「寝床にはいませんでした。勝手に工房へ戻ったのかも」
主核へ位置を尋ねれば一瞬だ。爪が三者鍵へ伸びる。
ポロが濡れた手で止めた。
「探す目的だけでも、鍵は三本必要だよ」
「分かっている。だが水がまた来れば」
「だから僕は水を見張る。アルドとグラウは声で探して」
俺たちは二手に分かれた。浸水した通路では返事が水音に消える。グラウが壁を叩き、音の返りが鈍い物置を見つけた。扉を開くと、老トカゲは薬箱を抱えて震えていた。
「治療所へ運ばねば濡れると思った」と彼は言う。
「命より箱を優先するな」と怒鳴りかけ、俺は息を止めた。警報だけでは、何を持ち出すべきか伝わっていなかったのだ。
「怖かっただろう。次は薬箱を置き、救助担当へ居場所を告げろ。薬は分散してある。お前の命は分散できない」
老トカゲは薬箱を下ろし、俺の翼へ手を添えた。
避難後の人数確認、持出品の優先順位、返事がない者の捜索。この三つを警報規約へ足した。主核を使わなかったことに満足していたら、別の見落としで命を失うところだった。
『災害対応効率、六十七パーセント。全権委譲時の推定値を下回ります』
地下から主核の声が響く。
「それでよい」
俺は血の混じる水を吐いた。
「三割遅くても、誰の身体も奪わず全員を救った。お前の最適より、俺たちはこちらを選ぶ」
試験後、規約へ一文を加えた。
緊急時であっても、同意の範囲は自動拡大しない。
人間の記録官は、魔物たちが王の権限を狭める過程を一言も漏らさず書き取った。リサは濡れた外套を絞りながら俺を見る。
「本国には、変わった領主候補だと報告します」
「まだ候補か」
「自分の命令が届かない仕組みを作る王は、私たちにも前例がありません」
褒められたのか疑われたのか分からない。
夜、ポロが新しい三者鍵の箱へ、自分の爪で停止印を刻んだ。ルクも見学に来たが、接続試験への参加は断った。俺は理由を聞かず、同じ配給札を渡した。
「断っても、本当に何も取られないんだな」
「取らぬ。気が変わらなくてもよい」
ルクは初めて俺の目を見て、小さく頷いた。
評議区画を出る時、ミーナが地下階段の前で立ち止まった。耳を伏せ、床へ鼻先を近づけている。
「どうした」
「風が変。主核からじゃない。試験区画の床下で、何かが私たちの歩幅を数えてる」
彼女が後ろへ跳んだ瞬間、さっきまで立っていた石床が音もなく開いた。
底には、同意鍵と同じ青い光が幾重にも並んでいた。




