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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
ビアン旅行記

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第二十八回

凍土の停泊、白紙の季節


 南へ進むにつれ、海の色は鮮烈な青から、命を拒絶するような灰白色へと変わっていった。

 風はもはや帆を動かす友ではなく、船体を砕こうとする氷の槌だった。四隻となった船団は、南端の荒涼とした入江に逃げ込むようにして停泊を余儀なくされた。越冬。銀のペンが記した「世界一周」という輝かしい記録が、沈黙という重圧に押し潰される時間だ。

(下書き:この場所には、生命を繋ぎ止める「文字」が一つも存在しない)

 凍りついた甲板に立ち、鉛筆を握る。だがあまりの寒さに芯は脆く砕け、指先は感覚を失っていた。

 越冬が始まって二ヶ月。船内を支配したのは、寒さよりも恐ろしい退屈と飢えだった。限られた配給、凍りついた樽、船壁を叩く吹雪の音。男たちは暗い船底で、王宮の記録から忘れ去られたのではないかという疑心暗鬼に駆られていた。

「薪が尽きた。このままでは、次の夜明けを見る前に半分が凍死する」

 ヨンギの声も、氷の粒が混じったように掠れていた。規律という名の銀の筆致が、寒さという物理的な暴力の前に霧散していくのを、無力感と共に見つめていた。

 ビアンは船団で最も凍えが激しい『玄武』へと向かった。豊山犬が黙ってその後に続く。

 氷が張り付いた壁に、震える手で小さな円を描いた。

(下書き:この円の内側だけは、ハニャンの春の陽だまりが残っている)

 現実を書き換える命懸けの虚構の避難所だ。だが冷酷な自然の摂理を書き換えるには、あまりに巨大な代償が必要だった。

 キュリ、キュリ……!

 消しゴムを壁に叩きつける。代償として剥がれ落ちたのは、都の春に咲き誇る木蓮の花の白さの記憶だった。白という色の美しさが消え、ただの無機質な空白へと変わる。引き換えに、円で囲まれた壁が微かな熱を帯び、力尽きかけていた船員たちの呼吸に生気が戻った。足元で豊山犬が丸くなり、その体温が一番近くに倒れていた船員の手を温めた。

 吹雪が一時的に止んだある朝、ビアンは雪に覆われた海岸線に、信じがたいものを見つけた。

(下書き:……これは、人の歩いた跡?)

 ビアンの体躯さえも小さく見えるほど巨大な足跡だった。この極寒の地、記録の果てに、自分たちよりも遥かに強大な別の住人が存在する。

「おじさん、ヨンギ様。見て。まだ、この世界には清書されていない生命がいるわ」

 巨大な足跡は、絶望に沈んでいた船団に、恐怖と、それ以上に強烈な未知への渇望を呼び覚ました。

 越冬という沈黙の季節。ビアンは自らの記憶を削りながら、二百人の命を白紙の死から救い出そうとしていた。

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