鈍色は泥の中で眠る
プロローグ
弱々しい白い息が地中から上がっている。
薄い呼吸を起こす肺は寒さで潰れてしまいそうだった。
吸う空気のなかに、嗅ぎ慣れない草木の匂いがする。ぱくぱく震える唇を開けば、口に含んだことのない、土の味がする。
泥に埋もれながら自分は山に捨てられたのだと、ぼろきれのような子どもは己の境遇を俯瞰していた。
この子どもは先月、九歳になったばかりだった。
生まれはわからない。物心ついた頃には親はおらず、国境の端をなぞる谷間の集落で過ごしていた。
過ごしていたというより、働かされていた、の方が正しいだろうか。
隣国と戦争を起こし、現在戦争中のこの地、ニルヴィーナ。
この国の行く末はきっと長くない。そう悟った国民たちは生きるために必死だった。食糧は日に日に減りゆくばかり、状況は悪くなる一方である。男手は酷くて半日に一人集落から消えていく。みな、日々喘ぎ、年端もいかない子どもが口減しに捨てられる。――それが、いま地中にいる子どもだ。
捨てられたというよりは『埋められた』という表現が正しいくらい、その子どもは泥を被っていた。
まるで枯れ木を地に突き刺したような、生気のない枯れ枝がその身を空に上げる森。
集落では不帰の森と呼ばれる場所に連れて来られたとき、子どもは逃げなければ、と思った。やせぎすの体では抗えられる力は出ない。九歳の少女が出せる力など、たかが知れている。
集落を出る直前に食べた食事は少しだけ豪華だった。食べている間はただ興奮だけが頭の中を支配していたし、料理を振舞ってくれた大人に感謝さえ感じた。
だが、大人たちが嬉しそうな顔をしてすぐ、険しい顔で下を向く意味が分からなかった。
今、子どもはすべてを理解する。
あのご馳走は、最後の晩餐だったのだ。
頭を鍬で殴打された。二度と帰って来れないよう、自力で上がれないほど深く掘られた穴に落とされたところまでは覚えている。
人食い狼が出る、と村で恐れられる不帰の森に連れて来られた時点で、殺されるとは考えなかったのだろうか。――それともご馳走に盛られた薬物で正常な思考が可能な頭ではなかったのか。
ふわふわと視界はまだ揺れている。頭の中が祭りでも始めたように、ぐわんぐわんと脳が割れる耳鳴りを打ち鳴らす。気分が悪い。せりあがる胃液には血が滲んでいたし、子どもの頭部からも血が滴っていた。最悪の気分だ。
だが、まだ死ねるような気分ではなかった。
――自分のことが知りたい。
子どもは、昔から自分がおかしいと理解していた。
人の機嫌が手に取るようにわかる。
笑顔の裏の感情や、向けられる視線の意味が分かる。
人間同士の関係が、その人物を見ただけで分かる。
子どもは、浅い息を吐きながらなんとか首を傾ける。
依然体は埋もれたままだが、息のしやすい場所を探さねばいずれ窒息死するだろう。
こうならないように、人の顔色を見ながら生きていたつもりだったが、その行為は恐れを抱かせた。
九歳の子どもにしては可愛げのない、自分の意志がない、空気を読み過ぎてしまう子ども。
相手が何を望んでいるか分かる、心を読まれる不快感。
自分は人間ではないのかもしれない、と侮蔑の目を向けられる度に子どもは思った。
昔話に出てくる怪物と同じことをする子どもは人々に恐れられ、しかし交渉事には利用できるため、小間使いとして取引には同行させられた。
だから、まだ自分には利用価値があると子どもは思っていた。
しかし、そんなことを言ってられないほど、集落は困窮していた。
穀物などなく、豆や雑草を茹でて食べる日々。自給自足をしようものなら、集落の中で盗みが起きる。長がいたとして統率など取れるわけがない。
「……かえりたい」
変える場所も家族もいないのに、どこに帰るというのか。
帰る家がほしい、帰りを待つ家族がほしい、人と恋をしてみたいし、おとぎ話のような運命の出会いをしてみたい。
走馬灯のように、やりきれなかった夢がポンポン頭の中を跳ねていく。
意識は混濁し、なにが夢か現実か分からない。
耳の奥を震わせるのは頭痛か、それとも人食い狼の足音か。ガザガザ冷えて硬くなった地面を蹴るような音がする。心なしか、遠吠えのような音も聞こえてきた。悪夢であれ、と少女は願うが現実は決して優しくないことを知っている。
泥の粒が口に入り、気管に入って噎せ込んでしまう。貴重な体力が口から抜けていくのを感じながら、少女は死の足音が近づくのを待つことしかできなかった。
「ここは私有地だというのに、また塵が捨てられているな?」
塵、と呼ばれた少女は大きく噎せ込んだ。
声に反応し、聞き取れなかった言葉を反芻しようと口を開いたのも束の間、地中にいることを忘れ泥を吸い込んだのだ。その咳で体力を使い果たしたのか、手足の力が抜けていく。
『死んだ原因が咳だなんて、やな死に方だな……』
か細いつぶやきが地面の向こうに届いたかわからないが、咳のおかげで塵が生きている人間だということは伝わっただろう。
少女は今度こそ全身の力を抜くと、ほんのり温かくなった地中に意識を手放した。